鹿たちと戯れる

篠田ほつう

2009年12月26日 01:49

 今年最後の史跡学習会は、少し足を延ばして、奈良の東大寺、春日大社を巡りました。私自身は、学生の頃いらい何と27年ぶり、久しぶりの鹿たちとの再会(?)、境内やその周辺にほんとに普通に鹿たちが歩いている姿に感動しまくりでした。奈良ならではですよね。



 さて最初にご紹介するのは、東大寺戒壇院、かの鑑真和上が、登壇授戒が出来るよう五台山の土を持って設けた我が国最初の戒壇です。(初の授戒は、753年(天平勝宝5年)12月26日、太宰府観世音寺でした)
 では戒壇とは――、
 仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要があります。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(授戒)を行う必要があります。戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているのです。



 鑑真和上は、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し、東大寺に住することに。東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立されました。その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に天下三戒壇が設置され、仏教界における戒律制度が急速に整備されたのです。
 では、何故、大和朝廷が遣唐使まで派遣して鑑真和上を我が国に招請したのでしょうか。そこには当時の政治情勢が色濃く反映していました。天平時代、天下泰平の年号とは反対に時代は、天災(飢饉、地震)、疫病の流行、唐や朝鮮半島、渤海などとの国際関係の緊迫、律令による税負担にあえぐ民衆の反抗と相次ぐ政変に揺れていました。
 天平9年(737年)に至っては、天然痘が流行し、最高権力者である藤原四家の領袖すべてが病死するまでの惨状を呈した程でした。疫病を払い、国家鎮護を願って、全国に国分寺、国分尼寺の建立とその中心として東大寺大仏殿の建立が詔されることになります。(井沢元彦氏によると、長屋王を筆頭に、持統・藤原王朝によって罪なくして殺害された皇子たちの怨霊封じと天皇家の子宝祈願を主目的に建立されたといいます)



 全国に仏教が普及するなか、多くの僧侶が必要となってきました。大仏開眼の折には、一度に3000人が得度(僧になること)したと伝わります。また当時、僧侶になると租庸調などの重税を逃れることができた事実ともあいまって、巷には、勝手に得度する俄坊主(私度僧)が溢れ返っておりました。まさに当時の仏教界には規律もなにもない無法状態が広がっていたのです。
 朝廷は、日ノ本に戒律をもたらすため、また仏教界の統制をはかるため、藤原清河を大使、大伴古麻呂を副使とする遣唐使を派遣して、鑑真大和上の来日を招請しました。唐の玄宗皇帝は高名な僧である鑑真を国の宝として扱い、唐からの出国を固く禁じていたため、密航ともなり、大変な航海の末でしたが、鑑真和上は仏舎利を携え、みごと北九州へ上陸を果たしたのです。(最近の研究では、直筆の書が見つかり、この時、鑑真は完全に失明していなかったとの見解が有力です)



 火災のため、現在の戒壇院は1731年に再建されたものですが、堂内の中央には多宝塔をまつり、愛染明王坐像、鑑真和上坐像、四隅に国宝の四天王像が安置してあります。さすがに天平彫刻の秀作といわれるだけあって、なんともいえない時空オーラが漂っていました。感動です。撮影禁止のためお見せできないのが残念です。
 
 


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