善峯寺

篠田ほつう

2012年10月26日 12:34

 京都市内からは小一時間、数十キロしか離れていないのに、あたりはまるでずいぶんと山奥に来たように感じられる澄み切った空気と静寂が広がります。かつて王侯貴族たちが宴や鷹狩りをして遊興をせし山里・大原野。一車線の曲がりくねった細い道を走り、うっそうとした木立の中をぬけると、その頂上に位置するところに気高くそびえ立つのが、西国三十三所第二十番札所の「善峯寺」です。開基の源算上人は、47歳の時、当山に入り小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊としました。 以後善峯寺は、観音信仰の高まりとともに早くからその霊場として栄え、後一条天皇 から「良峯寺」の寺号をたまわって以来、歴代天皇の崇敬あつく、中世 には青蓮院宮が住職を務めた 「西山宮」と称する門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となりました。 応仁の乱で伽藍の大半を焼失しましたが、寺を再興したのは、徳川五代将軍綱吉の生母「桂昌院」の寄進によります。 現在は天台宗単立寺院です 。

 この寺の寺伝では、開基である源算上人は現在の鳥取県に生まれ、正暦二年(991)九歳の時、 比叡山の恵心僧都 源信(えしんそうず げんしん)のところに徒弟に入り、 十三歳で剃髪受戒しました。
 師と仰がれた源信は、九歳で比叡山に上り良源(元三大師)に師事、貴族化した天台教団を嫌い、 横川(よかわ)に隠棲し、『往生要集』を著わし、末法思想が普遍化している中で、阿弥陀仏を念じることにより、来生を西方極楽浄土に往生しようとする思想を確立した人物でした。
 源算上人が剃髪したのは、『往生要集』が世に出た寛和元年より十年後のことで、浄土は西方にあるとする思想から、比叡山の西の連山、つまり西山地方がそれにあたると考え、長元二年(1029)後一条天皇在世 の47歳の時、この地に法華院と号する小堂を建てるのです。
 五年後の長元七年九月二日、天皇より「良峯寺」の号を賜り ます。さらに八年後には、東山の鷲尾寺の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。
 その後、後三条天皇が皇太子誕生祈願の報恩のため、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、 鐘楼、仁王門、および鎮守七社を建立したと伝えられています。

 応仁の乱で焼失した伽藍を再建したのは、桂昌院でした。桂昌院は二条家に仕えた本庄宗正の娘であるとされていますが、本当は京都の八百屋(酒屋とも)仁右衛門の娘で、 その名をお玉といいました。子宝に恵まれない仁右衛門が善峯寺の観音菩薩に願掛けをしたところ、お玉が生まれたと言われており。幼いころ両親に連れられて、何回か善峯寺にお参りしたらしく、のちに献歌を残しています。
 「たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」
 成長して三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となり江戸へ下ったお玉は、秋野と名を変えて大奥で 働くようになりますが、やがて家光の寵愛を受けて徳松を安産します。
 家光の没後は黒髪を落として桂昌院となり、その子、徳松は舘林に封ぜられて綱吉となるのです。 四代将軍家綱には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂 として江戸城へ迎えられます。「玉の輿」の語源はこの話から来ているとも言われています。
 何不自由のない身分となった桂昌院は、幼いころのゆかりの善峯寺のため尽力します。住職の願いは次々と実現し、それらは建築として、また仏像、宝物として今に伝わっています。
 善峰寺では桂昌院の恩に報いるため に遺髪を境内に納め、桂昌院廟としておまつりしています。



  娯楽時代劇に登場する桂昌院は、「犬公方」と云われた悪将軍・五代徳川綱吉や側用人の柳沢吉保、悪僧と誤解されている隆光と共に、よくないイメージで描かれるようです。 しかし、最近の調査では、それらの謂れは、事実に反して後世に作り上げられたものとの再評価が始まっています。

  桂昌院はこの善峯寺をはじめ、応仁の乱で焼き払われ、再建不可能と言われた数々の大寺院の復興事業や寺院建立など、後世に多大な仏教遺産を残しました。
 このことが、当時の財政を圧迫させたと言われてきましたが、今日では、今でいう景気刺激、公共投資のようなもので、仏教を中心とした宗教心を柱に庶民文化を建て直すことの必要性を示したもので、むしろ文化的積極財政と評価される見方も進んでいます。 

 娯楽時代劇に出てくる、桂昌院や綱吉の権力を象徴する最も有名な話として「生類憐れみの令」があります。綱吉に嫡子がないのを心配した桂昌院が、僧 隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる」
との言葉を信じ、綱吉に訴えたことから始まった悪政とされていますが、最近の説では、本来将軍になるはずもない勉学ひとすじの堅物、綱吉が、犬猫動物はもとより人まで試し切りの対象となっていた殺伐とした江戸の世相を憂い、儒教の精神で変革しようとしたものであって、平和な社会に変換させた、との再評価もなされているのです。
 皆さんが、何れ善峯寺 寺宝館文珠堂で、ご覧になられるであろう桂昌院ゆかりの品々は、善峯寺諸堂とともに、彼女の仏教に対する深く厚い信仰心があったればこそ、拝見することができるのです。

   山門



 まず最初に風格と山寺の風情を漂わせる山門(仁王門)が迎えてくれます。
 山門楼上には伝源頼朝寄進の運慶作の本尊・ 文殊菩薩像と両脇に金剛力士像を安置していると云われます。
 山門も徳川5代将軍綱吉の母・佳昌院が再建したと伝えられています。

  本堂観音堂

 山門を入ると石段の上に1692年(元禄5)再建の入母屋造本瓦葺の本堂(観音堂)が落着いた佇まいをみせています。
 本尊に仁弘法師作の十一面千手観音菩薩、脇立に源算上人作・十一面千手観音菩薩(洛西三 十三ヵ所第一番)がお祀りしてあります。



 桂昌院が徳川綱吉の「厄除け」のために寄進した厄除けの鐘。
 
 不動明王五大尊を祀る護摩堂は、元禄5年に建立されました。

   多宝塔



 本堂前から、さらに石段を登ると1621年(元和7)に賢弘法師が再建したと云われる多宝塔(重要文化財、江戸時代初期 元和7年 1621年再建、桧皮葺、高さ 約12m 塔の内部は、来迎柱が2本あり来迎壁を設け、愛染明王を安置する。須弥壇には逆蓮柱・ぎゃくれんばしら・をもつ )や佳昌院が鉄眼の一切経を収めた経堂、源算上人百十七歳の像を祀る開山堂などが静かな山の雰囲気のなかに歴史を刻んで 佇んでいます。長寿のご利益を授かることができます。元禄5年に建立されました。

   遊龍の松



 春になると経堂の近くには佳昌院お手植えの枝垂れ桜(楓との合体木)が美しく咲き、華やかさを醸しています。
 多宝塔の前には元禄年間に佳昌院の希望で移植されたと伝わる高さ2m、主幹の周囲1.8mの遊龍の松(樹齢推定年600年 天然記念物)が北へ22m、西へ24mと枝を延ばし、豪壮な趣を呈しています。龍が遊んでいるようにも見えるところから1857年(安政4)に花山前右大臣家厚公が遊龍松と名付けたと云われます。
 金閣寺の陸舟の松、大原宝泉院の五葉の松(近江富士)と並んで、京都三松と言われています。
 残念ながら平成六年に松クイ虫の被害で15m伐採しています。

   佳昌院廟



 多宝塔西には佳昌院の遺髪を納めた佳昌院廟があります。(墓は徳川家の菩提所・芝増上寺にあります)御廟の横からは、東山三十六峰や京都市街が一望できます。

 約三万坪といわれている善峯寺は、境内全体が回遊式の庭園となっていて、年中、四季折々の花々が楽しめます。紅葉は境内南側の中腹から約一千本の木々があります。

   幸せを招くお地蔵さん  幸福地蔵

 これも三百三十年前に桂昌院が祈念されたと伝えられています。自分以外の人の幸せをお願いすることとされています。
 奥にはあじさい苑があり。夏の時期には一面がアジサイに覆いつくされます。
 源算上人が写経のための墨を摺ったとされる白山名水が龍の口から流れています。

   釈迦堂と薬湯場

 十三仏堂を過ぎ、さらに参道を上に行くと石仏釈迦如来を祀る釈迦堂があり、その横には釈迦岳でとれる百草湯が 沸く薬湯場があります。



   奥の院

 青蓮の滝 ……  滝の竿石は、青蓮院より下賜されたもの

 桂昌殿  …… 昭和67年の建立 桂昌院が奉られています。



 阿弥陀堂 …… 本尊、宝冠阿弥陀如来。徳川家代々と善峯寺の
         信者の位牌が安置されています。

 青蓮院の宮御廟 …… 宮内庁管理 善峯寺の住職を勤めた門跡
            の御廟所です。

 奥之院 薬師堂 …… 1701年(元禄14年)の建立 出世薬
            師仏が安置されています。桂昌院の両親
            が祈願したといわれます。

 奥の院からは京の街並みが一望できます。















 

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