第三章 秀存との別離
一
月があけて六月、九十九らは、革嶋城で、土塁、矢倉の修復、兵糧の調達などの日々に明け暮れていた。山城国葛野郡革嶋南荘(現在の京都市西京区川島)は、桂の里の南に位置し、西岡諸豪族の居館の中では、最も北部にある。
元近衛家政所屋敷(御所垣内)を引き継ぐ居館は、今井用水に沿って、堀と土塁に囲まれた方形の縄張りで、南北に細長くある平城だった。城の周囲は、田畑に囲まれ、さらに郷の周り、桂川の流れぬ処を土塁で囲む惣構の環濠集落を形成していた。
革嶋氏は当初、近衛家領の下司職としてこの地に赴任した。以後、千代原、川島、今井溝の運河を抑えて財を成し、幕府直属の御家人に飛躍した。その財を貸し付けて、田畠の買得に導き、上六郷の惣領となっていったのである。
用水を挿んで東に、一向宗の多い土地柄の辻河嶋村があり、革嶋一族に従っている。
虎口に掛けられた土橋を超えると、すぐ傍らに茶室、庭園などもあり、奥には牛舎、厩、大きな二階蔵もあった。
建ち並ぶ二階蔵に、次々と兵糧が運び込まれる。忙しく荷を運ぶ男の乱波衆や商人、人足たち。暑さで、袖を外した浴衣さえも、汗びたしだ。
小袖の裾をたくし上げた恰好で、九十九もまた、額に汗をにじませ、日に焼けた赤ら顔で差配している。「暑いのは、少し苦手や」と思うも、「もう一踏ん張り」と気合を入れた。
「ちゃんと数を控えや。篭城となったおりに、正しゅう残りの日和が分かるようになあ」
嘗め味噌(なめみそ――調理後の骨や皮についたせせり肉や肉片を細かく刻み、野菜と一緒にお味噌に練り込んだ物)=百と二十樽
兵糧丸、水渇丸=それぞれ二百
梅干=二百壺
高野豆腐=樽三百
塩合物(塩干物)=物集女の塩市より、樽三百
堅魚(鰹を天日で干したもの――鰹節の原型)=土佐の長宗我部領より、三千本
「よし、堅魚は十分やな」
いつものごとく、すっと音もなく近づいた秀存が、九十九に驚いた様子で声を掛けた。
「これだけの堅魚を調達なさるとは、さすが里の威光でありまするなあ」
九十九は、秀存に褒められ、嬉しくて、思わず飛び跳ねたくなる。いつのまにか、上唇を舌で舐めているのに気づく。
食糧事情の悪かろう戦場で、戦士に「長持ちし、味気あるものを大量に確保してやりたい」と思った。堅魚の調達には、最も苦労しただけに、喜びもひとしおだったからだ。
自らが差配する、桂の里の力を改めて、認めてもらえた、という思いもあった。
「是を噛ば性気を助け気分を増し、飢を凌ぐ、といいますし、戦陣の保存食として欠かせませんよって、気合を入れました由」
秀存は、堅魚を手に取り、端を口に加え、丸かじりにした。満面に笑みを浮かべ、美味しそうにしている。
「うん、ええわ是。淀津からやなあ」
九十九は「こんなにも嬉しそうな若様のお顔、初めてやわ」と、さらに喜びが増した。
「へっ、そうでおます、我らの里は、石清水八幡宮神人として、淀舟、淀津廻船人の利用(淀津の通行権)、関津料免除の特権も得とります。海産物は淀魚市問丸中を通して、瀬戸内の海賊衆や悪党衆から、手に入りますゆえ、容易いことでおます」
当時、京は、海産物となれば、遠隔地の海辺から導入せねばならず、瀬戸内海方面から淀川を経由して淀津の淀魚市に荷揚げされていた。この淀魚市は、現在の納所の南西、桂川・木津川・宇治川の三川合流地点の中州地点(中島)にあった。
九十九は、堅魚の話をしながら、蜷川親長のことを、思い出していた。「この堅魚は、四国は、長宗我部領よりのもの。蜷川様は、お元気でおられますやろか?」
「淀津より舟で堺に出て、四国へ渡られたようや。今頃は土佐国へ下向しておるやろう。丹波国桐野河内の蟠根寺城に戻ることも叶わなんだ。元来の土地を奪われる悲しみ。味わいとうはないなあ」
九十九は、本当にその通りだと思った。「うちなんぞに、一郷を預かる頭領などというものが務まるのやか」と今だ躊躇があった。
「ほんに、郷を司るものの責は、おおきゅうありまする」
少し躊躇していた様子の下弦が、近づいてきた。
「語り合う二人の邪魔をしては成らぬか」とでも思われたのやなあ、と感じた。「ええように気を使こうてくれたわ」とも思う。
「若様、九十九様、お館様より、軍議を始めたく、そのように伝えよと」
「あい分かった」
と二人が揃って合唱すると、下弦が愛らしい笑窪を浮かべていた。
二
土間を抜けて、襖のある、いくつかの部屋がある。隣接した渡り廊下を通り、最も奥にある主屋にて、軍議が行なわれている。天照皇大神、春日大神、八幡大神の三姿の描かれた仙通表装の掛軸の前で、板敷きに座して、居並ぶ重臣たち。
上座に革嶋一宣、左に秀存、弟の忠宣、右に庶子家筆頭の革嶋勘由左衛門、下桂郷の中路善衛門、寺戸郷の大畠成覚、寺戸智近と続く。末席に、桂の里の九十九が座した。
西岡の河川丘陵図を扇子で指差し、秀存の叔父の勘由左衛門が、伸ばし放題の真っ白な長髪を手で掻き揚げる。細長く、しゃくれた顎を突き出して笑った。
「惣構、矢倉、土塁、修復し、強固に構えておりまする。兵糧も、九十九殿のご尽力にて、領民を城内に匿っても、半年も篭城戦に耐えうるほどにあるよって。はっはっはっ」
秀存は、いつものように淡々とした物言いだ。
「篭城戦とは、援軍の期待あってのこと、公方様すでに亡く、後ろ盾のなき我らにとって、篭城とは討ち死にを意味しまする」
「物のたとえにて、まっまあ、良いわ」
九十九は「何や、気まずい雰囲気や」と感じた。その空気を掻き消すように、三好党の動静を探りに都に出ていた小七郎が、帰還して入ってきた。
「失礼仕ります。ただいま戻りましたよって」
九十九は、笑みさえ浮かべている小七郎の様子を感じ取り、少しほっとした。
「兄上、都はいかな様子に?」
「うむ、どうやら洛中の制圧に、かなり手間取っておる様子。松永と三人衆の歩調も合わぬようにて、しばらくは動きもなきように思われます」
「いっそのこと、西岡のことなど忘れてくれれば良いものを。はっはっは」
勘由左衛門が笑うと、またも皆が静まり返り、座が事醒むとなる。
九十九は「まあ何とも、場の気配を読めぬ人や」と思う。
ホッホッー、ホッホッー――。
初夏の庭園から、静寂を打ち消す、アオバズクの泣き声が、辺りに木霊していた。
三
永禄八年(一五六五)十月、西岡――。
動きが始まったのは、松尾山麓に山紅葉が生える十月となった。
八月に、藤孝らの救出した一乗院覚慶が、甲賀の和田屋敷より、室町幕府の再興を表明し、動き始めていた。三好三人衆と松永久秀の決裂も、兆しが見え始める。
三好党は、擁立する足利義栄の将軍宣下のために、大量の奉納金を要し、また松永に先んじる事からも、西岡の権益を抑える必要に迫られた。緊張する状況の中、三好三人衆が一人、石成友道が、青龍寺城の奪取に向けて、軍勢を率い進軍してきたのである。
革嶋一族の氏神・革嶋春日神社、神楽殿において、戦勝祈願が行なわれた。
ぴ~ひゃらら、ぴ~ひゃらら。
丸顔に大きな眼をした地蔵の吹く篠笛。甲音の高い音が、透き通るように響く。
トットン、トントントン。
と勇ましい太鼓音。彫りが深く、鼻高の南蛮風の女、千百の奏でる和太鼓の妙技。
雅楽器の音に合わせて、九十九は、舞台に躍り出た。緋袴に鶴松紋様の千早を着て、桂の葉をあしらった前天冠を被るという、巫女装束に身を包んでいる。
九十九は「いつも踊りに興じるときが、最も自分らしくいられる。わずらわしさも悩みも何もかも、その瞬間は吹き飛ばして、陶酔させてくれる」と感じていた。
一歩下がって、左右に上弦が鈴を、下弦が笹とそれぞれ依り代となる採物を持って、無地の装束で続いた。
上弦は、透き通るような白い肌、対照的に真っ黒に伸びた長髪を、後ろに、馬の尾のように束ね、背が低く、細すぎるほどの下弦は、巫女衣装にすっぽりと包み込まれている。
祈祷殿前には、この年、桂川周辺の二毛作で収穫され、保存されてきた疏菜漬け、大豆、小豆、それに新米の俵。さらに、唐菓子の神饌や湯桶(米粉に柚の葉を挟み、油で揚げたもの)などが、淡竹で造られた笊に載せて供えられている。
巫女らは、神殿に向かって拝礼した。
ぴ~ひゃら、トットントン。
一段と高鳴る楽器の音に合わせて、九十九が、依巫となって、憑依神楽が奉納された。
「いやあっと、そおりゃあ、そおりゃあ、トトントントントントン……」
板敷きを踏み鳴らす激しい音が木霊する。四半時ほどの舞を終える。
九十九は、びくんと、体に何かが乗り移り、身震いするような感覚を覚えた。その場に倒れ込み、思い切り体を反り返らせる。一瞬、我を忘れたかのように感じた。朦朧とした意識の中で、龍神のごとき、しゃがれた声が、自然に流れ出た。
「伊邪那岐命、黄泉国より逃れ、禊せし折に生まれし月読命、汚れありとて、保食神を討てり、時に五穀誕生せり、月は再生の神なり、皆のもの、穢れは祓われた。いざ、いざ」
と重々しく、ご神託を告げる。
「お~」
「えいえい、お~」
軍勢の雄たけびが周囲に響き渡った。
革嶋城に百の留守居を残し、勝青龍寺城に六百の軍勢が向かった。
四
勝青龍寺城は、小畑川と犬川の合流点付近に位置し、西に西国街道、東に久我畷、南に淀川の水運を窺う要地であるため、数々の争奪戦が繰り広げられてきた。
京都盆地の西南部、青勝竜寺なる寺と古墳、環濠集落を利用して築かれ、堀と土塁で囲まれた平城である。
北東には、鬼門除けとなる隅欠きがなされている。当時まだ、石垣や天守閣などはなく、建物は板葺き、茅葺き、藁葺きであった。
かつて京を窺う南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築き、この頃、藤孝が勝青龍寺城を居城としていたと伝承されるが、十四世紀には城は存在せず、これらは、後の天正年間に、西岡支配の正当性を土豪たちに示すために創り上げられた物語だと言われる。
近づく革嶋軍から先んじて、九十九は、城に伝令に駆けた。
南東の大手虎口から続く土橋の上に立ち、すぐ内に聳える矢倉の番人に向かって叫ぶ。
「革嶋一宣様が手勢六百、まかりこしました。御開門あれ」
「革嶋様が軍勢六百、御着陣にございまする」
との番人の大きな掛け声とともに、門が開かれた。
その後も、矢倉番が、次々と声を発する。
「神足掃部様が軍勢六百、着陣にございます」
「物集女忠重様が軍勢六百、御着陣!」
「開田城より、中小路勢四百、続いて今里郷・能勢様の軍勢四百、御着陣にございまする」
惣国の結集拠点とはいえ、小さな城には入らぬため、堀の周辺に、竹矢来などで囲いが造られ、陣が敷かれた。西方には、山紅葉で、真っ赤に燃え立つ天王山が聳え立つ。
九十九は「まあ、各陣営とも気合が入ってるわあ。よう、これだけ集めたものや、今回は皆、必死やな」と思った。
主殿の大広間にて、国衆たちが集まり、軍議が開かれた。
広間は、板敷きの吹き抜けであった。越前の笏谷石を使った火鉢が置かれた。火箸は、神足郷の鋳物師座による自家製。丹波からの良質の木炭が、赤々と燃えている。
「今日は、寒うありますなあ。こういうときは人肌の温もりでも、あればと思うに」
と中小路宗俊が、火鉢の上で、手を摺り合わせ、暖を摂り、ちらっと九十九の豊満な乳房に視線を向けてきた。
渋染めの乱波衣装の上に、二つ葵の神紋入りの陣羽織を羽織った九十九は「このような時に、何を悠長なことを。ほんに、おとこしさんは、呆れるわ」と思う。
「宮司様が何を仰せでございますか。神罰が下りますえ」
「はっはっはっ」
一同が笑う。その時「失礼します」と入ってきた物見役の上弦による戦況報告を受ける。
「石成が軍勢は、五千余、東寺より西国街道を進み、先刻、桂川左岸、石原郷あたりに布陣したようでおます。鶏冠井軍と川を挟んで対峙しておりますかと」
「あい分かった」
と一宣は眉を顰め、丸に五本骨扇の紋入りの、陣羽織の上から腕を組んだ。一宣は、難しそうな表情をしている。
「引き続き、戦況を探るのや」
九十九が上弦に命を下すと、一宣がゆっくりとした口調で続けた。
「うむ、桂川の右岸すぐ、先鋒として上久世、築山郷に陣を張る鶏冠井氏の軍勢六百を合わせて、我がほうの軍勢が三千と二百。よく集めたものや。しかるに敵は、五千余とな。中々、厳しゅうあるな」
すると秀存が、いつもの冷静な口調で助言する。
「されど、地の利は我らにあるよって。河川、丘陵を駆使すれば、我らの方が優勢や」
秀存は采配付鎧や袖、下散まで鮮やかな藍色に染めた、当世具足を身に着けている。
九十九は「さすがは、若様や」と感じ入る。
前立拳や草摺を朱に染めた胴丸姿で、いかにも、といった表情で、物集女忠重も頷く。
「そうや、それぞれが、西岡の地を知り尽くしとうさかい、案ずることはあらへん。まして、桂川すら渡らせへんわ。はっはっ」
「はっはっはっ」
国衆一同が余裕の笑いを見せる。
九十九も「皆、余裕のあることや。されどまあ、大丈夫そうやなあ」と安穏と構えていた。
五
数刻後、一同を驚愕させる伝令が伝わった。小七郎が、
「大事にございまする」
と声を上ずらせながら、国衆の前に駆け込んでくる。
「兄上、いかがいたしましたのや」
九十九は、兄のただならぬ様子を感じ取り、凝視した。小七郎の顔は、真っ青だ。
「はっ、敵勢は桂川を越え、さらに築山、下久世、土川郷を進軍、すでに上植野城に入城。この青龍寺のすぐ向かい、小畑川沿いに陣を構えてございます」
皆一斉に立ち上がり、一堂が騒然となる。神足掃部が、巨漢を揺らして、似合わぬ素っ頓狂な声を上げた。
「かっ、鶏冠井は、何をしてたんや。桂川右岸の陣だけやない、鶏冠井城も素通りであったと言いやるか?」
小七郎は声を詰まらせる。
「そっ、それが、鶏冠井様の軍勢、石成軍とともに、小畑川の陣に合流してございます」
「なあにい!」
一同が一斉に黄色い声を上げた。
物集女忠重が、あわてて焼け火箸を、足元に落としてしまう。
「熱、おっ、おのれ、光則め、裏切りおったなあ」
しばらくして、秀存が腕を組み、いつもの冷静な口調。しかし、顔に皺を寄せている。
「先陣は任せてやというに、はなから、寝返りのつもりやったか。昔、鶏冠井らは、かの大乱でも、西軍に属し、我らと対峙したと聞く。確執は、収まっておらぬということか」
一宣が歯軋りをしている。
「よりも、上の郷が新しく井口を掘り、今井用水からの新溝を設けた際、漏水で水を取る下の郷の取水が、さらに悪うなった。以来、ずっと根に持っておるのや。この混乱に乗じて、取水口を抑える気で、三好党と手を結びおったのや。やられたわ、万事窮すや」
桂川には、多くの井堰が設けられていたが、これらの内のいくつかは河川を横断する石積のもので、その漏水までが水争いの原因となった。
六
それから、数日。石成・鶏冠井連合軍が、城に侵入しようとするも、九十九ら乱波衆をはじめとする、地の利を生かした防衛戦、土豪たちの必死の奮戦で、いまだそれを許さず。
その後、何度か小畑川を挟んで、小競り合いが続いたが、戦況に大きな変化はなく、睨み合いが続いていた。
布陣より十二日目の夜半。九十九は、小畑川沿いに出て、対岸を見つめていた。
石成・鶏冠井軍の陣には、篝火が焚かれ、川岸から丘陵の尾根に沿って、無数の松明の灯が赤々と輝き、右往左往している。
九十九は、初冬の枯れた藪から姿を現わす、烏瓜の朱赤の実を手にもぎ取り、弄びながら「いつまで睨み合いを続けなあかんのやろか。何か打開策はないものか」と考えあぐねていた。
四半刻ほどだろうか、少し肌寒く感じた。城に帰ろうと思い、振り返りかけた時、敵陣の松明の明かりが、下から徐々に制止していくことに気がついた。
「えっ、どういうことや?」
九十九は、もう一度、じっくり対岸を注視した。
ゆっくりと流れる、小畑川の川音だけが、やけに耳につく。
「変や、動かんようになった」と心中で呟く。
この時季、独特の冷たい川風を遮って、後ろから巨漢の男が現れた。小七郎だ。
「姫、何をしておいでや」
はっとした九十九は、肩越しに上から覗き込んだ兄の顔を凝視した「良く見ると兄上も、中々に良いおとこしや」などと思う。
「うちも、こんな時に、悠長なことを」と思い直して、小七郎に問うた。
「おかしいとは思いまへんか?」
小七郎は、顔を数度、縦に振って頷いた。
「やはり、感じておったか」
優しい物言いで、感心したような表情をしている。
「へっ、あまりにも静か過ぎるんどす」
そこに秀存が、いつものように、すっと音も立てず現れた。
「九十九殿、夜襲を懸けてくれへんか。このままでは埒があかぬ。挑発程度で良いのや」
「はっ」
秀存様も、何かおかしいと思とう。考えは同じやなと思った。
七
乱波衆を中心に、すぐさま夜襲部隊が編成された。
小七郎、上弦、下弦、地蔵、千百らが居並ぶ。弓矢隊、槍隊、三百人が組織された。
「みんな、行くよ」
九十九が采配を振り、奇襲作戦が開始される。
一隊が、小畑川の上流から、藁を敷き詰めた数十の小船に火を放ち、一気に押し流す。さらに敵陣の正面から、夜襲部隊が、小船群に巻火矢(竹筒の中に火薬を詰め、縄で巻き、締めて圧力を高めたもの)を一斉に投げ込み、爆破させた。
どど~ん、どんど~ん……。
川岸は、爆発の閃光で、一気に明るく鮮明となった。
驚いた敵勢に向かって、弓矢隊が一斉に弓を放つ。
「やあ~」「いやあ~」
数百の槍隊が、一気に切り込んだ。九十九は、一瞬、よしやった、と思った。ところが、小競り合いが続いたが、敵は「引けえ、引けえ」と、あっさり引いていくではないか。
「何んや、いったい?」
九十九は、訳が分からず、一瞬、頭の中が真っ白になったように感じた。
奇襲部隊の者どもも、まるで狐狸にでも化かされたような、呆気にとられた表情だ。
はっと、我に返った九十九は、ようやっと周囲の状況が把握できた。
数百の藁の人形に、甲冑や小袖などが掛けてある。等間隔に建てられた数珠繋ぎの松明。
「やられた」
小七郎は、すべてを悟った様子。
「敵が消えた」
九十九の脳裏に、いやな予感が走った。
八
翌日、青龍寺城に戻った九十九のところに、急使の与一が駆けつけた。
初冬の寒さを打ち消すほどの汗びたしで、ふうっふうっと、懸命に駆けてきた様子の与一は、息も絶え絶えになっている。
「姫様、大事。革嶋城が、数千の軍勢に取り囲まれておりますのや」
「なんやてえ」
傍らにいた一宣、秀存は、顔から血の気が引いて、絶句している。
「やはり、そうやったのか」
九十九は、予感が的中してしまったことを、残念に思った。不可思議な点が浮かぶ。
「しかるに惣構は、どこから抜けたのや」
「はっ、それが、辻河嶋が、すべて開門し、敵勢を領内にすんなり引き入れてございます。尚、本願寺派の僧兵が、部隊を指揮する姿も見られまする」
「何と、一向宗徒のやつら、飢饉の折の恩も忘れよって」
一宣が地団駄を踏む。
悔しさを顔面に露にしながらも、いつものように冷静に、秀存が語る。
「恩にも思うておらぬのや。種籾の貸付の形に、自作の田畑を取り上げられた、と怨んでおるのや。ほんに、人心というのは……」
「皆の衆、ごめん。我ら至急、帰参いたす」
一宣が早々に立ち上がり、革嶋衆が後に続いた。
「我らも戻るよ」
大八木衆に命を下した九十九は「辻河嶋という領内衆まで敵に回してしまった。四面楚歌や」と不安を隠しきれないでいた。
九
石成・鶏冠井連合軍は、下五ヵ郷を抜け、御室川に沿って北上、山陰道側から、革嶋城のすぐ北西の辻河嶋に入っていた。
革嶋軍、大八木衆は、寺戸郷から物集女城を経て、革嶋郷の南に位置する、向日丘陵のあたりまで戻ってきた。
西岡の中心に南北に横たわる向日丘陵には、山塊の尾根上に古の時代に築かれた大小さまざまな古墳が眠る。古墳群の周りを縫うように、鬱蒼とした大竹林が続く。この頃はまだ、孟宗竹などはなく、矢柄(矢の幹)に用いる様な竹、箟竹(のだけ)の林であった。
向日丘陵から伸びる段丘の端から、背の低いアカマツの木々の間、落ち葉の積もる道をつづら折に抜ける。淳和天皇の柩を運んだ車を埋めた塚と伝わる物集女車塚古墳があった。
一町ほどの高さしかなかったが、丘陵の尾根に立ち、椎やクヌギなどの雑木の間から透かし見れば、二里ほど先の革嶋城は、良く見渡せた。
「時すでに遅しか?」
九十九は、肩の力がすっと抜けていくのを感じた。
堀と土塁で囲まれた革嶋城。点在する館や二階蔵の真ん中、主殿あたりから火の手が上がるのが見えた。堀に渡された土橋の辺りで、蠢く人々の姿が、微かに窺える。
「皆、逃げ惑っているのであろうか」と案じる九十九の元へ、四半刻にも足らぬ間に、次々と大八木衆の伝令が入ってくるようになった。
「館はすでに、鶏冠井軍が乱入、占拠されておりまする」
「留守居、中路善衛門様他、御大将方、討死」
「奥方様、姫様方と共に城を落ちられましたれど、行く方知れず。伊勢様が遺児、熊千代君を供に、逃れられたようにございます」
報告を聞いた九十九は、思わず溜息を付く。
「ふうっ、熊千代君、またも追われねばならなんだか……」
しばし一同は、なすすべもなく、呆然と燃え上がる城を眺めていた。
俄かに曇り始めた空が、朝日を遮ると、薄暗い中に、炎が一層赤々と燃え、背後に流れる桂川の水面さえ、浮かび上がらせるほどとなった。
炎が徐々に広がり、城が焼け落ちていく様子が鮮明になってくる。
さらに四半刻ほどが経った。九十九は、異様に長く感じた。城の火が下火になると、今度は、周りの集落あたりからも、次々と火の手が上がりだした。
一宣が、ぼそっと呟いた。
「もはや、これまでか」
「父上」
一宣と秀存が、お互いを見つめ合う。一宣は、悔しそうに、体中を震わせている。
秀存が、鋭い眼光で、語りかけるように合図をすると、一宣が、縦に数度、頷いた。
九十九は「まるで目で会話をしているようや。さすが親子や」と静かに様子を見ていた。
秀存が意を決した様子で、皆に告げた。
「在地の者は、しばらく避難の後、帰参するんや。服従を誓えば、田畑は安堵されよう。川上に勤めおる者も、同じや。今まで、よう革嶋に尽くしてくれた」
「お館さま」「若様ああ」「う~」
在地の百姓衆、川漁師衆ら数百人が、秀存と一宣に次々と近寄り、何十にも取り囲んだ。一斉に崩れ落ちるように、膝を崩して咽び泣く。
秀存は、最前列にいた大畠成覚、寺戸智近の手を、順に取った。
「大畠殿、寺戸殿、郷に帰られよ」
一宣が優しく語り掛ける。
「百姓にとって、土地は命や、それがあれば、また生きてもいけよう。この革嶋の地をよろしゅう頼み申す。皆の者、さっ早く行くのや」
「お元気で……」「必ず再起を……」
と在地の者たちは、帰り際に次々と革嶋親子に激励をしていった。
九十九は「お館さま、若様の人徳や」と感じられずにはいられなかった。
革嶋一族と大八木衆だけが、その場に残った。
さらに八半刻が流れた。赤々と燃え、もう燃す物もなきほどに下火になった。
落ちていく革嶋城を見ながら、見るからに意を決して、一宣が脇差を取り出し、西向きに座りなおした。目を閉じ、両手を合わせると、まるで神仏に身を任せるかのごとき、穏やかな表情になっていく。静かに、しかし、力強い口調。
「西方浄土の阿弥陀は、こちらにおられようか? 秀存、先に行くぞ、介錯いたせ」
「はっ」
九十九は咄嗟に「あかん、お館様を死なせとうない」と思う。
まだ、くノ一に成り立ての頃、優しく頭を撫でてくれた一宣の、昔の情景が浮かんだ。
慌てて両の手を広げ、一宣を制止した。
「待っておくれやす。おとこしはんは、何故、そんなにも命を粗末になさるのや」
一宣は、少し顔を強張らせた。
九十九の手を振り払い、押し戻しながら、まっすぐに九十九の目を見つめてくる。
「九十九殿、止めて下さるな、女子には、分かり申さぬやも知れぬ。一介の土豪とて、幕府被官の武士や。城主たるもの城を取られて、おめおめと生き恥をさらせようか」
九十九もまた負けじと、一宣を凝視した。
「何をお言いや。男も女もおへん。皆、元は、女子の御腹より出でし、神の子や」
秀存が、高く掲げていた刀を一瞬ふっと下ろす。十三代将軍の義輝より拝領の鬼丸国綱が月明かりに照らされて、一瞬、きらりと光る。閃光が、九十九の目に入った。
「おとこしはんは、お産するとこ、命の生まれるとこ、見たことおへんよってに、粗末になさるのや。妊婦は、苦しんで、苦しんで、時には、母親のほうが助からんことやってある。それこそ命がけで、皆を産んだんや。その上なあ、赤子の内に何人も亡くなってしまう。市杵島姫神様のご加護で、生まれ出でた命、粗末にせんといておくれやす」
「今さら、ここに及んで、何を。秀存、介錯を」
一宣は声を上ずらせ、動揺を隠し切れない様子、秀存は、少し躊躇している風である。
「父上、わしも正直、迷うとりました。我らが一党、海賊衆の丹後革嶋党に身を寄せ、臥薪嘗胆、再起を図れへんかと。苦難の道とはなろうけど、ここで命を絶つんは、むしろ、そのほうが安易な道なんやないか、と。九十九殿の言は、渡りに舟でおます」
「秀存、臆したか」
九十九は「どうしても、聞いてくれそうにないし。いや、一度こうして出した刀を、簡単には納めれん。何かきっかけ、落としどころがいるんや。そや。やっぱりここは、神託に頼るしかない」と心中で自問自答した。
「しばし、お待ち、誰か焚き火を。幣を持ちや」
「へっ」
周りで様子を窺っていた下弦らが、慌てて枯れ木を集め、銅火を用いて火を起した。
九十九は火の上に、懐より取り出した亀の甲羅を置いた。次いで、渡された幣を、大きく振りながら「何がなんでもお館様をお救い申し上げたい」との一念を持って、必死に呪文を唱えた。
「……石清水八幡大菩薩、市杵島姫神様のご加護あらん」
すると、何としたこと、甲羅が割れもせず、清水の京焼きのごとく、綺麗に焼成してしまったではないか。
よし、やった、と思う。
「大吉と。神託も下されてございます」
一宣は「観念した」という様子で腕を組む。
「ふっ、分かった、分かり申した。神託とあらば、仕方あるまいな」
九十九は一宣の膝に手を当て、力強く諭した。
「お館さま、城は取られても、この桂の里は、必ず守り抜いて見せますよって。お館さま、若様、一族の方々の帰参するところが、消えてなくなるわけやおへん。生きとったら、また再起の道もあります。必ず帰っておくれやす」
「うむ、分かった」
これで、秀存様も生きててくださる。九十九は、少しほっとした。
十
一行は、上桂郷から竹薮の山道を抜けた。ここから嵐山の麓を尾根伝いに林道を進み、沓掛山を越えて、丹波亀山に至る。いわゆる唐櫃越えを選んだ。
鬱蒼とする林へと続く沓掛山の麓。木々の根や崖ふちに、毒鶴茸や橙笠といった茸が毒々しく生え、猿の軍団が、尾根道を横切っていた。
大八木衆を率い、護衛してきた九十九は「いよいよ、別れや」と秀存をじっと見つめた。
やっぱり素敵や、と改めて思う。瞳が潤むのを感じた。
「人心を欺いての謀反、長続きはしませぬ。きっと再起の機会が訪れますよって」
秀存が、気難しい表情でしみじみと語る。
「九十九殿、この事態は、我らの驕りが生んだのや」
「驕り?」
「飢饉のときに、種籾さえ残らぬ百姓衆に、貸し付けてやった。その形に取り上げた田畑を集めて、利ざやを独り占めしてきた。取水口も、しかりや。そのことで、上の郷は、随分と潤った。しかし、それが結局、下の者たちのの怨みをこうたのや」
九十九は、落ち込んだ様子の秀存を何とか、励ましたいと思う。
「されど、お館様や若様のおかげで、共同の大きな畦道もできたし、橋が架かり、堤の修復もできる。ほんに利がようなったと、皆、申しておったし、悪いことばかりやおへん」
「そうやけど、元は我らも同じ百姓であったやろに、いつしかそれを忘れて、人心が離れていっとうことに気づかへんかったんや」
九十九は、秀存の噺に、自らの境遇を重ね「一族の頭領として、胆に銘ぜねば」と思う。
秀存が、今度は淡々と語る。
「一向宗の開祖、親鸞上人は、海川に網引きや釣をして生きる者も、野山に猪を狩り、鳥を取る者、田畠を作りて優る者、商いをする者、皆、只同じことなりと申して、万民平等を唱えたと言う。奴らの言い分が、本当は正しいのやも知れぬ」
「一向宗でおますか……」
九十九は「難しい問題や」と感じながら、呟いた。
「ほんに政とは、難しきことやなあ」
と秀存もまた、顔を横に数度となく振りながら、言葉に溜息がまじる。
九十九は「同じように感じてはる」と思い、頷いた。
「ほんに、そうでおます」
九十九は、眼の間から止めなく鼻筋を伝って溢れ出る涙の温もりを感じる。
「秀存様、桂の里に戻らねばなりませぬ由、別れでおます」
「うむ、息災でなあ」
秀存は、やはり無機質な口ぶりであった。
九十九は「最後まで、この人は、感情のない。無愛想な男や」と思う。
尾根道を行く革嶋一族を見送る大八木衆。ところが、その時ひょいと反転し、九十九の前に戻った秀存の言は、まるで感情の高まりが溢れるように、激しかった。
「九十九殿、わしは誓おう。そなたにまた会えるよう、必ず西岡の地に、戻ってまいる」
九十九は「嬉しいわ、うちのために、そう言うてくれただけで救われる」と思った。自分の頬が、笑顔で緩んでいるのを感じながら、秀存の顔を、まじまじと見つめた。
「若様……、へっ、待ってます」
「この人にも、やっぱり感情はあったんや」と思う。
九十九は「結ばれぬ恋であることは、重々分かっている。しかし、今は、そんなことは、どうでもいい。若様の帰参する場を守り抜いて見せる」と、決意を新たにした。林の中に消えていく革嶋一族を、姿が見えなくなってもなお、手を振りながら見送った。
忘れ草ともいう季節外れの萱草。八重咲きの花が、別離の悲しみを癒してくれようか。
木々には、冬鳥の紅益子が、木の実の皮を剥きながら、食べては小枝を移る姿が垣間見られる。鳴き声が、沓掛山に美しく木霊していた。