紅葉情報 嵯峨野

篠田ほつう

2009年11月26日 10:47

 紅葉真っ盛り、ここ嵯峨野は何度来ても、やっぱりすばらしい。今週末までは十分見ごたえがありそうです。
 さて、常寂光寺、厭離庵、二尊院に祇王寺、直指庵に大河内山荘などなど、数多の紅葉の名所で有名な嵯峨野は、実は、京都盆地の西北方、太秦広隆寺を中心として、北は北嵯峨の丘陵、東は双ケ丘、西は小倉山、南は桂川(大堰川)までの広大な地域をさします。
 このあたりは古代、秦氏の生活圏であったといわれ、嵯峨野とこれ以東、現在の京都市北区の白梅町附近までがその範囲であったといわれています。 昭和の初期までは葛野(かどの)郡と呼ばれてていました。



 写真の清凉寺は、浄土宗の寺院。山号を五台山と称します。別名・嵯峨釈迦堂とも。。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)は弟子の盛算(じょうさん)です。中世以降は「融通念仏の道場」としても知られています。

 もともとここには、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(実はこの人、源氏物語の光源氏のモデルとの説もあるのですが)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったといいます。
 十世紀に入って、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいました。
 奝然は、宋へ渡航中、台州の開元寺で、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻した釈迦如来像を謹刻させました。釈迦像は、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれて今日に至っています。(現在は霊宝館に安置)
 この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。像の胎内からは、奝然の遺品、仏教版画などが発見され、像とともに国宝に指定されています。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目されるのだとか。 
 奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとしました。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置し、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に南都系の旧仏教の拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたといいます。




 「五台山」の額を潜り抜け仁王門を入ると、本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた阿弥陀堂があり、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されているのも特徴的です。また、本堂西側には南向きの薬師寺があります。現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建です。多宝塔、聖徳太子殿、春には京都三大念仏の一つが催される狂言堂、一切経蔵(輪蔵)などがあります。



 さてここには、もう一つ興味ある伝承があります。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある小野篁(おのたかむら・小野小町の祖父)。篁は、乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったといいますが、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとされることで有名ですね。
 この篁が行き来したという冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」ですが、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝えられています。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が建っています。

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