古都に咲く見事な霧島つつじ

篠田ほつう

2009年04月26日 09:04

 いよいよゴールデンウィーク突入。世間では16連休の方もおられるのだとか、うらやましいですねえ!私などそんなに休んだら、たちまち生活破綻ですなあ。ただ、不景気で仕事がないことに起因するという話もあったりして、複雑な気持ちですね。
 京都市を少し離れて、かつての長岡京のあったところ、その名も長岡京市などいかがですか。長岡天満宮では、見事な霧島つつじのトンネルが満開でした。



 社伝によると長岡天満宮の鎮座地長岡は、菅原道真が生前に在原業平らと共に、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだ縁深いところ。 道真が太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しみ、自作の木像を祀ったのが神社の創立とされる。その後、寛永15年(1638)に、八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造されたといいます。中堤両側に樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられています。





 さて、この長岡天満宮は「開田天満天神社」として、開田村の氏神として、乙訓郡開田村西小路集落内(限定は困難)にあったようです。
 菅原道真の大宰府左遷の折に付き従ったのが、菅原氏の一族とされる中小路宗則で、宗則は高槻まで同船し、帰り際、道真から道真自作の像と念持仏を託され持ち帰って、道真の死後に、自身の精舎に安置したことが始まりと伝えられています。
 戦国時代には、中小路氏は、乙訓郡開田村(かいでんむら)に開田城を築き、地侍化し西岡地域の中でも、有力国人衆へと成長を遂げていきます。乙訓・西岡地域の土豪たちは、それぞれ国衆として、地域の自治的運営を目指す国一揆を結んでいきます。この頃に、中小路氏が開田天満宮を創祀し、現在の長岡天満宮へと発展することになるのです。



 阪急の長岡天神の近くのマンションの一階という実にユニークな形で、開田城の遺構が残され、復元模型が展示されています。国衆の居館は彼等の活動の拠点として重要な役割を果たしたのですが、開田城はそうした居館の遺構が残る貴重な例となっています。
 発掘調査では、深さ約一メートルの堀をめぐらし、土塁(土で築いた城壁)に囲まれた典型的な構造が明らかになりました。堀立式建物や石組みの井戸の跡、竈や当時の食器類も発見されています。土塁は、外側の堀を掘った土を積み重ね、たたきしめる版築という工法で作られた丈夫なものであったといいます。





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