京福電鉄嵐山線の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」駅から北へ歩くと、木立に囲われた一画に鎮座しているのが、通称・蚕の社と呼ばれる「木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」です。
現在の御祭神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)他4柱(大国玉神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊)となっていますが、当初の御祭神はよく分かっていないのだとか。
創建時期は不明ですが、『続日本紀』の大宝元年(701)4月3日の条に、この神社の名前が記載されていることから、それ以前の古い社であることは間違いないようです。秦氏による広隆寺創建とともに勧請されたといわれています。
本殿に向かって右側に、萬機姫(よろずはたひめ) を御祭神とする、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社が、摂社として祀られています。
「日本書紀」の雄略紀によれば「雄略天皇は、あちこちに四散していた秦氏の民を集めて、寵臣秦酒公(はたのさけのきみ)に賜った。そのため、酒公は各種多数の村主を率いるようになり、租税として絹・カトリ(上質の絹)を朝庭に沢山積み上げた。天皇は庭先にうず高く積まれた絹の様子を見て、酒公に禹豆麻佐(うつまさ)という姓を賜った」とされています。
この語源説話によれば、秦酒公が賜った姓がウツマサであり、それが転じて秦酒公が住んでいた付近がウツマサと呼ばれるようになったということになります。太秦の地は、古くは葛野県主や賀茂一族が盤踞し、その後に秦氏が進出して来たとされています。
秦氏は、古代、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされます。秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫を勧請し、太秦の地に奉祭した。それが養蚕神社だと言われています。
本殿左側の一段低くなった所に、繁茂した樹木に囲まれて、「元糺の池」と呼ばれる神池があります。かつては四季を通じて清らかな水が湧き出ると言われていました。「糺」は「正しくなす」、「誤りをなおす」という意味である。身に罪や穢れがあるときに、この池は禊(みそ)ぎを行なって心身を清める場所でした。土用の丑の日にこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという伝承もあります。
なぜ「元糺(もとただす)」なのかというと、木島神社の由緒書きによれば、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこの社の境内から下鴨神社に遷されたためだといいます。「糺の森(ただすのもり)」の呼称に関して、本家本元はこちらだと主張するために、木島神社では「元糺」と言っているのだとも。鴨氏と秦氏の関係を思わせるようでもあります。
上段の神池に、鳥居を3つ組み合わせた特異な形の鳥居が建っています。三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれるもので、由緒書きでは全国唯一の鳥居とされています
鳥居の中心には、石で組まれた祭神の神座(かみくら)があって、宇宙の中心を表し、四方より拝することが出来るよう建立されているのだとか。創立年月は不詳である。現存の鳥居は享保年間(260年前)に修復されたもので、それ以前は、木の三柱鳥居だったといわれます。
この鳥居には、さまざまな説が出されています。
大和岩雄氏は「三柱鳥居の謎」という論文を昭和56年7月の大阪新聞夕刊に掲載しました。
「東南東方向に稲荷山、西南方向に松尾山、それぞれの山麓には何れも秦氏が創始した伏見稲荷神社、松尾大社がある。稲荷山から登る冬至の朝日と松尾山に落ちる冬至の夕日は、三本の柱が形成する三面の鳥居のうち二面を通して拝される。北方面は双ヶ丘に面しており、双ヶ丘古墳は秦氏の祖霊の眠る墓地と考えられている。
木島坐天照御魂神社は、太秦・秦氏の本拠地に建立されている。「三柱の鳥居」は清水を囲みながら、稲荷山、松尾山、双ヶ丘の三つの山を秦氏の聖山としてそれを遙拝する絶好の地点に「三柱鳥居」を立てたと考えられる。
この鳥居を真上から見るとユダヤ教のシンボル「ダビデの星」に見えることから、秦氏をイスラエル移民とする説もあります。「大秦」というのはローマ帝国のシリア地方の事だとか、「太秦(うずまさ) 寺」という字は、唐の都のキリスト教寺院「大秦寺」と非常に似ている、といったことから、秦氏をユダヤ人原始キリスト教徒であると見立てて、三柱鳥居は原始キリスト教の絶対三神「御父と御子と聖霊」を表現しているというもの。
いずれにせよ、蚕の社は、謎多き秦一族の遺産であるようです。