高台寺は、東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。 臨済宗建仁寺派。山号は鷲峰山。正しくは高台寿聖禅寺、本尊は釈迦如来である。北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。
高台寺は豊臣秀吉の正妻である北の政所・ねね(ねい、おねとも言われる)が豊臣秀吉の供養のため、またねね自身の隠棲の場所として、秀吉の眠る阿弥陀が峰(豊国神社)の近くに創建された。寺名は、北政所が後陽成天皇に贈られた院号・高台院湖月尼に因む。 当初、開山は、弓箴善疆(きゅうしんぜんきょう)とし、曹洞宗の寺だったが、高台院(ねね)が没する年に、建仁寺の三江紹益和尚を開山としてむかえ、寺を託したといわれる。宗派争いの末に、臨済宗建仁寺派に改宗した。
ちなみに北の政所とは、関白の正妻に対する称号だが、このねねの存在によって広く知られるところとなった。当時の政治的事情から徳川家康の多大な援助により、伏見城から移築した施設があまた存在した。
1830年、京都大地震により庫裏が倒壊。1863年、公武合体派の福井藩主・松平慶永(春嶽)の宿所となり、倒幕派浪士により放火され、化粧御殿、大方丈、小方丈などが焼失した。近代、神仏分離令後の廃仏毀釈により、さらに寺は荒廃してしまった。 その後再建され今日に至る。
近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭などである。重要文化財の霊屋・表門・観月台・傘亭・時雨亭 は伏見城の遺構である。
駐車場は霊山観音の前が高台寺と共通。一時間500円。ちなみに清水寺参拝でも駐車できる。
山門(さんもん、表門)は、桃山時代に建立された、切妻造り・本瓦葺きの三間薬医門である。国の重要文化財に指定されている。
方丈(仏事の建物)
庫裏の右手に建つ。大正元年(1912年)の再建。創建当初の方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。
方丈の南正面に位置する勅使門 もまた、大正元年(1912年)に方丈とともに再建された。
方丈庭園は江戸初期、小堀遠州作である。春には見事な枝垂れ桜が庭園の枯山水を覆う。
遺芳庵と鬼瓦席
共に灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、高台寺を代表する茶席として知られている。
庭園は、開山堂の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、国の史跡・名勝に指定されている。偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北に亀島、南の岬に鶴島を造り、その石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られている。
観月台
豊臣秀吉の隠居のために建てられた伏見城から、移築されてきたもののひとつ。檜皮葺きの四本柱の建物であり、三方に唐破風(からはふ)をつけた屋根の下から月を見あげるためとも、池に映る月を見るための建物とも言われる。
北政所が御霊屋に向かう途中で、亡き秀吉を偲んで月を見上げたと言われる処である。
ちなみに唐破風とは中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした破風。玄関や門、神社の向拝などに用いられる。
開山堂
創建当初からある施設の一つである。入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂で、慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の建仁寺の三江紹益禅師の木像を祀る堂となっている。
堂内は中央奥に三江紹益禅師像、下はその墓所となっている。向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。
徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったといわれる。
秀吉の御座船の天井
小組格天井といい、格子の中をさらに格子で組んだもの。船の天井一つにも贅を尽くした秀吉の性の一端がうかがえる。
ねねの御所車天井
飾り気のない秋の草花で色取られている。ねねの人柄かとも。
臥龍(がりょう)廊
婉曲した屋根が伏せた竜の曲線を思わせるところからきている。臥龍廊を昇りきるとお霊屋へと続く。
毎日、秀吉の菩提を弔うため、お霊屋に向かう天下人の妻、ねねが雨に濡れないようにとの配慮だとか。
御霊屋 宝形造檜皮葺きの堂 。創建当初からある貴重な施設。
桃山建築の傑作といわれ、その軒下は木組みと金色に輝く金具が添えられている。
須弥壇中央の厨子に本尊。本尊は秀吉の念じ物であったとされる大随求菩薩である。万能ですべての願いを叶えるとされている。いかにも秀吉らしい。周りを一センチほどの地蔵が千体奉られている。
うるしに金粉の蒔絵で飾られる高台寺蒔絵は、桃山美術の頂点とも言われる鮮やかな色彩を放つ。勾欄、柱、床板等は琴、琵琶、鼓などの楽器づくし、階段には花筏(はないかだ)が描かれる。当時は蒔絵=日本と言われたほど知られた芸術品であったと言われる。
右に秀吉の坐像。左に片膝立のねねの木像が安置されている。
秀吉像の厨子扉には、太閤桐と露をやどしたすすきが描かれる。裏は菊、楓。秀吉の辞世の句「つゆと落ち、つゆと消えにし我が身かな、難波のことも夢のまた夢」を意識しているのか。
ねねの方の厨子扉は表裏共に松、篠竹に桐紋を配している 。
須弥壇の二メートル下がねね本人の墓所となっている。
御霊屋からさらに進むと、伏見城から移築された傘亭がある。わびの風情をかもし出す建築。
水辺に建てられていた茶室で、小船がそのまま入れるように工夫されている。竹で放射状に天井が築かれる。
傘亭と渡り廊下でつながれて時雨(しぐれ)亭がある。傘にかかるしぐれ (秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨) を表している。
二階が茶室となっており、昔は開け放たれた窓から南西に、淀川もうかがえ、遠く「ちぬの海」(大阪湾)までをも見渡せたという。
大坂夏の陣の折、この空から、ねねは燃え上がる大坂城炎上を見つめていたといわれる。
傘亭、時雨亭ともに、秀吉が隠居のために建てたとされる伏見城の遺構である。
圓徳院
豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられている。ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送った。
そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。
方丈には、長谷川等伯の山水図がある。唐紙の紋様である太閤桐をふりしきる雪に見立てて描かれた。桐紋などを散らした唐紙に絵は描かないのが通例だが、この襖絵はすべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいもの。大徳寺の塔頭・三玄院の住職春屋宗園に襖絵制作を常々懇願しながら許されなかった等伯が、ある日、住職が2か月の旅に出かけて留守であることを知り、客殿に駆け上がり、腕を振るって水墨を乱点し、一気に描きあげてしまったものだと伝えられている。
北庭は、伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したという豪胆な庭。御殿は失われたが庭だけが残った。
長屋門
敵から攻められた場合すみやかに侍たちが守りにつくため、門に侍長屋がつながっているという、寺には存在しない形式である。
唐門
門の形状として製作に非常に技術を必要とし、その分貴人を迎えるにふさわしい形式とされている。上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風(はふ)を唐破風といい、この唐破風のつけられた門を総称して唐門と呼ぶ。入ってすぐ右に秀吉好みの手水鉢がある。秀吉が西尾家に世話になった礼とし贈ったもの。後に西尾家から圓徳院に寄贈された。
桧垣の手水鉢
宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その面を凹字形に切り取り手水鉢としたものである。笠石は室町時代の作と考えられている。
三面大黒天は、大黒天、毘沙門天、弁財天の三つの顔を持った大変めずらしい仏である。
(中略)
この三面大黒天にも秀吉の合理性が表れているところがあります。三面なので一回拝めば三つの効き目があるのですから、実に合理的で秀吉らしい信仰です。大名になる前、秀吉はずーっと三面大黒天を信仰していました。
秀吉は、三面大黒天を信仰したから出世したのでしょうか。いいえそれは違います。三つの顔を一回で拝む、という合理性を持っていたから出世できたのです。仏教は合理的です。
(後藤典生『こころ惑うときに』より)