町家が鰻の寝床になった訳?

篠田ほつう

2008年02月12日 10:17

 二条駅の西側周辺の町家も、雪に埋もれました。ここ喫茶・雨林舎は、オーナーの・ちほさん・と愉快な仲間が集うくつろぎの空間です。ユニークな創作ランチは、野菜も豊富でおいしいですよ!。私のおすすめは何といってもほんとの生姜(しょうが)でつくるジンジャエール。ホットでもアイスでもどうぞ。

 

 さて、「まちや」という呼び名は既に平安末期の書物にあらわれますが、京に町家が増えだしたのは戦国期のようです。天下を意識し、紳士的な振る舞いで入洛したのは織田信長が初めてでした。地子税を免除し、定住者を増やすなど、荒廃していた当時の首都・京都を再興していったと申します。やがて商業活動を行った庶民が職住一体の住居を構えるようになったのが町家の原型といわれています。



 そして、豊臣秀吉の時代には家の間口の広さに応じて地子税を課し、町衆たちは負担を軽くするために間口が狭く、奥行きを深くした。これが「鰻の寝床」の所以との説がございます。但し、どうもこれは、最近の研究では、俗説で、誤りのようですね。どの文献にも見当たらないといいます。
 通りに多くの家屋を建ち並ばせるためには、必然的に間口が狭く、奥行きが深くなる。 京都に現存する町家は、1864年の蛤御門の変ののちに発生した大火(どんど焼)以降に建てられたものがほとんどである。(wkipedia)のだとか。
いずれにしても、光のさす天窓、風通しの良い通り庭、水禽靴のある坪庭など、細長いスペースの中に町衆の知恵がつまっているのでございます。



 また、徳川三代将軍・家光は上洛にあたって三十万余の大軍を率い、その権威を都にしめし、一方で五千貫の銀貨の配布や京中の町家地や畠地の地子免除をおこなうなど上方融和策をあめとむちのごとくおこなっております。 



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