桂女恋花 革嶋一族の攻防
巻の一 桂の里
第一章 脱出、二条御所
一
永禄八年五月十九日(一五六五年六月二十七日)、京――。
世は、戦国時代の真っ只中、度重なる政争で荒廃する京の町。たんびたんびに、町衆の意気込みで、何度も建て替えられた町家群。切妻屋根に、板や藁ぶきで、丸太石を載せた簡素な平屋が、ずらりと並ぶ。
酒屋、干物屋、青物屋、烏帽子屋、扇屋、風呂屋といろいろあって、牛車も通る。室町の四条あたりは、人々が行き交い、賑わいを見せていた。
「やれ、おもしろや、えん、京には車、やれ、淀に舟。えん、桂の里の鵜飼舟よ。生き生きと飛び跳ねし姿の若鮎と、ほんに美味しい桂飴はどうどすか」
と威勢のいい口上を述べながら、九十九(つくも)は竹の桶に入れた若鮎の酢(燻製)を、名物として名高い桂飴とともに売り歩く。
五尺に足らない小柄だが、色白で細身のいい女。どちらかというと、狐顔、口を閉じると、ちょっぴり八重歯が覗いて愛らしい。
昨日まで降り続いた雨が、まるで嘘のよう。梅雨時の合間に見せたお天道様が、目もくらむほどに眩しかった。
「今日は、ええお天気さんやな」
雨が降っては商いにならぬから、久しぶりの晴天は、まだ齢十八の乙女の心を浮き浮きさせた。若くても、しっかりものの商い上手と評判だ。濃紺地に楓葉を絞りぬき、胴あきの部分に浅葱水玉、肩と裾とに文様をあしらう、辻が花の小袖姿。
頭には、桂包みといわれる白布が、巻貝のようにぐるぐる巻いて締めてある。ふっくらと少し余裕があって、裾回しも短めの桂女装束は、実に軽快で、動きやすかった。
九十九の日常は、西岡・桂の里より出て、若鮎や桂飴を京の町で振売する桂女だ。今日も、賑わうこの下京の町で行商をしていた。その時、西洞院あたりの風呂屋の前で声が掛かる。
「姉さん、若鮎を一つ、おくれやす」
この年、いつもより少し暑めの日が続く、晩春の日に焼けて、少し赤みを帯びた細長い手が、すばやく九十九の手を引いた。身の丈は当時の又四郎尺(三十・二五八センチ)で五尺二寸(一五七センチ)、当時の女としては、かなりの大柄だ。
時の十三代将軍・足利義輝の御詰番衆・朽木成綱が配下の青葉は、九十九と同じ、齢十八になる乱波である。
革嶋庄で、幕府御被官衆・革嶋一宣の配下にあたり、桂の里、大八木衆棟梁・伊波多の婆の孫娘でもある九十九とは、共同戦線の同志だ。とはいえ、この時代、いつ敵味方になるやも知れないが、気にせず、友としてつきあいをしていた。
二
九十九と青葉は、周囲を気遣いながら、近くの草鞋屋のばったり床几に腰を下ろした。
素朴に纏められた頭髪、白と薄緑の段替わり織物に身幅豊かな小袖を羽織り、少しぽっちゃりと鰓の張った浅黒の顔に苦痛の表情を浮かべながら、青葉は耳元で囁いた。
「御所様で異変や。三好三人衆と松永弾正らの一派が押し入ったし。町に散らばっている同志も、総結集や。急ぎや」
「何やて……、分かった」
九十九は、驚いた。昨年、長慶が没し「ようやっと公方様の手で、幕府の権威が戻りつつあったはずやのに。何でや」と思いながら、
「仁右衛門はん。若鮎、ちょっと預かっててなあ」
と、若鮎がまだ数匹入る小振りの桶を、草鞋屋の仁右衛門に手渡した。
桂川の右岸、西ノ岡丘陵の大竹林で育つ竹は質が良い。この頃はまだ、矢柄に用いる箟竹(のだけ)であった。桶自体も売り物になる逸品だ。
か細い手で桶を受け取る小男の仁右衛門は、目を見開き、どんぐり眼でこけそうになる。
「おっとっと。えっ、どうしたんえ。早よ取りに来な、食べてしまうよって」
鮎はもったいないけど、それどころではない。
「それなら、それでええよ」
「ふん、そうか、けったいなやっちゃなあ」
仁右衛門は首を少し斜めに傾げた。何とも不可思議そうな表情をしている。
「青葉、急ぐえ」
言うが早いか、九十九は、桂女装束の小袖の裾まわしを少したくし上げた。妖艶な恰好で、青葉と一緒に人々の喧騒の中を駆け抜けていく。青葉が、慌てて続く。
「それはうちが言うたし、もう待ってえなあ」
九十九は駆けた。京の上京と下京を繋ぐ室町小路を、力いっぱい駆けぬけた。公方様に変事が起きた……、それはまた「秀存様の身辺に異変が起きた」ということや。
九十九にとっては、思いを寄せる秀存の方が気にかかる。
「そんなことって、あるん。和睦がなってから、久しいやないの」
「三好党は、清水さんのお参りや言うてたんや」
「そんなんって」
義輝御詰番衆である革嶋秀存(一宣の嫡子)に仕える乱波として、主人への思慕は、いや、それ以前に、色恋そのものが厳禁であった。
まだ月の物も出ぬほどの幼少よりの乱波修行。女になるのは、諜報の武器との教え。「そんなことはよう分かっとう」と何度も自問する。さりとて、まだ齢若い九十九は、熱く燃え滾る乙女の思いを抑えきれないでいた。
三
北は近衛大路、南は椹木町通、東は烏丸通、西は室町通に広がる、義輝の二条御所。
陣羽織に小紋股引、胴丸、この頃、流行の当世具足といった装束の指揮官、騎馬武者が数十騎と、それぞれの周りを家臣たちが固めている。
更には、槍隊、弓矢隊、腹巻姿の雑兵を中心とした足軽・鉄砲隊が一面を、蟻ん子一匹さえも這出れぬほどに、埋め尽くしていた。
「こんなんでは、中に入れへんなあ」
九十九は、桜の馬場から様子を窺いながら、さすがに、ふう、ふう――、と息を切らしていた。
「うん、どないしょう?」
そこへ、大八木衆の一人、九十九の兄の小七郎が近寄ってきた。
身の丈六尺はある色白の大男。渋染めの胴衣に裁着袴の乱波衣装、編み笠の奥から、すっきりとした細面が覗く。
「九十九、修行が足らん。息を切らしておるやないか。それに、汗の臭いがする」
上から見下ろされ、九十九は、はっとなった。
はみ出しそうな豊満な乳房を気にして、乱れた衣装を整えながら小七郎に噛みつく。
「兄上こそ、お近づきになる前に口から少し臭いがしましたよって、それでは敵に悟られます。臭い消しの秘伝、忘れてはあきまへん」
小七郎が、少しむっとした表情をしている。九十九は「一本取ってやったわ」と得意になった。この日、朝から妙に気分の良かった九十九は、顔に、白粉を綺麗に塗って、上唇と下唇に、ちょんちょんと、少しの紅をつけていた。
「なんや、化粧など乱波には必要ないよってに。香の臭いも少し……」
「やり返されたし、町中にいましたよってや、おやかましさんや」
「やはり、女を捨てきれへんか……」
九十九は「この齢まで、共に生きてきた兄のこと、見透かされとう」と思った。
「もう、兄妹喧嘩してる時やない。小七郎様、部隊の様子はいかがなん?」
と尋ねる青葉の頬がぽっと赤くなる。九十九は「兄への思慕や」と感じる。
「優に一万は超えるかと。まだ取り囲んでおるだけで、動きはない。三好長逸は知恩寺、義継は革堂、松永久通は、相国寺常徳院に止宿してた。お公家さん方も、太刀や礼銭を持参して挨拶に行ってたくらいや。迂闊やったのよ」
「中に入る手立ては、あるん?」
九十九の問い掛けを掻き消すように、どど~ん、と火縄銃の銃声が木霊した。
「あっ、あの音は、国友の新式や。公方様の鉄砲隊や」と青葉が嬉しげに叫ぶ。
数百の義輝の鉄砲隊が、北門から一斉射撃を浴びせた。構えた撃ち手からは二十五間(四十五・五メートル)もの距離があったが、松永久通の軍勢の前方隊が、一斉に崩れる。当時の常識でいう十五間からしても、かなりの威力だ。
「下がれ、下がれ」と怯んだ久通隊が、一旦、馬場の後方まで退却をした。
「新式の威力恐るべき。国友物は、堺の物よりも、張り立てが丹念で、銃身が強固やからできるわざや。よし、今や。突入するよって」
小七郎の絶叫とともに、桂包みの白布を数箇所の結び目にし、用水桶の水に濡らして、投げ掛ける。次いで、小七郎の肩に乗り、北塀を次々と乗り越えた。
四
整然と整備された小松の庭園、小石を敷き詰めた州浜の池と、橙に柑子、朱に藍と色とりどりの紫陽花たちが咲き誇る。御殿には、主殿(常御所)、対面所、小座敷、御末さらに、茶湯所、風呂、蔵、雑舎と続く。
御座所で義輝が、白衣の着流しのまま、奉行衆を前に、すでに末期の食を摂っていた。
襖一枚奥の控えの間。九十九は、御詰番衆の朽木成綱と革嶋秀存に、繋ぎを取った。
九十九は「秀存さま、ご無事でおましたのや」と心中でそっと安堵し、廊下の脇に、すっと控えた。
うるうると目にいっぱいの涙の雫が、今にも零れそうになる感覚を感じながら、秀存を凝視したのだが、ぎょっ、とされ、視線を逸らされた。
「九十九か? 外の様子はどうや?」
秀存は、すっきりとした顔立ちの美男子で、体は細く小柄。学に優れ、冷静かつ沈着、有職故実などにも通じる切れ者。口調は、いつも淡々と無機質な感じだ。
九十九はいつも、この愛想のない男に、むっとさせられながらも嫌いになれない。
「はっ、義輝様の鉄砲隊の発砲にて、一旦、馬場後方まで退却しとります」
傍らから、五十歳の成綱が、半分も白髪まじりの頭髪を少し傾け、隅立四つ目結の家紋の羽織の間から麻の手拭を取り出した。首筋の汗を拭い、九十九にゆっくりと問うてきた。
「兵力は量れようか?」
「優に一万は超えるか、と」
秀存が、驚いた様子をしている。
成綱が、口元に笑みを浮かべながら秀存に囁いた。
「神功皇后以来、供御人として朝廷に仕えし巫女たち、その上、美女ぞろいと聞く。配下にそのような一族をお持ちとは、革嶋殿がうらやましきことでござるよ」
「そうですかなあ。女いうんは、時に感情をあらわにします故、扱いにくうおます」
淡々と返す秀存の肩筋には、悟りの窓とも称される壁の丸穴から西日が射していた。
藍染め羽織の青にくっきりと、丸の内五本骨扇に月、革嶋家の家紋が映える。
九十九は、少しむっとしたし「こんな時に、まったく、何を悠長なことを、確かにすぐに怒ったり、泣いたり大変やとはおもいますけど」と心中でそっとつぶやいていた。
八半刻ほど後、控えの間にいる秀存らが呼ばれた。
「左兵衛、市介は控えておるか」
「はっ、こちらに」
九十九は控えの間から、そっと様子を窺った。
五
主殿の欄干下から、朱色、藍色、紫と色とりどりの紫陽花が迷路となった庭園を抜け、雑舎の一角に、乱波の者どもが、結集していた。打竹や袖火、石筆、忍薬といった、諜報の道具を点検する者。忍び刀を磨く者。控えるおおよそ男女半数の数十人の乱波たち。
「よかったな。革嶋の若様、ご無事なのやな」
後列に鎮座した九十九の首筋に、青葉が手を廻し、頬を摺り寄せ、得意げに囁いた。
「何で分かるん?」
「嬉しいときに、上唇を舌で舐める癖。よう分かるし」
九十九は「ふ~ん、うちにはそんな癖があったんや。青葉はうちのこと、よう見てくれとう」と心中で思いながら、そっと微笑を投げ返す。
皆がざわつく中に、革嶋秀存が音も立てず、すっと現れた。にもかかわらず、朽木衆、大八木衆、一斉に静まり返り、鼓動さえも聞こえぬ静寂が訪れた。
秀存が珍しく、強い口調で命を下す。
「総勢でもって、地下蔵より宝物を運び出せ。その後、政所代様と熊千代君、乙若丸様、兵部小輔様の御一行を、朽木衆、大八木衆与一組、小七郎組とそれぞれ、三手に分かれて護衛し、お逃がし申し上げる」
九十九は「政所代様は、長宗我部と縁戚のはず。四国やな」と読む。
「朽木のものは、石谷兵部小輔様らと北へ、若狭方面へ。与一組は、乙若丸様と北川様をお守りし、南都へ、小七郎組は、政所代様と西国へ向かえ!」
勘の鋭い九十九は「やはり、おうとった」と我ながら感心した。
さっと波が引くごとく、乱波集団がその場を離れた。
「青葉は、北か、しばしの別れや」
九十九は、青葉の手を力の限り握り締めた。いずれ訪れる別れと分かってはいたが、やはり辛い。部族は違う。でも、一生の友でいたい。そう思える女子であった。青葉と一緒に、京の町を駆け抜けた思い出の情景がよみがえる。
青葉もまた少し涙交じりの表情だ。
「うん、きっと、また京で……。敵には成りとうないな」。
「うん……。小七郎兄さんも一緒にな」
手を取り合っている九十九と青葉に、秀存がいらついて、叱責をした。
「何をしておる。急げ」
「はっ」
九十九は「また叱責されたわ」と思いながらも、秀存の何とも言えない、どことなく無機質な言いようが、また、たまらなく好きであった。
六
九十九らは、蜷川親長と熊千代とともに、渡り廊下から白書院へ入った。
蜷川親長は、恰幅のいい、大きな福耳のふっくらとした顔立ちをしている。
九十九は「まあ、大きな耳や。それに、よう肥えてはる。ええもん食べてはるんやろな」と思う。もちろん、そんな感想は口には出さない。
押板、棚、付書院を設けて、唐物を飾る座敷飾り。身分の高い人の座るために設けられた、一段と高い床。秀存が、屏風の裏の仕掛けに触れると、壁裏に隠された地下蔵への入口が、ぽっかりと開いた。
九十九は「えっ、こんな仕掛けがあったんや」と驚いた。
秀存と小七郎が、先に入る。だが、親長が飾り棚の上の茶碗を見て、不意に立ち止まる。
「しばし……」
九十九は、後ろから、続こうとして、思わずぶつかりそうになる。
「おっとっと。政所代様、いかがなされました? お急ぎなされませ」
「うむ、しばし待たれよ。この漢作の富士茄子は、公方様がこよなく愛したもの、いずれ価値あるものとなろう。持ってまいる」
九十九は「只の薄黒い茶碗に、いったい何の値打ちがあるんやろ」とは思う。
「ささっ、早く中へ」
細長い石段を螺旋状に降りると、大量の銀や火薬などがしまわれた長持が並んでいる。
鳴り子を外し、朽木衆、大八木衆のものどもが、静かに、可能な限り運び出した。
九十九らは、松明の明かりを頼りに、地下通路を急いでいた。その時。
「あっ、うわ~ん、え~ん」
と熊千代が、湿った、つるつるの岩盤に足を取られて転がってしまい、泣き出した。
まだ袴儀の儀式を終えたばかりの六歳の男の子だ。慣れぬ十文字結びの袴も初々しいが、足もおぼつかない。「おちびちゃんはこれやから、ほやけど、この齢で無理やわな」と思いつつ、励まさねばならない。
「しっかりおし。熊千代君は、おとこしさんやろ」
熊千代を抱きかかえて起こし、背中に背負いながら、九十九が諭す。
「うん、ぐす」
「若君、おとこしさんはな、女子の前で、悲し涙は見せるんやおへん。見せてええのは、生まれた時の、おぎゃあ、の泣き声と、大願成就の嬉し涙だけや。よろしいな」
「うん……」
小さな手で、必死になって、涙を拭う熊千代は、ほんに健気で、いとおしいほどだ。この若もまた、戦国の世に、振り回されねば、ならぬのや、と不憫にも思えてきた。
かつての政所執事の遺児、のちの伊勢貞興が、明智光秀と命運を共にしようことなど、もちろんこの時の九十九は、知る由もない。
足利義輝の二条御所跡は京都御所さわら木門にある。
七
地下蔵横の通路は、将軍邸より少し北、林の中の地蔵堂に繋がっていた。そこより林を抜け、相国寺の南門より、本坊裏の土蔵に至る。運び出した物資のほとんどを、その土蔵に運び込む。
土蔵横では、作務の便宜用に、軽く仕立てられ、絡子形式の五条袈裟に、すっぽり身を包んだ老僧が迎えてくれた。禅宗独特の姿で立っていたのは、第九十一世の相国寺住職・仁如集堯和尚であった。
四尺五寸ほどであろうか? ずいぶんと小柄だが、和尚の凛とした、まるで後光が射しているかのような気品に、少し圧倒された。
九十九は「まばゆいばかりや。悟りの境地を開いたお方とは、このような者なのやなあ」と感じ入る。
「法主殿、此度は少し長こうなるやも知れませぬのや。よろしゅうお願い申しまする」
と傍らの親長が懇願すると、和尚は、親長の手をぎゅっと握り締め頷いた。
「しかとお預かりしました。ご心配は、要りまへん。室町幕府建武の折より、足利将軍家の財をお預かりしてまいりました五山の名に懸けて、守り通してみせますよって」
九十九は「ほうか、足利家の財産は、こんな風にして隠してたんや」と感心した。「里も、せいぜいお寺と仲良うしとかなあかんなあ」とも思う。
「かたじけない。時に、鹿苑寺におわします公方様の御弟君(現在の俗称金閣寺・住職の周暠)は、ご無事でござろうか?」
不安そうな表情の親長に、和尚は、合掌し、静かに首を横に振った。
「さきほどの急報にて」
「そうでありましたか……」
政所代様は、相当に気落ちしておられる。九十九は「この方はいつも、ほんに幕府の行く末を考えておいでや、何としても、生きて逃げ延びてほしい」と思った。
うなだれる親長に、茶水晶の京念珠を手渡しながら、和尚が続ける。
「お守り代わりでおます。政所代様、境内には松永久通殿の軍勢も止宿しとりまっさかい、見つからんうちに、ささっ、急ぎなはれ」
一行は、寺の北門より、静かに抜け出した。よし、うまくいった。一仕事を終えた安堵感に浸る間もなく、秀存より、次の命が下った。
「九十九、細川殿が、洛西より、救援に向かわれておるはず。そなたが、繋ぎをとれ」
「はっ」
九十九は「やれやれ、また、走らなあかん」と、うんざりした。
されど同時に、和歌、連歌、有識故実に優れ、奉公衆の華と噂に聞く細川藤孝とは、いったいどんな人や、と期待に胸を膨らませてもいた。
八
またも九十九は駆けた。
秀存より預かりし駿馬の月影。栗毛に所々が鮮やかな朱の毛並みの名馬は、日に百里も駆けると噂される。京の街から、ひたすら南へ駆けた。
上京から二里と五町を、四半刻で駆け抜ける猛進ぶり。
焼失後、再建されたばかりの東寺の五重塔を横目に、かつての平安京の羅城門の跡地付近に至る。当時、すでに原っぱとなっていて、何もない。
洛中と青龍寺のある山崎あたりを繋ぐ道は二つ。真直ぐ鳥羽作り道を下がり、桂川を越え、久我畷を通り、山崎に抜けるか、あるいは西国街道を一路、西へ進むかだ。
どっちから来るのや? 九十九は、はたと迷った。西国街道と作り道の交差で、馬を止めた。
ひひ~ん、きゅう~ん――。
急に制止させられた月影は、前足を蹴り上げ、慌てた素振りで首を、ぶるるっ、と振っている。
「どうどうどうどう、ごめんやで、ちょっと待ってなあ」
九十九は「『困った時は、神々のお告げに、身を委ねよ』やったなあ」と伊波多の婆の教えを思い出し「やはり占いしかない」と判断した。
桂女は、代々続く、巫女の一族でもある。九十九は、幼少より、感が異常にするどく、占いや籤を外したことがない
「石清水におわします南無八幡大菩薩、市杵島姫神様のご加護あらん……、天、地、玄、妙、行、神、変、通、力、勝」
呪文を唱え、小枝を地面に突き刺し、卍に空を切り、「エイ、ヤア」と刀印を打ち下ろし、風を送った。「倒れたほうや」と一心に念じる。
九十九は、低湿地に、人の手で土盛された、最古の人工道である鳥羽作り道を選んだ。
かつての平安京の羅城門から、真っ直ぐ南に通じ、桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所へと繋がる。久我森ノ宮から南西方向に、久我畷が延び、山崎へ至る。
「行くよ、月影」
馬の手綱を絞り、急いだ。
五町ほど進むと、鴨川に架かる木杭の小枝橋。橋の向こうに広がる街道の前方から、連銭白栗毛の珍らしい毛並の白馬に跨った武者が来る。
小袴、白小袖、竹の葉模様の麻の狩衣を羽織り、立烏帽子を被り、肩から胸当てを流す公家風の戦闘服という姿が、九十九の眼前に、悠然と飛び込んできた。
続く騎馬武者が数十騎。ずんずんずんと、足音を立てて、進んでくる。
「あっ、あの旗指物は、何と煌びやかな金の六本撓(しない)、細川様の馬印や」
その頃、用務のために訪れていた青龍寺城(現在の長岡京市勝龍寺)から急ぎ帰還して来た細川藤孝の一行に間違いない。
九十九は「よし、おうとった! うちは、負け知らずや!」と心の中で歓喜した。
藤孝に近づくと、九十九は馬から飛び降り、手綱を持ったまま、礼を取り、声を掛ける。
「しばし、しばし、お待ちくださいませ」
「そちは、何者であるか?」
九十九は、白馬に跨った背の高い藤孝から、見下ろされる。胸には鮮やかな桜崩しの家紋が浮かぶ。ゆっくりと優しい口調、澄んだ瞳で見つめられ、一瞬「ドキっ」としてしまった。
はっきりと浮かび上がる太い眉、大きな瞳に、高い鼻、鍛え抜かれた体がしなやかに反り返り、姿勢を正すと、公家風の衣装を一層惹きたてる。
九十九は「うわっ、ほんに凛々しいお姿、噂どおりや。たまらんわ」と、つい、うっとりとして藤孝を注視していた。
「そちは、何者であるか、と聞きやるに」
ぼっとしている九十九に、それでも尚、静かにゆっくりと、藤孝が問うた。
九十九は「しまった」と気を取り直す。
「あっ、はっ、申し訳ありませぬ。ご無礼の段、ご容赦。詰番・革嶋の配下の者にございまする。亡き公方様より御内書これあり、しばしお待ちくださいませえ」
藤孝の顔から血の気がさっと引き、まさか、信じられないといった様子が露になっっていく。
「何! 亡き公方様と言いやるか?」
「はっ、公方様におかれましては、さきほど辰の下刻、三好党の手の者らによって討ち取られ、御逝去なされましてございます」
「何と……」
藤孝は動揺を隠せず、馬に跨ったまま、呆然と、翳り始めた曇天の空を眺めていた。
九十九は「この人もまた、公方様を、ほんに大切に思うておられたのやな」と感じいった。
九
藤孝は、気を取り直した様子で、従者に問うた。
「近くに休息の場は、あるか?」
従者が、懐から、この頃まだ貴重な、木綿の手拭を取り出し、藤孝の汗を拭う。
「はっ、ほん一町余に、袈裟御前の恋塚で名高い、浄禅寺がありまする」
「うむ、良し、皆のもの、寺に移動し、馬を休めよ」
一行に浄禅寺での休息を指示し、地蔵堂の前で、藤孝が九十九に問うた。
「公方様、此度は何故、脱出されなんだのや……。して、ご最期は、いかな様子であったか?」
「はっ、御みずから敵勢十数人を討ち果たし、奉公衆とともに数刻に渡り奮戦されましたれど、多勢に無勢、槍、弓矢、刀にて、ついに力つきたと伺っておりまする」
「そうであったか。公方様、さぞやさぞや無念で」
藤孝は、悔しくてたまらないのか、握り締めた手を何度も、何度も、地蔵堂の濡縁に叩きつけている。
九十九は、あまりにも激しい、藤孝の様子に、一瞬、躊躇してしまった。楮を素にする純白の奉書紙を手渡しながら、報告を続けた。
「その先刻、一同ともに末期の食を摂られましたが、その折、兵部大輔様に、特に急ぎ、御内書を認められてございます。これにて」
藤孝は、墨書きの御内書を、震えた手で受け取ると、順に開きながら読み進める。
書を開くごとに、藤孝の瞳から、涙が滴り落ちる。最後まで読んだときには、御内書の文字が、水滴で滲むほどであった。
「これは、まさしく公方様の花押でありまする」
力を失った藤孝の手から、書がこぼれ落ち、段々に開く。最後のほうに、覚慶のこと兵部にしかと託せし候……、と読み取れた。
書を読み終えた藤孝は「源平盛衰記」の恋塚と伝わる、五輪の石塔の前で、何も言わず、佇んでいた。
八半刻ほどだろうか、九十九には、異様に長く感じた。
突然、藤孝がさっと、九十九の方に向き直り、するどい眼光をぎょろっと向けた。
「桂の女、大儀。革嶋殿に伝えや。兵部、即座に南都に向かったとな」
「はっ」
すでに藤孝は、すばやく傍らの白馬の鞍に飛び乗り、馬首を南方に向けていた。
「早い」九十九は、唖然とした。
梅雨時の小雨を背景に、金雲を模り、美しい唐三彩の釉が掛けられし、鞍覆に跨る姿。背筋を伸ばし、きりりとした姿勢から、文武に秀でたもの独特の雅が伝わってきた。
「何と、うつやかなお方や」と見とれながら、思わず深々と頭を下げ、九十九は、藤孝が遠のいていくその姿が見えなくなるまで見送った。