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2011年09月10日

小説・桂女恋花 第三章 秀存との別離

 第三章 秀存との別離

 月があけて六月、九十九らは、革嶋城で、土塁、矢倉の修復、兵糧の調達などの日々に明け暮れていた。山城国葛野郡革嶋南荘(現在の京都市西京区川島)は、桂の里の南に位置し、西岡諸豪族の居館の中では、最も北部にある。
 元近衛家政所屋敷(御所垣内)を引き継ぐ居館は、今井用水に沿って、堀と土塁に囲まれた方形の縄張りで、南北に細長くある平城だった。城の周囲は、田畑に囲まれ、さらに郷の周り、桂川の流れぬ処を土塁で囲む惣構の環濠集落を形成していた。
 革嶋氏は当初、近衛家領の下司職としてこの地に赴任した。以後、千代原、川島、今井溝の運河を抑えて財を成し、幕府直属の御家人に飛躍した。その財を貸し付けて、田畠の買得に導き、上六郷の惣領となっていったのである。
 用水を挿んで東に、一向宗の多い土地柄の辻河嶋村があり、革嶋一族に従っている。
 虎口に掛けられた土橋を超えると、すぐ傍らに茶室、庭園などもあり、奥には牛舎、厩、大きな二階蔵もあった。
 建ち並ぶ二階蔵に、次々と兵糧が運び込まれる。忙しく荷を運ぶ男の乱波衆や商人、人足たち。暑さで、袖を外した浴衣さえも、汗びたしだ。
 小袖の裾をたくし上げた恰好で、九十九もまた、額に汗をにじませ、日に焼けた赤ら顔で差配している。「暑いのは、少し苦手や」と思うも、「もう一踏ん張り」と気合を入れた。
「ちゃんと数を控えや。篭城となったおりに、正しゅう残りの日和が分かるようになあ」
 嘗め味噌(なめみそ――調理後の骨や皮についたせせり肉や肉片を細かく刻み、野菜と一緒にお味噌に練り込んだ物)=百と二十樽
 兵糧丸、水渇丸=それぞれ二百
 梅干=二百壺
 高野豆腐=樽三百
 塩合物(塩干物)=物集女の塩市より、樽三百
 堅魚(鰹を天日で干したもの――鰹節の原型)=土佐の長宗我部領より、三千本
「よし、堅魚は十分やな」 
 いつものごとく、すっと音もなく近づいた秀存が、九十九に驚いた様子で声を掛けた。
「これだけの堅魚を調達なさるとは、さすが里の威光でありまするなあ」
 九十九は、秀存に褒められ、嬉しくて、思わず飛び跳ねたくなる。いつのまにか、上唇を舌で舐めているのに気づく。
 食糧事情の悪かろう戦場で、戦士に「長持ちし、味気あるものを大量に確保してやりたい」と思った。堅魚の調達には、最も苦労しただけに、喜びもひとしおだったからだ。
 自らが差配する、桂の里の力を改めて、認めてもらえた、という思いもあった。
「是を噛ば性気を助け気分を増し、飢を凌ぐ、といいますし、戦陣の保存食として欠かせませんよって、気合を入れました由」
 秀存は、堅魚を手に取り、端を口に加え、丸かじりにした。満面に笑みを浮かべ、美味しそうにしている。
「うん、ええわ是。淀津からやなあ」
九十九は「こんなにも嬉しそうな若様のお顔、初めてやわ」と、さらに喜びが増した。
「へっ、そうでおます、我らの里は、石清水八幡宮神人として、淀舟、淀津廻船人の利用(淀津の通行権)、関津料免除の特権も得とります。海産物は淀魚市問丸中を通して、瀬戸内の海賊衆や悪党衆から、手に入りますゆえ、容易いことでおます」
 当時、京は、海産物となれば、遠隔地の海辺から導入せねばならず、瀬戸内海方面から淀川を経由して淀津の淀魚市に荷揚げされていた。この淀魚市は、現在の納所の南西、桂川・木津川・宇治川の三川合流地点の中州地点(中島)にあった。
 九十九は、堅魚の話をしながら、蜷川親長のことを、思い出していた。「この堅魚は、四国は、長宗我部領よりのもの。蜷川様は、お元気でおられますやろか?」
「淀津より舟で堺に出て、四国へ渡られたようや。今頃は土佐国へ下向しておるやろう。丹波国桐野河内の蟠根寺城に戻ることも叶わなんだ。元来の土地を奪われる悲しみ。味わいとうはないなあ」
 九十九は、本当にその通りだと思った。「うちなんぞに、一郷を預かる頭領などというものが務まるのやか」と今だ躊躇があった。
「ほんに、郷を司るものの責は、おおきゅうありまする」
 少し躊躇していた様子の下弦が、近づいてきた。
「語り合う二人の邪魔をしては成らぬか」とでも思われたのやなあ、と感じた。「ええように気を使こうてくれたわ」とも思う。
「若様、九十九様、お館様より、軍議を始めたく、そのように伝えよと」
「あい分かった」
 と二人が揃って合唱すると、下弦が愛らしい笑窪を浮かべていた。
二 
 土間を抜けて、襖のある、いくつかの部屋がある。隣接した渡り廊下を通り、最も奥にある主屋にて、軍議が行なわれている。天照皇大神、春日大神、八幡大神の三姿の描かれた仙通表装の掛軸の前で、板敷きに座して、居並ぶ重臣たち。
 上座に革嶋一宣、左に秀存、弟の忠宣、右に庶子家筆頭の革嶋勘由左衛門、下桂郷の中路善衛門、寺戸郷の大畠成覚、寺戸智近と続く。末席に、桂の里の九十九が座した。
 西岡の河川丘陵図を扇子で指差し、秀存の叔父の勘由左衛門が、伸ばし放題の真っ白な長髪を手で掻き揚げる。細長く、しゃくれた顎を突き出して笑った。
「惣構、矢倉、土塁、修復し、強固に構えておりまする。兵糧も、九十九殿のご尽力にて、領民を城内に匿っても、半年も篭城戦に耐えうるほどにあるよって。はっはっはっ」
 秀存は、いつものように淡々とした物言いだ。
「篭城戦とは、援軍の期待あってのこと、公方様すでに亡く、後ろ盾のなき我らにとって、篭城とは討ち死にを意味しまする」
「物のたとえにて、まっまあ、良いわ」
 九十九は「何や、気まずい雰囲気や」と感じた。その空気を掻き消すように、三好党の動静を探りに都に出ていた小七郎が、帰還して入ってきた。
「失礼仕ります。ただいま戻りましたよって」
 九十九は、笑みさえ浮かべている小七郎の様子を感じ取り、少しほっとした。
「兄上、都はいかな様子に?」
「うむ、どうやら洛中の制圧に、かなり手間取っておる様子。松永と三人衆の歩調も合わぬようにて、しばらくは動きもなきように思われます」
「いっそのこと、西岡のことなど忘れてくれれば良いものを。はっはっは」
 勘由左衛門が笑うと、またも皆が静まり返り、座が事醒むとなる。
 九十九は「まあ何とも、場の気配を読めぬ人や」と思う。
 ホッホッー、ホッホッー――。
 初夏の庭園から、静寂を打ち消す、アオバズクの泣き声が、辺りに木霊していた。

 永禄八年(一五六五)十月、西岡――。
 動きが始まったのは、松尾山麓に山紅葉が生える十月となった。
 八月に、藤孝らの救出した一乗院覚慶が、甲賀の和田屋敷より、室町幕府の再興を表明し、動き始めていた。三好三人衆と松永久秀の決裂も、兆しが見え始める。
 三好党は、擁立する足利義栄の将軍宣下のために、大量の奉納金を要し、また松永に先んじる事からも、西岡の権益を抑える必要に迫られた。緊張する状況の中、三好三人衆が一人、石成友道が、青龍寺城の奪取に向けて、軍勢を率い進軍してきたのである。
 革嶋一族の氏神・革嶋春日神社、神楽殿において、戦勝祈願が行なわれた。
 ぴ~ひゃらら、ぴ~ひゃらら。
 丸顔に大きな眼をした地蔵の吹く篠笛。甲音の高い音が、透き通るように響く。
 トットン、トントントン。
 と勇ましい太鼓音。彫りが深く、鼻高の南蛮風の女、千百の奏でる和太鼓の妙技。
 雅楽器の音に合わせて、九十九は、舞台に躍り出た。緋袴に鶴松紋様の千早を着て、桂の葉をあしらった前天冠を被るという、巫女装束に身を包んでいる。
 九十九は「いつも踊りに興じるときが、最も自分らしくいられる。わずらわしさも悩みも何もかも、その瞬間は吹き飛ばして、陶酔させてくれる」と感じていた。
 一歩下がって、左右に上弦が鈴を、下弦が笹とそれぞれ依り代となる採物を持って、無地の装束で続いた。
 上弦は、透き通るような白い肌、対照的に真っ黒に伸びた長髪を、後ろに、馬の尾のように束ね、背が低く、細すぎるほどの下弦は、巫女衣装にすっぽりと包み込まれている。
 祈祷殿前には、この年、桂川周辺の二毛作で収穫され、保存されてきた疏菜漬け、大豆、小豆、それに新米の俵。さらに、唐菓子の神饌や湯桶(米粉に柚の葉を挟み、油で揚げたもの)などが、淡竹で造られた笊に載せて供えられている。 
 巫女らは、神殿に向かって拝礼した。
 ぴ~ひゃら、トットントン。
 一段と高鳴る楽器の音に合わせて、九十九が、依巫となって、憑依神楽が奉納された。
「いやあっと、そおりゃあ、そおりゃあ、トトントントントントン……」
 板敷きを踏み鳴らす激しい音が木霊する。四半時ほどの舞を終える。
 九十九は、びくんと、体に何かが乗り移り、身震いするような感覚を覚えた。その場に倒れ込み、思い切り体を反り返らせる。一瞬、我を忘れたかのように感じた。朦朧とした意識の中で、龍神のごとき、しゃがれた声が、自然に流れ出た。
「伊邪那岐命、黄泉国より逃れ、禊せし折に生まれし月読命、汚れありとて、保食神を討てり、時に五穀誕生せり、月は再生の神なり、皆のもの、穢れは祓われた。いざ、いざ」
 と重々しく、ご神託を告げる。
「お~」
「えいえい、お~」
 軍勢の雄たけびが周囲に響き渡った。
 革嶋城に百の留守居を残し、勝青龍寺城に六百の軍勢が向かった。

 勝青龍寺城は、小畑川と犬川の合流点付近に位置し、西に西国街道、東に久我畷、南に淀川の水運を窺う要地であるため、数々の争奪戦が繰り広げられてきた。 
 京都盆地の西南部、青勝竜寺なる寺と古墳、環濠集落を利用して築かれ、堀と土塁で囲まれた平城である。
 北東には、鬼門除けとなる隅欠きがなされている。当時まだ、石垣や天守閣などはなく、建物は板葺き、茅葺き、藁葺きであった。
 かつて京を窺う南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築き、この頃、藤孝が勝青龍寺城を居城としていたと伝承されるが、十四世紀には城は存在せず、これらは、後の天正年間に、西岡支配の正当性を土豪たちに示すために創り上げられた物語だと言われる。
 近づく革嶋軍から先んじて、九十九は、城に伝令に駆けた。
 南東の大手虎口から続く土橋の上に立ち、すぐ内に聳える矢倉の番人に向かって叫ぶ。
「革嶋一宣様が手勢六百、まかりこしました。御開門あれ」
「革嶋様が軍勢六百、御着陣にございまする」
 との番人の大きな掛け声とともに、門が開かれた。
 その後も、矢倉番が、次々と声を発する。
「神足掃部様が軍勢六百、着陣にございます」
「物集女忠重様が軍勢六百、御着陣!」
「開田城より、中小路勢四百、続いて今里郷・能勢様の軍勢四百、御着陣にございまする」
 惣国の結集拠点とはいえ、小さな城には入らぬため、堀の周辺に、竹矢来などで囲いが造られ、陣が敷かれた。西方には、山紅葉で、真っ赤に燃え立つ天王山が聳え立つ。
 九十九は「まあ、各陣営とも気合が入ってるわあ。よう、これだけ集めたものや、今回は皆、必死やな」と思った。
 主殿の大広間にて、国衆たちが集まり、軍議が開かれた。
 広間は、板敷きの吹き抜けであった。越前の笏谷石を使った火鉢が置かれた。火箸は、神足郷の鋳物師座による自家製。丹波からの良質の木炭が、赤々と燃えている。
「今日は、寒うありますなあ。こういうときは人肌の温もりでも、あればと思うに」
 と中小路宗俊が、火鉢の上で、手を摺り合わせ、暖を摂り、ちらっと九十九の豊満な乳房に視線を向けてきた。
 渋染めの乱波衣装の上に、二つ葵の神紋入りの陣羽織を羽織った九十九は「このような時に、何を悠長なことを。ほんに、おとこしさんは、呆れるわ」と思う。
「宮司様が何を仰せでございますか。神罰が下りますえ」
「はっはっはっ」
 一同が笑う。その時「失礼します」と入ってきた物見役の上弦による戦況報告を受ける。
「石成が軍勢は、五千余、東寺より西国街道を進み、先刻、桂川左岸、石原郷あたりに布陣したようでおます。鶏冠井軍と川を挟んで対峙しておりますかと」
「あい分かった」
 と一宣は眉を顰め、丸に五本骨扇の紋入りの、陣羽織の上から腕を組んだ。一宣は、難しそうな表情をしている。
「引き続き、戦況を探るのや」
 九十九が上弦に命を下すと、一宣がゆっくりとした口調で続けた。
「うむ、桂川の右岸すぐ、先鋒として上久世、築山郷に陣を張る鶏冠井氏の軍勢六百を合わせて、我がほうの軍勢が三千と二百。よく集めたものや。しかるに敵は、五千余とな。中々、厳しゅうあるな」
 すると秀存が、いつもの冷静な口調で助言する。
「されど、地の利は我らにあるよって。河川、丘陵を駆使すれば、我らの方が優勢や」
 秀存は采配付鎧や袖、下散まで鮮やかな藍色に染めた、当世具足を身に着けている。
 九十九は「さすがは、若様や」と感じ入る。
 前立拳や草摺を朱に染めた胴丸姿で、いかにも、といった表情で、物集女忠重も頷く。
「そうや、それぞれが、西岡の地を知り尽くしとうさかい、案ずることはあらへん。まして、桂川すら渡らせへんわ。はっはっ」
「はっはっはっ」
 国衆一同が余裕の笑いを見せる。
 九十九も「皆、余裕のあることや。されどまあ、大丈夫そうやなあ」と安穏と構えていた。




 数刻後、一同を驚愕させる伝令が伝わった。小七郎が、
「大事にございまする」
 と声を上ずらせながら、国衆の前に駆け込んでくる。
「兄上、いかがいたしましたのや」
 九十九は、兄のただならぬ様子を感じ取り、凝視した。小七郎の顔は、真っ青だ。
「はっ、敵勢は桂川を越え、さらに築山、下久世、土川郷を進軍、すでに上植野城に入城。この青龍寺のすぐ向かい、小畑川沿いに陣を構えてございます」
 皆一斉に立ち上がり、一堂が騒然となる。神足掃部が、巨漢を揺らして、似合わぬ素っ頓狂な声を上げた。
「かっ、鶏冠井は、何をしてたんや。桂川右岸の陣だけやない、鶏冠井城も素通りであったと言いやるか?」
 小七郎は声を詰まらせる。
「そっ、それが、鶏冠井様の軍勢、石成軍とともに、小畑川の陣に合流してございます」
「なあにい!」
 一同が一斉に黄色い声を上げた。
 物集女忠重が、あわてて焼け火箸を、足元に落としてしまう。
「熱、おっ、おのれ、光則め、裏切りおったなあ」
 しばらくして、秀存が腕を組み、いつもの冷静な口調。しかし、顔に皺を寄せている。
「先陣は任せてやというに、はなから、寝返りのつもりやったか。昔、鶏冠井らは、かの大乱でも、西軍に属し、我らと対峙したと聞く。確執は、収まっておらぬということか」
 一宣が歯軋りをしている。
「よりも、上の郷が新しく井口を掘り、今井用水からの新溝を設けた際、漏水で水を取る下の郷の取水が、さらに悪うなった。以来、ずっと根に持っておるのや。この混乱に乗じて、取水口を抑える気で、三好党と手を結びおったのや。やられたわ、万事窮すや」
 桂川には、多くの井堰が設けられていたが、これらの内のいくつかは河川を横断する石積のもので、その漏水までが水争いの原因となった。

 それから、数日。石成・鶏冠井連合軍が、城に侵入しようとするも、九十九ら乱波衆をはじめとする、地の利を生かした防衛戦、土豪たちの必死の奮戦で、いまだそれを許さず。
 その後、何度か小畑川を挟んで、小競り合いが続いたが、戦況に大きな変化はなく、睨み合いが続いていた。
 布陣より十二日目の夜半。九十九は、小畑川沿いに出て、対岸を見つめていた。
 石成・鶏冠井軍の陣には、篝火が焚かれ、川岸から丘陵の尾根に沿って、無数の松明の灯が赤々と輝き、右往左往している。
 九十九は、初冬の枯れた藪から姿を現わす、烏瓜の朱赤の実を手にもぎ取り、弄びながら「いつまで睨み合いを続けなあかんのやろか。何か打開策はないものか」と考えあぐねていた。
 四半刻ほどだろうか、少し肌寒く感じた。城に帰ろうと思い、振り返りかけた時、敵陣の松明の明かりが、下から徐々に制止していくことに気がついた。
「えっ、どういうことや?」
 九十九は、もう一度、じっくり対岸を注視した。
 ゆっくりと流れる、小畑川の川音だけが、やけに耳につく。
「変や、動かんようになった」と心中で呟く。
 この時季、独特の冷たい川風を遮って、後ろから巨漢の男が現れた。小七郎だ。
「姫、何をしておいでや」
 はっとした九十九は、肩越しに上から覗き込んだ兄の顔を凝視した「良く見ると兄上も、中々に良いおとこしや」などと思う。
「うちも、こんな時に、悠長なことを」と思い直して、小七郎に問うた。
「おかしいとは思いまへんか?」
 小七郎は、顔を数度、縦に振って頷いた。
「やはり、感じておったか」
 優しい物言いで、感心したような表情をしている。
「へっ、あまりにも静か過ぎるんどす」
 そこに秀存が、いつものように、すっと音も立てず現れた。
「九十九殿、夜襲を懸けてくれへんか。このままでは埒があかぬ。挑発程度で良いのや」
「はっ」
 秀存様も、何かおかしいと思とう。考えは同じやなと思った。

 乱波衆を中心に、すぐさま夜襲部隊が編成された。
 小七郎、上弦、下弦、地蔵、千百らが居並ぶ。弓矢隊、槍隊、三百人が組織された。
「みんな、行くよ」
 九十九が采配を振り、奇襲作戦が開始される。
 一隊が、小畑川の上流から、藁を敷き詰めた数十の小船に火を放ち、一気に押し流す。さらに敵陣の正面から、夜襲部隊が、小船群に巻火矢(竹筒の中に火薬を詰め、縄で巻き、締めて圧力を高めたもの)を一斉に投げ込み、爆破させた。
 どど~ん、どんど~ん……。
 川岸は、爆発の閃光で、一気に明るく鮮明となった。 
 驚いた敵勢に向かって、弓矢隊が一斉に弓を放つ。
「やあ~」「いやあ~」
 数百の槍隊が、一気に切り込んだ。九十九は、一瞬、よしやった、と思った。ところが、小競り合いが続いたが、敵は「引けえ、引けえ」と、あっさり引いていくではないか。
「何んや、いったい?」
 九十九は、訳が分からず、一瞬、頭の中が真っ白になったように感じた。
 奇襲部隊の者どもも、まるで狐狸にでも化かされたような、呆気にとられた表情だ。
 はっと、我に返った九十九は、ようやっと周囲の状況が把握できた。
 数百の藁の人形に、甲冑や小袖などが掛けてある。等間隔に建てられた数珠繋ぎの松明。
「やられた」
 小七郎は、すべてを悟った様子。
「敵が消えた」
 九十九の脳裏に、いやな予感が走った。

 翌日、青龍寺城に戻った九十九のところに、急使の与一が駆けつけた。 
 初冬の寒さを打ち消すほどの汗びたしで、ふうっふうっと、懸命に駆けてきた様子の与一は、息も絶え絶えになっている。
「姫様、大事。革嶋城が、数千の軍勢に取り囲まれておりますのや」
「なんやてえ」
 傍らにいた一宣、秀存は、顔から血の気が引いて、絶句している。
「やはり、そうやったのか」
 九十九は、予感が的中してしまったことを、残念に思った。不可思議な点が浮かぶ。
「しかるに惣構は、どこから抜けたのや」
「はっ、それが、辻河嶋が、すべて開門し、敵勢を領内にすんなり引き入れてございます。尚、本願寺派の僧兵が、部隊を指揮する姿も見られまする」
「何と、一向宗徒のやつら、飢饉の折の恩も忘れよって」
 一宣が地団駄を踏む。
 悔しさを顔面に露にしながらも、いつものように冷静に、秀存が語る。
「恩にも思うておらぬのや。種籾の貸付の形に、自作の田畑を取り上げられた、と怨んでおるのや。ほんに、人心というのは……」
「皆の衆、ごめん。我ら至急、帰参いたす」
 一宣が早々に立ち上がり、革嶋衆が後に続いた。
「我らも戻るよ」
 大八木衆に命を下した九十九は「辻河嶋という領内衆まで敵に回してしまった。四面楚歌や」と不安を隠しきれないでいた。


  九
 石成・鶏冠井連合軍は、下五ヵ郷を抜け、御室川に沿って北上、山陰道側から、革嶋城のすぐ北西の辻河嶋に入っていた。
 革嶋軍、大八木衆は、寺戸郷から物集女城を経て、革嶋郷の南に位置する、向日丘陵のあたりまで戻ってきた。
 西岡の中心に南北に横たわる向日丘陵には、山塊の尾根上に古の時代に築かれた大小さまざまな古墳が眠る。古墳群の周りを縫うように、鬱蒼とした大竹林が続く。この頃はまだ、孟宗竹などはなく、矢柄(矢の幹)に用いる様な竹、箟竹(のだけ)の林であった。
 向日丘陵から伸びる段丘の端から、背の低いアカマツの木々の間、落ち葉の積もる道をつづら折に抜ける。淳和天皇の柩を運んだ車を埋めた塚と伝わる物集女車塚古墳があった。
 一町ほどの高さしかなかったが、丘陵の尾根に立ち、椎やクヌギなどの雑木の間から透かし見れば、二里ほど先の革嶋城は、良く見渡せた。
「時すでに遅しか?」
 九十九は、肩の力がすっと抜けていくのを感じた。
 堀と土塁で囲まれた革嶋城。点在する館や二階蔵の真ん中、主殿あたりから火の手が上がるのが見えた。堀に渡された土橋の辺りで、蠢く人々の姿が、微かに窺える。
「皆、逃げ惑っているのであろうか」と案じる九十九の元へ、四半刻にも足らぬ間に、次々と大八木衆の伝令が入ってくるようになった。
「館はすでに、鶏冠井軍が乱入、占拠されておりまする」
「留守居、中路善衛門様他、御大将方、討死」
「奥方様、姫様方と共に城を落ちられましたれど、行く方知れず。伊勢様が遺児、熊千代君を供に、逃れられたようにございます」
 報告を聞いた九十九は、思わず溜息を付く。
「ふうっ、熊千代君、またも追われねばならなんだか……」
 しばし一同は、なすすべもなく、呆然と燃え上がる城を眺めていた。
 俄かに曇り始めた空が、朝日を遮ると、薄暗い中に、炎が一層赤々と燃え、背後に流れる桂川の水面さえ、浮かび上がらせるほどとなった。
 炎が徐々に広がり、城が焼け落ちていく様子が鮮明になってくる。
 さらに四半刻ほどが経った。九十九は、異様に長く感じた。城の火が下火になると、今度は、周りの集落あたりからも、次々と火の手が上がりだした。
 一宣が、ぼそっと呟いた。
「もはや、これまでか」
「父上」
 一宣と秀存が、お互いを見つめ合う。一宣は、悔しそうに、体中を震わせている。
 秀存が、鋭い眼光で、語りかけるように合図をすると、一宣が、縦に数度、頷いた。
 九十九は「まるで目で会話をしているようや。さすが親子や」と静かに様子を見ていた。
 秀存が意を決した様子で、皆に告げた。
「在地の者は、しばらく避難の後、帰参するんや。服従を誓えば、田畑は安堵されよう。川上に勤めおる者も、同じや。今まで、よう革嶋に尽くしてくれた」
「お館さま」「若様ああ」「う~」
 在地の百姓衆、川漁師衆ら数百人が、秀存と一宣に次々と近寄り、何十にも取り囲んだ。一斉に崩れ落ちるように、膝を崩して咽び泣く。
 秀存は、最前列にいた大畠成覚、寺戸智近の手を、順に取った。
「大畠殿、寺戸殿、郷に帰られよ」
 一宣が優しく語り掛ける。
「百姓にとって、土地は命や、それがあれば、また生きてもいけよう。この革嶋の地をよろしゅう頼み申す。皆の者、さっ早く行くのや」
「お元気で……」「必ず再起を……」
 と在地の者たちは、帰り際に次々と革嶋親子に激励をしていった。
 九十九は「お館さま、若様の人徳や」と感じられずにはいられなかった。
 革嶋一族と大八木衆だけが、その場に残った。
 さらに八半刻が流れた。赤々と燃え、もう燃す物もなきほどに下火になった。
 落ちていく革嶋城を見ながら、見るからに意を決して、一宣が脇差を取り出し、西向きに座りなおした。目を閉じ、両手を合わせると、まるで神仏に身を任せるかのごとき、穏やかな表情になっていく。静かに、しかし、力強い口調。
「西方浄土の阿弥陀は、こちらにおられようか? 秀存、先に行くぞ、介錯いたせ」
「はっ」
 九十九は咄嗟に「あかん、お館様を死なせとうない」と思う。
 まだ、くノ一に成り立ての頃、優しく頭を撫でてくれた一宣の、昔の情景が浮かんだ。
 慌てて両の手を広げ、一宣を制止した。
「待っておくれやす。おとこしはんは、何故、そんなにも命を粗末になさるのや」
 一宣は、少し顔を強張らせた。
 九十九の手を振り払い、押し戻しながら、まっすぐに九十九の目を見つめてくる。
「九十九殿、止めて下さるな、女子には、分かり申さぬやも知れぬ。一介の土豪とて、幕府被官の武士や。城主たるもの城を取られて、おめおめと生き恥をさらせようか」
 九十九もまた負けじと、一宣を凝視した。
「何をお言いや。男も女もおへん。皆、元は、女子の御腹より出でし、神の子や」
 秀存が、高く掲げていた刀を一瞬ふっと下ろす。十三代将軍の義輝より拝領の鬼丸国綱が月明かりに照らされて、一瞬、きらりと光る。閃光が、九十九の目に入った。
「おとこしはんは、お産するとこ、命の生まれるとこ、見たことおへんよってに、粗末になさるのや。妊婦は、苦しんで、苦しんで、時には、母親のほうが助からんことやってある。それこそ命がけで、皆を産んだんや。その上なあ、赤子の内に何人も亡くなってしまう。市杵島姫神様のご加護で、生まれ出でた命、粗末にせんといておくれやす」
「今さら、ここに及んで、何を。秀存、介錯を」
 一宣は声を上ずらせ、動揺を隠し切れない様子、秀存は、少し躊躇している風である。
「父上、わしも正直、迷うとりました。我らが一党、海賊衆の丹後革嶋党に身を寄せ、臥薪嘗胆、再起を図れへんかと。苦難の道とはなろうけど、ここで命を絶つんは、むしろ、そのほうが安易な道なんやないか、と。九十九殿の言は、渡りに舟でおます」
「秀存、臆したか」
 九十九は「どうしても、聞いてくれそうにないし。いや、一度こうして出した刀を、簡単には納めれん。何かきっかけ、落としどころがいるんや。そや。やっぱりここは、神託に頼るしかない」と心中で自問自答した。
「しばし、お待ち、誰か焚き火を。幣を持ちや」
「へっ」
 周りで様子を窺っていた下弦らが、慌てて枯れ木を集め、銅火を用いて火を起した。
 九十九は火の上に、懐より取り出した亀の甲羅を置いた。次いで、渡された幣を、大きく振りながら「何がなんでもお館様をお救い申し上げたい」との一念を持って、必死に呪文を唱えた。
「……石清水八幡大菩薩、市杵島姫神様のご加護あらん」
 すると、何としたこと、甲羅が割れもせず、清水の京焼きのごとく、綺麗に焼成してしまったではないか。
 よし、やった、と思う。
「大吉と。神託も下されてございます」
 一宣は「観念した」という様子で腕を組む。
「ふっ、分かった、分かり申した。神託とあらば、仕方あるまいな」
 九十九は一宣の膝に手を当て、力強く諭した。
「お館さま、城は取られても、この桂の里は、必ず守り抜いて見せますよって。お館さま、若様、一族の方々の帰参するところが、消えてなくなるわけやおへん。生きとったら、また再起の道もあります。必ず帰っておくれやす」
「うむ、分かった」
 これで、秀存様も生きててくださる。九十九は、少しほっとした。

 一行は、上桂郷から竹薮の山道を抜けた。ここから嵐山の麓を尾根伝いに林道を進み、沓掛山を越えて、丹波亀山に至る。いわゆる唐櫃越えを選んだ。
 鬱蒼とする林へと続く沓掛山の麓。木々の根や崖ふちに、毒鶴茸や橙笠といった茸が毒々しく生え、猿の軍団が、尾根道を横切っていた。
 大八木衆を率い、護衛してきた九十九は「いよいよ、別れや」と秀存をじっと見つめた。
 やっぱり素敵や、と改めて思う。瞳が潤むのを感じた。
「人心を欺いての謀反、長続きはしませぬ。きっと再起の機会が訪れますよって」
 秀存が、気難しい表情でしみじみと語る。
「九十九殿、この事態は、我らの驕りが生んだのや」
「驕り?」
「飢饉のときに、種籾さえ残らぬ百姓衆に、貸し付けてやった。その形に取り上げた田畑を集めて、利ざやを独り占めしてきた。取水口も、しかりや。そのことで、上の郷は、随分と潤った。しかし、それが結局、下の者たちのの怨みをこうたのや」
 九十九は、落ち込んだ様子の秀存を何とか、励ましたいと思う。
「されど、お館様や若様のおかげで、共同の大きな畦道もできたし、橋が架かり、堤の修復もできる。ほんに利がようなったと、皆、申しておったし、悪いことばかりやおへん」
「そうやけど、元は我らも同じ百姓であったやろに、いつしかそれを忘れて、人心が離れていっとうことに気づかへんかったんや」 
 九十九は、秀存の噺に、自らの境遇を重ね「一族の頭領として、胆に銘ぜねば」と思う。
 秀存が、今度は淡々と語る。
「一向宗の開祖、親鸞上人は、海川に網引きや釣をして生きる者も、野山に猪を狩り、鳥を取る者、田畠を作りて優る者、商いをする者、皆、只同じことなりと申して、万民平等を唱えたと言う。奴らの言い分が、本当は正しいのやも知れぬ」
「一向宗でおますか……」
 九十九は「難しい問題や」と感じながら、呟いた。
「ほんに政とは、難しきことやなあ」
 と秀存もまた、顔を横に数度となく振りながら、言葉に溜息がまじる。
 九十九は「同じように感じてはる」と思い、頷いた。
「ほんに、そうでおます」
 九十九は、眼の間から止めなく鼻筋を伝って溢れ出る涙の温もりを感じる。
「秀存様、桂の里に戻らねばなりませぬ由、別れでおます」
「うむ、息災でなあ」
 秀存は、やはり無機質な口ぶりであった。
 九十九は「最後まで、この人は、感情のない。無愛想な男や」と思う。
 尾根道を行く革嶋一族を見送る大八木衆。ところが、その時ひょいと反転し、九十九の前に戻った秀存の言は、まるで感情の高まりが溢れるように、激しかった。
「九十九殿、わしは誓おう。そなたにまた会えるよう、必ず西岡の地に、戻ってまいる」
 九十九は「嬉しいわ、うちのために、そう言うてくれただけで救われる」と思った。自分の頬が、笑顔で緩んでいるのを感じながら、秀存の顔を、まじまじと見つめた。
「若様……、へっ、待ってます」
「この人にも、やっぱり感情はあったんや」と思う。
 九十九は「結ばれぬ恋であることは、重々分かっている。しかし、今は、そんなことは、どうでもいい。若様の帰参する場を守り抜いて見せる」と、決意を新たにした。林の中に消えていく革嶋一族を、姿が見えなくなってもなお、手を振りながら見送った。
 忘れ草ともいう季節外れの萱草。八重咲きの花が、別離の悲しみを癒してくれようか。
 木々には、冬鳥の紅益子が、木の実の皮を剥きながら、食べては小枝を移る姿が垣間見られる。鳴き声が、沓掛山に美しく木霊していた。  

Posted by 篠田ほつう at 18:45Comments(4)小説「桂女恋花」

2011年08月07日

小説 桂女恋花 第二章

   第二章 桂の里と西岡の土豪たち

 九十九は、雨の中を、葛野大堰に沿って、ひたすら駆けた。今頃、桂の里は「騒然となっているに違いない」と気が急くばかりだった。
 桂川は、丹波山地の大悲山付近に源を発する河川である。その右岸、現在の上桂から下桂にかけて、九十九たち、桂女の産する桂の里が広がっていた。当時は、この里を含む、上六ヶ郷付近一帯の惣領となっていた革嶋家の支配下にあった。
 九十九が、久我畷から、北へ、桂の渡しまで帰ってきた頃には、少し日が翳り、辺りは薄暗くなり始めていた。幾千の日々を、川を行き来する船の安全を見守ってきた、土手沿いの愛宕常夜灯が、川面に映し出される。
「急ぎやあ~、早うせんと日が暮れきってしまうよってな」
 小雨の中で、沈み行く夕日が創り出す、双子の虹を背景に、渡り舟の船頭や、褌姿の人足たちが、ゆったり、何とも優雅に荷駄の積み下ろしをしていた。
 丹波や摂津からの木材の陸揚げ地であり、野菜や穀物、諸年貢、肥料糞尿の運搬にもこの渡り舟が使われた。
 傍らに、嵐山付近で桂川を堰き止め、物集女・寺戸を経て、羽束師で再び桂川に注ぎ込む今井用水。かつて渡来氏族の秦一族が造った潅漑用水路があった。
 西岡十一ヵ郷(上六郷・上桂、徳大寺、下桂、革嶋、下津林、寺戸、下五ヵ郷・牛が瀬、上久世、下久世、大藪、築山)が契約を結び、用水の掟の順守を誓い合い、維持・管理しており、おかげで、当時、この地域は、随分と活気を帯びていたのである。
 湿った雑草の堤を、そろりと川岸に降りたった九十九は、あまりにも長閑な様子に驚かされた。
 ちょうどそこに、里の配下の問丸の主人、痩せこけた小男の清兵衛が、船頭や人足を指示していたので、捕まえて問うた。
「都の公方様が、殺された。伝令は伝わっとうわなあ」
 清兵衛は、地味な着流しの小袖の上から肩を掴まれ、驚いた様子をしている。
「あっ、これは九十九様、お帰りになられましたのやなあ。確かに聞いとります」
「確かにやない。いったい、この長閑さは、なんね?」
 不可思議に思った九十九が捲し立てる。清兵衛が圧倒されている。
「確かに、小七郎様らが、お戻りになって、公方様のこと、お聞き申しました。皆も一時は、不安を隠せぬ様子やった。されど伊波多の婆さまが、案ずるなとおおせに。我ら太古より、神聖なる巫女の一族、禁裏様の御厨子所にお仕えし、天子様の膳に鮎を供する供御人の一族ぞ。禁裏様のお出入りお構いなし。川魚の扱いも、川上も通行勝手、と桂川のことでは、諸役免許を賜っておる。何も変わらぬ。と皆をお静めなさったのや」
 九十九は「さすがに、婆や、動じとらへんな。婆の威厳は、凄まじく大きい。うちも里のこと、もっと誇りを持って、語れんとあかんわ」と改めて思う。
「それよりも、もっと大変なことに、なっとうし、館に行ってみなされ」
「もっと大変なこと? なんね」
「いったい、公方様殺害の急報より大変なことがあるのやろか」と不思議に思う九十九に、清兵衛が少し笑みを浮かべた。
「まあ、行けば分かりますよって……」
   二
 松尾社より罧原堤を横目に下り、今井用水の傍ら、松室の地から、上桂にかけて、月読命を祀る里の鎮守、月読神社があった。当時は、広大な敷地を有し、朝廷より最重視された延喜式内社である。
 九十九は、上桂郷を囲う、堀と土塁の惣構を抜けた。郷の北門付近から繋がる、大きな石造りの鳥居をくぐる。眼前に迫る松尾山麓が、鮮やかな新緑に蔽われていた。
「月影、お前は、ここまでや。はい、ご褒美や」
 と飼い葉桶にある干した萓や小笹を与え、、月影を、馬舎の敷き藁の上に入れた。
 石段を百段ほども上がっていくと、傍らには、藁葺きの客殿があり、奥の庭園より流れ出ずる小川に、木橋が架けられている。橋を渡ると、朱、藍、橙の色彩鮮やかな、二階建て楼門に至る。
「いつもながらに、疲れるこっちゃ」
 と思いつつ、もう一踏ん張り、さらに急な石段が続く。
 周りを竹林に囲まれた参道は、鬱蒼として昼なお暗く神秘的な佇まいだ。途中、入母屋造りの石祠二体が祀られ「月読神社」の文字が刻まれている。聖徳太子社もあった。
 解穢(かいわい)の水が沸き出る石造りの井戸、紙垂の巻かれた縁結びの木を横目に進むと、鮮やかな朱塗りの鳥居が現れた。鳥居をくぐると、松尾造りの祈祷殿と御本殿が、悠然と並んで鎮座し、手前には、木目調の欄干が設けられた舞殿をも併せ持つ。 
 祈祷殿の傍らには、大太鼓と大幣が飾られていた。桂の里は「月の影は桂の巨樹」と、その名を中国の故事に由来し、月の桂と愛される土地柄だ。象徴するかのように、沈丁花の花が咲き誇っていた。
 何やら奥が騒がしいな、と思いながら、九十九は崖沿いに、へばりつくように生える桂の木の袂を抜けて、境内を進む。紙垂の巻かれた月延石の前に篝火が焚かれ、十数人の里の巫女たちが、一心に祈祷をしている。
「月読命某神社乃恐美恐美母 親王妃宮今年乃春乃頃与里御身体芽出度伎御吉兆……市杵島姫神介給布御儀式……御食御酒種種乃味物乎献奉里 ……恐美恐美母白須……」
 と前列の二人が祝詞を捧げる。
「悪霊退散、悪霊退散……」
 後ろの者どもが、白木の棒の先に、金箔、銀箔、五色の紙垂をつけた大麻(おおぬさ)を、左右に振り回し、その幣に穢れを吸いこもうと必死になっている。
「安産の祈祷や。誰か、産気づいたな、これだけの人数、相当、気合が入っとうなあ」
 と思っていると、後列にいた巫女の一人、まだ齢若い下弦が、九十九に気がついた。
 萱草色の緋袴の裾から、細くしなやかな足元を覗かせ、そっと近づき、耳元で囁く。
「九十九様、お帰りなさいませ」
「何があったんや?」
「ええ。かつて市杵島姫神様が、月読尊とともにこの地に降りたちし時、撫でて心身の安泰を祈願したと云われる月延石。この安産の石に、祈願しておりますのや」
「分かっとうし。月から延びてきた神石なんやな。何でそうしとんや、と聞いとうや」
 九十九は、のんびりゆっくりと話す下弦に、少しいらついて問うた。「何でこの子は、いつもこんなに、のほほんとしとるんやろ。ほんま調子狂うわ」と思う。
 あまり気にせぬ様子で、下弦が更にゆっくりと話す。
「かの、やんごとなきお方のためどす」
「何やて? かの姫様……、一つ月が早いんやないん」
「そやし、みんな大慌てどす。石清水八幡はんでも、祈祷が始まったそうどす」
「ほうかあ」
 下弦は、不思議そうな表情をしている。
「それにしても、最近は、お公家様方の御内室のお産が、多おすなあ。何でですのん?」
 伊波多は「そんなこと、うちに聞かれても、知らんわな」と思う。それでも、大真面目で問う、若い下弦に、何らかの返答を、してやらねばと思った。
「さあ、まあ、摂関家や青華家のやんごとなきお方たち、長らく政から遠のき、和歌や連歌に打ち興じておるわ。他にすることが全然ないんや、きっと。ふふっ」
 九十九は男女の交わりを想像して「変なことを言ったかな」と少し気恥ずかしくなってしまった。

 崖沿いに神社と併設して、桂の里の棟梁、伊波多の婆の住まう館がある。
 竹林に包まれた正面には、防御機能を備えた木戸が設けられ、だだっ広い敷地の中、建物は、九間ほどの藁葺き、掘立式の木造造り。渡り廊下が繋ぐ離れには、欄干も設けられ、広い御産所があった。檜の板張りで、田舎には似つかわしくない、豪華な施設である。
 庫裏の前では、大きな釜に湯が沸かされ、小袖の裾をたくし上げ、やはり頭は桂包み、白襷掛けの女たちが、右往左往している。
「もっとようけ要るし、急いで沸かすんや」
「気をつけや、ほんに熱いし、慌てず、ゆっくり運んだら、ええさかいなあ」
 湯を運ぶ女たちの桶から、熱湯がこぼれ落ちる。皆顔を歪め、必死の形相だ。
 九十九は「確かに、こりゃ、えらいこっちゃ」と思う。庫裏横の玄関から、急いで奥座敷に向かった。
 周囲に畳を追回しに敷き、中央は板敷を残す、すべての灯が消されている。月明かりで、僅かに姿が認められる婆がいた。月読尊を祀る神棚の下で、大きな掛軸の前の褥に座す。
 六十過ぎかと、思っているのだが「齢など数えたことがないわ」という婆のこと。孫娘の九十九さえ、本当の年齢を知らない。
 久しぶりの面会だったが、紅の緋袴の巫女装束で座る婆を見て、一段と老けたように感じた。霊力の使いすぎではないかと、心配にさえなる。
「クキリクア クウンバン ウンタラカンマン ボロン ソワカ……、市杵島姫神よ、出でて神託を授け給え……ウンタラカンマン オ~ウォ~」
 五芒星の真ん中に座し「天、地、玄、妙、行、神、変、通、力、勝」の十字を唱えては「エイ、ヤア」と刀印を打ち下ろす。
 真っ白な長い髪の婆は、力強い重音を発し、囲炉裏の炭で、亀の甲羅を焼き、ひび割れの様子から、卜占を行なっている。亀の甲羅を床に叩きつけ叫んだ。
「うん、厳しいなあ、小凶と出ておる。助かれば良いが」
「婆様、なんで、灯り全部、落としてるん?」
 不可思議に思った九十九は、婆に問う。「里帰りの挨拶もせなんだわ」と思った。
 婆は木炭の残り火をも消し去る。九十九の顔を、下からじっと覗き込む。皺を寄せたが、少し笑みを浮かべた優しい顔で、まるで何かを伝授するかのように語りだした。
「ええか、火もまた、お産の穢れを受けるよってや。お産は穢れの一つやでなあ。そやから、都の高貴なお人たちは、洛中でお産はなされぬのや。九十九、座して聞かぬか」
 九十九は「しまった、わざわざ婆の長い話を、焚き付けてしもうたわ」と思う。
 何度となく聞かされたいつもの話を、婆がまた話し始めた。
「かつて、我らが始祖、月読尊が、比売大神様と市杵島姫神様と申す、それは美しき姉妹とともに、日ノ本に降り立った。やがて、豊葦原の中つ国に築かれた王国で、妹御であらせられる姫神様は、月よりの神石(隕石)を崇敬し、御心を静められ、大神様をご出産なされたのじゃ」
「うん、そやったな。ああ」
 九十九は「しゃあない、最後まで付き合うわあ」と覚悟を決めた。
「え~こほん、語りを続けるぞ。ところがなあ、安らかな日々は続かなんだ。時を経ること十数年、発展する王国を恐れ、再三に亘って侵略が繰り返された。姫神様と大神様は、一族を守るため、ついに東遷し、王朝の歴史が始まったのじゃ。一方、年老いた月読尊は、安穏の地を求めて、湯津桂に寄って立った。これが、桂の里の起こりや。この神石は、月延石(月より来た石)と呼ばれておる。三つに割られた神石は、この月読の祠、糸島の鎮懐石八幡の社、あと一つが、壱岐の月読の社に祀られたのじゃ」
「うん、うん、その通り」
 九十九に構わず、婆がさらに続けた。
「え~、こほん。それでじゃ。その後、帝や、今は五摂家に分かれておるがの、藤原の一族とともに、この京の地に、陰陽に基づき、理想郷ともいうべき、平安京を築きあげた。しかしじゃ、以後、我らが表に出ることは、もはやない。我らは陰に徹して、この平安の都の安泰に暗躍することを決意したのや。我が一族の宿命を背負って生まれた者、それが九十九、お前なのじゃ。良いか」
 延々と続く長い話が、四半時も続いた。
「あ~、あっ」
 九十九は「そろそろ終わりやなあ」と思いながら、思わずあくびをしてしまった。
 気にもせぬ様子で、婆がようやっと最後のくだりを語る。
「よいか、人の一生の運は、臍の緒を切る産婆によって、与えられるのや。赤子を奪い去ろうとする物の怪より守り、命を吹き込む大切な役目、しかと引き継がねばならぬ」
 九十九は「ようやっと本題に入れるわ」と思った。
「よう分かったし。時に婆様、公方様が殺され、この西岡あたりを三好党が放っては置かぬのやないか。我が里は、どうなるんや?」
 婆は、しわくちゃの顔を、さらに寄せて、薄ら笑いを浮かべる。
「焦らずとも良い。この神聖なる桂の里に、天子様の臣下の臣下など、手出しできぬわ」
「革嶋の館は、どうなるん?」
「我ら革嶋と日常を一にしておるのも、川上の利が一致しておるからに過ぎぬ。良いか、九十九。我が後継として、どのようになっても、里の誇り貫き通すこと、忘れるでない」
「また、言うし。石清水八幡はんと御幸宮に、神官として姉様方がおられるやない。なんで、うちやのん」
 九十九は、一番下の自分が、後継と言われることが、どうしても腑に落ちなかった。
「伊波多の後継は、選ばれし者……、まあ、ええわ。いずれ分かる。時に、明日の夕刻、向日神社にて、西岡被官衆の合議じゃ。あての名代として、おまはんが出るのや。ええか」
「へっ、分かったし」
 九十九は「そんな大役を」と思いながらも、しぶしぶ了承した。するとそこへ、御産所よりの使いの者が催促に来た。
「婆さま、そろそろ、出るようや。よろしゅうに」
「九十九、おまはんも来るんや」「へっ」
 九十九は、お産の立会いは初めてだったから、興味津々で、婆の後に続いた。


月読神社


 静かな奥座敷から一転して、離れの御産所では、壮絶な闘いが繰り広げられている。
「う~う~、ふっふっふっ、う~うお~」
 まるで龍神の声かとも、思われるような雄叫び。
 妊婦の額から、肌蹴た白襦袢の首筋から、肩からすさまじい勢いで汗が流れ出る。
 隣室の床板を外して盾とし、米俵を体の両側において、その間で、口に白布を噛みこみ、断末魔を思わせる凄まじい形相で踏ん張っている。
「う~、うお~、うお~」
 苦しさで暴れる妊婦を、女たちが数人掛かりで押さえつける。
「いかん、体が冷えてきとる。足と腰をさすって、気を入れるんや」
 産婆の叫び声とともに、女たちが両足と腰を、摩擦するかのごとくさすり始めた。
「ええか、もう少しや。気張りや」
「う~ふっふっう~ん」
「気張るんやあ」
 と励まされれば、妊婦がぐっと踏ん張る。
「力抜けえ」
 で一旦、力を抜く。
「ひーひーふぅ」
「ひーひーふぅ」
 と産婆が耳元で復唱する。産婆の額からも汗が止め処ない。
「良し、体も温こうなってきた」
「さぁ、来るんや。ひーひーふぅ、ひーひーふぅ」
 傍らで見ていた九十九は、お産というものは、こんなにも凄いのかと感嘆した。
 どないしょう、されど手伝おうにも、圧倒されて、身動きが取れない。
「よっし、ええよ、ええよ、見えてきたし」
「う~、うお~」
 産婆たちの声に励まされ、妊婦がさらに踏ん張る。
 しかし、妊婦の顔色は真っ青だった。紫色の唇を震わせながら、産婆の衣装を揉みくちゃに掴み、息も絶え絶えに声を振絞った。
「ふう~ん、ふう、ふう」
「あかん、逆子や、みなで引っ張り出すえ」
「せえのお、よいしょ」
「うお~」
 松尾山麓をも揺るがすほどの、妊婦の悲鳴が響き渡る。
 ようやっと、引っ張り出すものの、赤子は泣きもせず、身動きもしない。急な破水で、臍の緒が首に絡みつき仮死状態だったのだ。その場に言いようもない緊張が、駆け巡る。九十九も焦った。顔から血の気が引くのを感じた。
「あかん」
 産婆は赤ん坊の足首を掴み、逆さまにすると赤ん坊の背中を叩いた。
「ええか、泣け! 泣け! 泣かぬか!」
 八半刻に足らぬほどの静寂。
「うわんぎゃあ~、あぎゃあ~」
 と赤子が、大きな大きな声で産声を上げた。
「やったあ~」
「ほんに」
 その場が歓喜に満ちた。
「良かったし、良かったし、うん」
 女たちは、涙ぐんだ目で、互いの肩を叩き、縦に飛び跳ね、頬を摺り寄せる。
 早産のために体は小さいが、元気な男子であった。在所の使者より届けられた守刀と掻巻(綿入れの夜着)を袂に置き、臍帯を切って縛り、傷跡を焼く儀式が行われた。
「よし、付いとるもんも付いとる」
 と頷きながら、臍切り婆役の伊波多の婆が、すばやく臍の緒を切りとり、さっと鮮やかな手並みで結んだ。
 生まれたばかりの赤子は胞衣(胎盤)と一緒に請衣という白羽二重に包まれ、産湯に浸かる。この時、古例に従い、桂川の水と月読神社の解穢れの井戸の水を合わせたものを使う。洗浄された胞衣が白木の胞衣桶に納められ、隣室の西北隅に置かれる。
 産湯から上がった赤子は、襦袢と袖なし、御巻で巻かれた。
 赤子が、元に返されると、妊婦は、力を使い切った弱弱しい手で、慈しむように顔を撫で始めた。その姿は、ふくよかな幸せに満ちているようだった。
 九十九は、眼と鼻筋の間を流れ落ちる、止め処ない涙の温もりを感じた。「かつて、こんなに感動したことが、あったろうか」と思う。
「良かった、ほんに良かった……」 
 九十九が、境内に出たときには、もう夜が明けかけていた。
 透き通った桂川に早朝の日が射して、照り返しがまぶしい。川面には、燕や東風鳥が落ちては上がり、落ちては上がりを繰り返す。鴨の親子が、とっとこととっとこと、と何とも危なげに、罧原の堤を斜めに横切っていく。
 九十九は微笑ましい姿に「おまはんらも、頑張って生きるんや」と、励ましていた。
「お疲れさんどした」
 と、下弦が愛らしい笑窪を浮かべ、会釈した。本人も疲れきった様子だ。
「この子も、よう頑張った。さっきはいらついて、すまんやったなあ」と、つくづく思う。
 陽射しを避けて、額を腕で覆う。いつになく優しい口調の物言いが、自然に流れ出た。
「そっちこそ。今日は、ゆっくり休みや」
 九十九は、公家衆に「することがないのやろ」と言った自分を恥ずかしく思っていた。
「命の誕生とは、こんなにも凄いのか」と感動に打ち震え「この命、決して粗末にはでけん」と心の中で、しみじみと思った。



     五
 次の日の夕刻、九十九は、またも駆けていた。
 九十九は、今井溝に沿って、一路ひたすら南西に駆けた。 
 田圃の畦や緑が濃さを増し、野原の所々に、ひときわ目立つ藪甘草の橙色の花に、心を奪われそうにもなる。
 二里と少し、四半刻ほど駆けると、十一ヵ郷を抜けて、向日野から乙訓地域(現在の向日市や長岡京)に入った。この乙訓地域と、十一ヵ郷を合わせた地域が、西岡(にしのおか)と呼ばれている。
 松尾社、天竜寺、東寺、石清水八幡といった寺社、近衛、鷹司など摂関家などの所領が入り乱れる土地であったが、今井溝を始めとする農業用水や、交通・交易など広域に係わることを、合同で対処する中、独立した惣国として発展してきた。
 幕府の被官でもある国人衆が集まり合議がなされるのが、向日神社であった。地域の要所に城館を構える土豪たちである。
 新緑薫る向日山の麓、元稲荷山古墳を始めとする古墳群を見ながら、鬱蒼とした鎮守の森を登る。大きな常夜灯と朱色の鳥居の間をくぐって、流造桧皮葺様式の境内に入る。
 駆けつけた参集殿には、三つ巴の紋の描かれた向大明神の掛軸があり、大広間では、すでに三十人余の国衆たちが集まっていた。  
 男たちが喧々諤々迫力の論争を繰り広げている。
 九十九は「かつてない事態に、皆、真剣なんや」と、つくづく思う。「まあ、ほんまの熊みたいや」と思う男が、一番最初に目に付いた。
「おのれ、三好党のものども、増長するのもええ加減にしや。国主を殺害するなど、言語道断や。奴らのような雑兵にや、決して屈せぬは」
 小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼす神足村の国衆・神足掃部が、舶来品の白熊の腰蓑をつけ、それこそ、まるで大熊のような、大きな体を揺らし、息巻いていた。
「そうや、我が神聖なる領土とて、三好一派の軍勢など一歩も入れへんわ。西岡土豪衆の力見せなあかん」
 開田城主・中小路宗俊は、盤領の一つ身、白水干姿。元は菅原道真の一族という中小路家は、代々開田天満宮(現在の長岡天満宮)の神官でもあった。


かつての開田城

 秦氏の末裔と称する物集女城主・忠重が、小袴の上に羽織った生絹の狩衣を整えながら、冷静な口調でさらに続いた。
「かの応仁の大乱、また続く細川家の抗争で、一度は分裂した我ら被官衆であった。しかし、その後は、向大明神のご加護の下、衆議一決、この西岡の地を守り抜いてきたやないか。西岡一揆の再来や」 
 今里の能勢頼広は、すでに赤胴の甲冑を着込み、戦闘態勢だ。
「そうや、奴らは必ず、桂川からの取水による水利灌漑、川上の渡の特需を欲するやろ。我らの生命線、決して渡すんやない。一揆も辞さず」
 九十九は「みんな、それぞれ好き勝手な恰好してはるわ、あの熊の毛皮、もう暑うないんやろか」などと暢気に聞いていた。
 乙訓地域とは、かつて、たった十年の幻の都・長岡京が営まれた地域である。
 西岡の土豪たちは、幕府の御被官となっているものの、かつての山城の国一揆と並ぶ西岡一揆を起こし、百姓が国、惣国を創り上げてきた土地柄だ。それだけに独立心も強い。
 年老衆の意見に、他の国衆も一斉に叫んだ。
「一揆」「そうや、惣国一揆や」
 雰囲気に圧倒され、中々、口を挿めないでいた九十九だが、意を決して叫んだ。
「そうや、一揆や!」
 女特有の甲高い声に皆が驚いた。
 一瞬、場が静まり返り、一宣の傍らにいた秀存が、慌てて叱責した。
「九十九、そなた何故、ここにおるのや? 控えぬか」
「桂の里、伊波多の婆が名代にて、九十九でおます。皆の衆、以後お見知りおきを」
 九十九は、力強く挨拶した。
 秀存が「まさか」といった表情をしている。
「も、もしや、そなたは、婆の後継やったんか?」
「そうでおます、忍びの任ゆえ、隠しておりましたのや。かんにんや」
 藍染羽織の上から腕を組み、静かに聞いていた革嶋一宣が、口を挿んだ。
「して、九十九、いや、九十九殿」
 一宣らの礼を尽くす物言いに、九十九は「まあ、急に態度が変わったわあ」と、里の棟梁の威厳を垣間見たように思った。
「里の具申も、皆と同意と申されるのやな」
「へっ、うちら三好長慶殿に従うてきたは、公方様、ひいては禁裏様の意があってのもんや。長慶殿亡き後、国主を討った三好党や、まして松永弾正などに従う道理は、おまへん」
 この時、月行事を務める一宣が、衆議をまとめた。
「皆の具申は、よう分かったし、おのおの方は、三好党を敵として、共に立ち向かうということで、ええんやな。皆、郷で軍勢を整え、我が惣国の拠点、青龍寺城に結集や」
「よっしゃ」「お~」
 皆が異口同音に気勢を上げる。
 しかし、九十九だけは、この時、年老衆の一人、鶏冠井(かいで)村を領する鶏冠井城主の光則が、静かに腕を組み、おざなりの同意を示しているのが、少し気になった。
 鶏冠井村は、かつて長岡京の大内裏のあった地域(現在の西向日駅周辺)でもある。
 年老衆、国衆らが次々に退座し、秀存も、退座の構えをしながら、九十九に要請する。
「九十九殿、里のお力をお貸し願えるか?」
「もちろんでおます。これより立ち戻り、至急、革嶋城へ駆けつけますよって」
「うん、しかと頼んます」
 九十九は、無機質な口調は変わらぬものの、いつもとは違って、礼を尽くす秀存の言い様は、何となく心地よいものだと思った。
 しかし、一方で難しい局面に来ていることを、感じ取っていた。


向日神社
    六
 九十九は、大急ぎで桂の里に戻った。
 館の庭の竹灯篭に灯が燈され、広がる幽玄の世界。京唐紙の襖障子には、花鳥風月や跳ね馬が描かれ、灯籠の明かりに照らされた雲母が、炎の揺らめきとともに上品に光る。
 襖をすべて開け切り、涼をとりながら、婆は、やはり卜占に取り組んでいた。
「婆様」
 九十九は、逸る気持ちを抑えきれない。部屋に駆け込む九十九を、婆が左手で制する。
「待て、あっ!」
 囲炉裏の上で、焼かれた亀の甲が、パカ~ン、と真っ二つに割れ、周囲に飛び散った。
 九十九は「えっそんな! 最悪の占いが出た」と心中、穏やかでない。
「う~ん、大凶じゃな。九十九、この合戦、行くんやない」
「すでに知らせが入ってたんやな」
 婆が静かにうなずく。
「西岡は、必ずしも強固な一枚岩やない。それぞれの惣中の集まりや。三好党もまた、最も取水豊かなこの地を欲するに、あらゆる手立てを尽くすはずや。何倍もの軍勢に攻められては、土豪衆に勝ち目はない。里を動くでない」
「婆様」
 九十九は、今度ばかりは、占いに逆らう気になる。いかにも不服といった顔を造った。
 婆の目をじっと見つめる。ふうっ、と溜息をつきながら、婆が優しい表情になった。
「おまはん、若もの(秀存)に惚れてとうなあ」
「何もかもお見通しなんやな」
「ええか、九十九。我が里の女子は、他から夫を迎え、女系相続が習い。里の家を継げるものでなければならん。おまはんの婿も、いずれ神託が下るやろ。諦めるんや」
 九十九は、涙目になっていくのを感じた。
「うちかて分かってるし。そうやない。うちは、これまで受けた恩義を返さず、裏切って、ほんで、この桂の里が、幸せになれるとは思わへんのや。うちは一人になっても行くし」
「待ちや、九十九」
 部屋から飛び出そうとした九十九は、一瞬、足を止めた。
 後ろから、婆の声を聞く。
「市杵島姫神様のご加護のもと授かりし命、決して粗末にするんやない。肝に銘じるんや」
 九十九は「婆様、ごめん、うちは、この感情を抑えることができひん」と詫びていた。
     七
 外に出ると、月読神社の境内には、上弦、下弦、地蔵、千百を始とする、くノ一衆、小七郎、与一を始とする男の乱波衆が結集していた。
「九十九様」
 と総勢百人近くが一斉に合唱する。
「なんね、これは?」
 驚く九十九に、小七郎が、片手を地面につけて、礼をとった。
「若の救援、婆様より、ご下命が下った。今日より、乱波衆の指揮は、おまはんが執りや」
「うちが?」
「婆様は、おまはんが、止めても聞かんことなど、はなからお見通しや。すでに手筈を、指示なされておったわ」
 九十九は、「婆にやられたわ。何でもお見通しか」と思う。首を斜めに振り、上唇を舌で舐める。涙は止まらぬが、戻った笑みで、自分の顔が緩むのを感じた。
「九十九様、よろしゅうお願い申します」
 と下弦が、愛らしい笑窪を見せながら、いつものようにおっとりとした調子で、九十九に近づき、采配を手渡した。「可愛い奴やなあ」と思う。
 パン、パンパーン……。
 九十九は、采配を手に取ると、涙をさっと拭き取り、神殿に二礼二拍一礼をした。  
 それからおもむろに皆に向き直り、采配を大きく振りながら、命を下した。
「みんな、行くよ」
「やあ~、出会え、出会え、そや出会え」と松尾山麓に、皆の合唱が木霊する。
 九十九は、駆けた。日の本一と言われる、鬱蒼とした大竹林を抜け、今度は、九十九軍団となって、南へ一路、革嶋城へ駆け抜けた。  

Posted by 篠田ほつう at 19:30Comments(0)小説「桂女恋花」

2011年08月01日

小説「桂女恋花」巻の一 第一章

   桂女恋花     革嶋一族の攻防    
  巻の一 桂の里
  第一章 脱出、二条御所
     一
 永禄八年五月十九日(一五六五年六月二十七日)、京――。
 世は、戦国時代の真っ只中、度重なる政争で荒廃する京の町。たんびたんびに、町衆の意気込みで、何度も建て替えられた町家群。切妻屋根に、板や藁ぶきで、丸太石を載せた簡素な平屋が、ずらりと並ぶ。
 酒屋、干物屋、青物屋、烏帽子屋、扇屋、風呂屋といろいろあって、牛車も通る。室町の四条あたりは、人々が行き交い、賑わいを見せていた。
「やれ、おもしろや、えん、京には車、やれ、淀に舟。えん、桂の里の鵜飼舟よ。生き生きと飛び跳ねし姿の若鮎と、ほんに美味しい桂飴はどうどすか」
 と威勢のいい口上を述べながら、九十九(つくも)は竹の桶に入れた若鮎の酢(燻製)を、名物として名高い桂飴とともに売り歩く。
 五尺に足らない小柄だが、色白で細身のいい女。どちらかというと、狐顔、口を閉じると、ちょっぴり八重歯が覗いて愛らしい。 
 昨日まで降り続いた雨が、まるで嘘のよう。梅雨時の合間に見せたお天道様が、目もくらむほどに眩しかった。
「今日は、ええお天気さんやな」
 雨が降っては商いにならぬから、久しぶりの晴天は、まだ齢十八の乙女の心を浮き浮きさせた。若くても、しっかりものの商い上手と評判だ。濃紺地に楓葉を絞りぬき、胴あきの部分に浅葱水玉、肩と裾とに文様をあしらう、辻が花の小袖姿。
 頭には、桂包みといわれる白布が、巻貝のようにぐるぐる巻いて締めてある。ふっくらと少し余裕があって、裾回しも短めの桂女装束は、実に軽快で、動きやすかった。
 九十九の日常は、西岡・桂の里より出て、若鮎や桂飴を京の町で振売する桂女だ。今日も、賑わうこの下京の町で行商をしていた。その時、西洞院あたりの風呂屋の前で声が掛かる。
「姉さん、若鮎を一つ、おくれやす」
 この年、いつもより少し暑めの日が続く、晩春の日に焼けて、少し赤みを帯びた細長い手が、すばやく九十九の手を引いた。身の丈は当時の又四郎尺(三十・二五八センチ)で五尺二寸(一五七センチ)、当時の女としては、かなりの大柄だ。
 時の十三代将軍・足利義輝の御詰番衆・朽木成綱が配下の青葉は、九十九と同じ、齢十八になる乱波である。
 革嶋庄で、幕府御被官衆・革嶋一宣の配下にあたり、桂の里、大八木衆棟梁・伊波多の婆の孫娘でもある九十九とは、共同戦線の同志だ。とはいえ、この時代、いつ敵味方になるやも知れないが、気にせず、友としてつきあいをしていた。




 九十九と青葉は、周囲を気遣いながら、近くの草鞋屋のばったり床几に腰を下ろした。
 素朴に纏められた頭髪、白と薄緑の段替わり織物に身幅豊かな小袖を羽織り、少しぽっちゃりと鰓の張った浅黒の顔に苦痛の表情を浮かべながら、青葉は耳元で囁いた。
「御所様で異変や。三好三人衆と松永弾正らの一派が押し入ったし。町に散らばっている同志も、総結集や。急ぎや」
「何やて……、分かった」
 九十九は、驚いた。昨年、長慶が没し「ようやっと公方様の手で、幕府の権威が戻りつつあったはずやのに。何でや」と思いながら、
「仁右衛門はん。若鮎、ちょっと預かっててなあ」
 と、若鮎がまだ数匹入る小振りの桶を、草鞋屋の仁右衛門に手渡した。
 桂川の右岸、西ノ岡丘陵の大竹林で育つ竹は質が良い。この頃はまだ、矢柄に用いる箟竹(のだけ)であった。桶自体も売り物になる逸品だ。
 か細い手で桶を受け取る小男の仁右衛門は、目を見開き、どんぐり眼でこけそうになる。
「おっとっと。えっ、どうしたんえ。早よ取りに来な、食べてしまうよって」
 鮎はもったいないけど、それどころではない。
「それなら、それでええよ」
「ふん、そうか、けったいなやっちゃなあ」
 仁右衛門は首を少し斜めに傾げた。何とも不可思議そうな表情をしている。
「青葉、急ぐえ」
 言うが早いか、九十九は、桂女装束の小袖の裾まわしを少したくし上げた。妖艶な恰好で、青葉と一緒に人々の喧騒の中を駆け抜けていく。青葉が、慌てて続く。
「それはうちが言うたし、もう待ってえなあ」
 九十九は駆けた。京の上京と下京を繋ぐ室町小路を、力いっぱい駆けぬけた。公方様に変事が起きた……、それはまた「秀存様の身辺に異変が起きた」ということや。
 九十九にとっては、思いを寄せる秀存の方が気にかかる。
「そんなことって、あるん。和睦がなってから、久しいやないの」
「三好党は、清水さんのお参りや言うてたんや」
「そんなんって」
 義輝御詰番衆である革嶋秀存(一宣の嫡子)に仕える乱波として、主人への思慕は、いや、それ以前に、色恋そのものが厳禁であった。
 まだ月の物も出ぬほどの幼少よりの乱波修行。女になるのは、諜報の武器との教え。「そんなことはよう分かっとう」と何度も自問する。さりとて、まだ齢若い九十九は、熱く燃え滾る乙女の思いを抑えきれないでいた。

 北は近衛大路、南は椹木町通、東は烏丸通、西は室町通に広がる、義輝の二条御所。
 陣羽織に小紋股引、胴丸、この頃、流行の当世具足といった装束の指揮官、騎馬武者が数十騎と、それぞれの周りを家臣たちが固めている。
 更には、槍隊、弓矢隊、腹巻姿の雑兵を中心とした足軽・鉄砲隊が一面を、蟻ん子一匹さえも這出れぬほどに、埋め尽くしていた。
「こんなんでは、中に入れへんなあ」
 九十九は、桜の馬場から様子を窺いながら、さすがに、ふう、ふう――、と息を切らしていた。
「うん、どないしょう?」
 そこへ、大八木衆の一人、九十九の兄の小七郎が近寄ってきた。
 身の丈六尺はある色白の大男。渋染めの胴衣に裁着袴の乱波衣装、編み笠の奥から、すっきりとした細面が覗く。
「九十九、修行が足らん。息を切らしておるやないか。それに、汗の臭いがする」
 上から見下ろされ、九十九は、はっとなった。
 はみ出しそうな豊満な乳房を気にして、乱れた衣装を整えながら小七郎に噛みつく。
「兄上こそ、お近づきになる前に口から少し臭いがしましたよって、それでは敵に悟られます。臭い消しの秘伝、忘れてはあきまへん」
 小七郎が、少しむっとした表情をしている。九十九は「一本取ってやったわ」と得意になった。この日、朝から妙に気分の良かった九十九は、顔に、白粉を綺麗に塗って、上唇と下唇に、ちょんちょんと、少しの紅をつけていた。
「なんや、化粧など乱波には必要ないよってに。香の臭いも少し……」
「やり返されたし、町中にいましたよってや、おやかましさんや」
「やはり、女を捨てきれへんか……」
 九十九は「この齢まで、共に生きてきた兄のこと、見透かされとう」と思った。
「もう、兄妹喧嘩してる時やない。小七郎様、部隊の様子はいかがなん?」
 と尋ねる青葉の頬がぽっと赤くなる。九十九は「兄への思慕や」と感じる。
「優に一万は超えるかと。まだ取り囲んでおるだけで、動きはない。三好長逸は知恩寺、義継は革堂、松永久通は、相国寺常徳院に止宿してた。お公家さん方も、太刀や礼銭を持参して挨拶に行ってたくらいや。迂闊やったのよ」
「中に入る手立ては、あるん?」
 九十九の問い掛けを掻き消すように、どど~ん、と火縄銃の銃声が木霊した。
「あっ、あの音は、国友の新式や。公方様の鉄砲隊や」と青葉が嬉しげに叫ぶ。
 数百の義輝の鉄砲隊が、北門から一斉射撃を浴びせた。構えた撃ち手からは二十五間(四十五・五メートル)もの距離があったが、松永久通の軍勢の前方隊が、一斉に崩れる。当時の常識でいう十五間からしても、かなりの威力だ。
「下がれ、下がれ」と怯んだ久通隊が、一旦、馬場の後方まで退却をした。
「新式の威力恐るべき。国友物は、堺の物よりも、張り立てが丹念で、銃身が強固やからできるわざや。よし、今や。突入するよって」
 小七郎の絶叫とともに、桂包みの白布を数箇所の結び目にし、用水桶の水に濡らして、投げ掛ける。次いで、小七郎の肩に乗り、北塀を次々と乗り越えた。

 整然と整備された小松の庭園、小石を敷き詰めた州浜の池と、橙に柑子、朱に藍と色とりどりの紫陽花たちが咲き誇る。御殿には、主殿(常御所)、対面所、小座敷、御末さらに、茶湯所、風呂、蔵、雑舎と続く。
 御座所で義輝が、白衣の着流しのまま、奉行衆を前に、すでに末期の食を摂っていた。
 襖一枚奥の控えの間。九十九は、御詰番衆の朽木成綱と革嶋秀存に、繋ぎを取った。
 九十九は「秀存さま、ご無事でおましたのや」と心中でそっと安堵し、廊下の脇に、すっと控えた。
 うるうると目にいっぱいの涙の雫が、今にも零れそうになる感覚を感じながら、秀存を凝視したのだが、ぎょっ、とされ、視線を逸らされた。
「九十九か? 外の様子はどうや?」
 秀存は、すっきりとした顔立ちの美男子で、体は細く小柄。学に優れ、冷静かつ沈着、有職故実などにも通じる切れ者。口調は、いつも淡々と無機質な感じだ。
 九十九はいつも、この愛想のない男に、むっとさせられながらも嫌いになれない。
「はっ、義輝様の鉄砲隊の発砲にて、一旦、馬場後方まで退却しとります」
 傍らから、五十歳の成綱が、半分も白髪まじりの頭髪を少し傾け、隅立四つ目結の家紋の羽織の間から麻の手拭を取り出した。首筋の汗を拭い、九十九にゆっくりと問うてきた。
「兵力は量れようか?」
「優に一万は超えるか、と」
 秀存が、驚いた様子をしている。
 成綱が、口元に笑みを浮かべながら秀存に囁いた。
「神功皇后以来、供御人として朝廷に仕えし巫女たち、その上、美女ぞろいと聞く。配下にそのような一族をお持ちとは、革嶋殿がうらやましきことでござるよ」
「そうですかなあ。女いうんは、時に感情をあらわにします故、扱いにくうおます」
 淡々と返す秀存の肩筋には、悟りの窓とも称される壁の丸穴から西日が射していた。
 藍染め羽織の青にくっきりと、丸の内五本骨扇に月、革嶋家の家紋が映える。
 九十九は、少しむっとしたし「こんな時に、まったく、何を悠長なことを、確かにすぐに怒ったり、泣いたり大変やとはおもいますけど」と心中でそっとつぶやいていた。
 八半刻ほど後、控えの間にいる秀存らが呼ばれた。
「左兵衛、市介は控えておるか」
「はっ、こちらに」
 九十九は控えの間から、そっと様子を窺った。

 主殿の欄干下から、朱色、藍色、紫と色とりどりの紫陽花が迷路となった庭園を抜け、雑舎の一角に、乱波の者どもが、結集していた。打竹や袖火、石筆、忍薬といった、諜報の道具を点検する者。忍び刀を磨く者。控えるおおよそ男女半数の数十人の乱波たち。
「よかったな。革嶋の若様、ご無事なのやな」
 後列に鎮座した九十九の首筋に、青葉が手を廻し、頬を摺り寄せ、得意げに囁いた。
「何で分かるん?」
「嬉しいときに、上唇を舌で舐める癖。よう分かるし」
 九十九は「ふ~ん、うちにはそんな癖があったんや。青葉はうちのこと、よう見てくれとう」と心中で思いながら、そっと微笑を投げ返す。
 皆がざわつく中に、革嶋秀存が音も立てず、すっと現れた。にもかかわらず、朽木衆、大八木衆、一斉に静まり返り、鼓動さえも聞こえぬ静寂が訪れた。
 秀存が珍しく、強い口調で命を下す。
「総勢でもって、地下蔵より宝物を運び出せ。その後、政所代様と熊千代君、乙若丸様、兵部小輔様の御一行を、朽木衆、大八木衆与一組、小七郎組とそれぞれ、三手に分かれて護衛し、お逃がし申し上げる」
 九十九は「政所代様は、長宗我部と縁戚のはず。四国やな」と読む。
「朽木のものは、石谷兵部小輔様らと北へ、若狭方面へ。与一組は、乙若丸様と北川様をお守りし、南都へ、小七郎組は、政所代様と西国へ向かえ!」
 勘の鋭い九十九は「やはり、おうとった」と我ながら感心した。
 さっと波が引くごとく、乱波集団がその場を離れた。
「青葉は、北か、しばしの別れや」
 九十九は、青葉の手を力の限り握り締めた。いずれ訪れる別れと分かってはいたが、やはり辛い。部族は違う。でも、一生の友でいたい。そう思える女子であった。青葉と一緒に、京の町を駆け抜けた思い出の情景がよみがえる。
 青葉もまた少し涙交じりの表情だ。
「うん、きっと、また京で……。敵には成りとうないな」。
「うん……。小七郎兄さんも一緒にな」
 手を取り合っている九十九と青葉に、秀存がいらついて、叱責をした。
「何をしておる。急げ」
「はっ」
 九十九は「また叱責されたわ」と思いながらも、秀存の何とも言えない、どことなく無機質な言いようが、また、たまらなく好きであった。

 九十九らは、蜷川親長と熊千代とともに、渡り廊下から白書院へ入った。
 蜷川親長は、恰幅のいい、大きな福耳のふっくらとした顔立ちをしている。
 九十九は「まあ、大きな耳や。それに、よう肥えてはる。ええもん食べてはるんやろな」と思う。もちろん、そんな感想は口には出さない。
 押板、棚、付書院を設けて、唐物を飾る座敷飾り。身分の高い人の座るために設けられた、一段と高い床。秀存が、屏風の裏の仕掛けに触れると、壁裏に隠された地下蔵への入口が、ぽっかりと開いた。
 九十九は「えっ、こんな仕掛けがあったんや」と驚いた。
 秀存と小七郎が、先に入る。だが、親長が飾り棚の上の茶碗を見て、不意に立ち止まる。
「しばし……」
 九十九は、後ろから、続こうとして、思わずぶつかりそうになる。
「おっとっと。政所代様、いかがなされました? お急ぎなされませ」
「うむ、しばし待たれよ。この漢作の富士茄子は、公方様がこよなく愛したもの、いずれ価値あるものとなろう。持ってまいる」
 九十九は「只の薄黒い茶碗に、いったい何の値打ちがあるんやろ」とは思う。
「ささっ、早く中へ」
 細長い石段を螺旋状に降りると、大量の銀や火薬などがしまわれた長持が並んでいる。
 鳴り子を外し、朽木衆、大八木衆のものどもが、静かに、可能な限り運び出した。
 九十九らは、松明の明かりを頼りに、地下通路を急いでいた。その時。
「あっ、うわ~ん、え~ん」
 と熊千代が、湿った、つるつるの岩盤に足を取られて転がってしまい、泣き出した。
 まだ袴儀の儀式を終えたばかりの六歳の男の子だ。慣れぬ十文字結びの袴も初々しいが、足もおぼつかない。「おちびちゃんはこれやから、ほやけど、この齢で無理やわな」と思いつつ、励まさねばならない。
「しっかりおし。熊千代君は、おとこしさんやろ」
 熊千代を抱きかかえて起こし、背中に背負いながら、九十九が諭す。
「うん、ぐす」
「若君、おとこしさんはな、女子の前で、悲し涙は見せるんやおへん。見せてええのは、生まれた時の、おぎゃあ、の泣き声と、大願成就の嬉し涙だけや。よろしいな」
「うん……」
 小さな手で、必死になって、涙を拭う熊千代は、ほんに健気で、いとおしいほどだ。この若もまた、戦国の世に、振り回されねば、ならぬのや、と不憫にも思えてきた。
 かつての政所執事の遺児、のちの伊勢貞興が、明智光秀と命運を共にしようことなど、もちろんこの時の九十九は、知る由もない。


 足利義輝の二条御所跡は京都御所さわら木門にある。


 地下蔵横の通路は、将軍邸より少し北、林の中の地蔵堂に繋がっていた。そこより林を抜け、相国寺の南門より、本坊裏の土蔵に至る。運び出した物資のほとんどを、その土蔵に運び込む。
 土蔵横では、作務の便宜用に、軽く仕立てられ、絡子形式の五条袈裟に、すっぽり身を包んだ老僧が迎えてくれた。禅宗独特の姿で立っていたのは、第九十一世の相国寺住職・仁如集堯和尚であった。
 四尺五寸ほどであろうか? ずいぶんと小柄だが、和尚の凛とした、まるで後光が射しているかのような気品に、少し圧倒された。
 九十九は「まばゆいばかりや。悟りの境地を開いたお方とは、このような者なのやなあ」と感じ入る。
「法主殿、此度は少し長こうなるやも知れませぬのや。よろしゅうお願い申しまする」
 と傍らの親長が懇願すると、和尚は、親長の手をぎゅっと握り締め頷いた。
「しかとお預かりしました。ご心配は、要りまへん。室町幕府建武の折より、足利将軍家の財をお預かりしてまいりました五山の名に懸けて、守り通してみせますよって」
 九十九は「ほうか、足利家の財産は、こんな風にして隠してたんや」と感心した。「里も、せいぜいお寺と仲良うしとかなあかんなあ」とも思う。
「かたじけない。時に、鹿苑寺におわします公方様の御弟君(現在の俗称金閣寺・住職の周暠)は、ご無事でござろうか?」
 不安そうな表情の親長に、和尚は、合掌し、静かに首を横に振った。
「さきほどの急報にて」
「そうでありましたか……」
 政所代様は、相当に気落ちしておられる。九十九は「この方はいつも、ほんに幕府の行く末を考えておいでや、何としても、生きて逃げ延びてほしい」と思った。
 うなだれる親長に、茶水晶の京念珠を手渡しながら、和尚が続ける。
「お守り代わりでおます。政所代様、境内には松永久通殿の軍勢も止宿しとりまっさかい、見つからんうちに、ささっ、急ぎなはれ」
 一行は、寺の北門より、静かに抜け出した。よし、うまくいった。一仕事を終えた安堵感に浸る間もなく、秀存より、次の命が下った。
「九十九、細川殿が、洛西より、救援に向かわれておるはず。そなたが、繋ぎをとれ」
「はっ」
 九十九は「やれやれ、また、走らなあかん」と、うんざりした。
 されど同時に、和歌、連歌、有識故実に優れ、奉公衆の華と噂に聞く細川藤孝とは、いったいどんな人や、と期待に胸を膨らませてもいた。

 またも九十九は駆けた。
 秀存より預かりし駿馬の月影。栗毛に所々が鮮やかな朱の毛並みの名馬は、日に百里も駆けると噂される。京の街から、ひたすら南へ駆けた。
 上京から二里と五町を、四半刻で駆け抜ける猛進ぶり。
 焼失後、再建されたばかりの東寺の五重塔を横目に、かつての平安京の羅城門の跡地付近に至る。当時、すでに原っぱとなっていて、何もない。
 洛中と青龍寺のある山崎あたりを繋ぐ道は二つ。真直ぐ鳥羽作り道を下がり、桂川を越え、久我畷を通り、山崎に抜けるか、あるいは西国街道を一路、西へ進むかだ。
 どっちから来るのや? 九十九は、はたと迷った。西国街道と作り道の交差で、馬を止めた。
 ひひ~ん、きゅう~ん――。
 急に制止させられた月影は、前足を蹴り上げ、慌てた素振りで首を、ぶるるっ、と振っている。
「どうどうどうどう、ごめんやで、ちょっと待ってなあ」
 九十九は「『困った時は、神々のお告げに、身を委ねよ』やったなあ」と伊波多の婆の教えを思い出し「やはり占いしかない」と判断した。
 桂女は、代々続く、巫女の一族でもある。九十九は、幼少より、感が異常にするどく、占いや籤を外したことがない
「石清水におわします南無八幡大菩薩、市杵島姫神様のご加護あらん……、天、地、玄、妙、行、神、変、通、力、勝」
 呪文を唱え、小枝を地面に突き刺し、卍に空を切り、「エイ、ヤア」と刀印を打ち下ろし、風を送った。「倒れたほうや」と一心に念じる。
 九十九は、低湿地に、人の手で土盛された、最古の人工道である鳥羽作り道を選んだ。
 かつての平安京の羅城門から、真っ直ぐ南に通じ、桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所へと繋がる。久我森ノ宮から南西方向に、久我畷が延び、山崎へ至る。
「行くよ、月影」
 馬の手綱を絞り、急いだ。
 五町ほど進むと、鴨川に架かる木杭の小枝橋。橋の向こうに広がる街道の前方から、連銭白栗毛の珍らしい毛並の白馬に跨った武者が来る。
 小袴、白小袖、竹の葉模様の麻の狩衣を羽織り、立烏帽子を被り、肩から胸当てを流す公家風の戦闘服という姿が、九十九の眼前に、悠然と飛び込んできた。
 続く騎馬武者が数十騎。ずんずんずんと、足音を立てて、進んでくる。
 「あっ、あの旗指物は、何と煌びやかな金の六本撓(しない)、細川様の馬印や」
 その頃、用務のために訪れていた青龍寺城(現在の長岡京市勝龍寺)から急ぎ帰還して来た細川藤孝の一行に間違いない。
 九十九は「よし、おうとった! うちは、負け知らずや!」と心の中で歓喜した。
 藤孝に近づくと、九十九は馬から飛び降り、手綱を持ったまま、礼を取り、声を掛ける。
「しばし、しばし、お待ちくださいませ」
「そちは、何者であるか?」
 九十九は、白馬に跨った背の高い藤孝から、見下ろされる。胸には鮮やかな桜崩しの家紋が浮かぶ。ゆっくりと優しい口調、澄んだ瞳で見つめられ、一瞬「ドキっ」としてしまった。
 はっきりと浮かび上がる太い眉、大きな瞳に、高い鼻、鍛え抜かれた体がしなやかに反り返り、姿勢を正すと、公家風の衣装を一層惹きたてる。
 九十九は「うわっ、ほんに凛々しいお姿、噂どおりや。たまらんわ」と、つい、うっとりとして藤孝を注視していた。
「そちは、何者であるか、と聞きやるに」
 ぼっとしている九十九に、それでも尚、静かにゆっくりと、藤孝が問うた。
 九十九は「しまった」と気を取り直す。
「あっ、はっ、申し訳ありませぬ。ご無礼の段、ご容赦。詰番・革嶋の配下の者にございまする。亡き公方様より御内書これあり、しばしお待ちくださいませえ」
 藤孝の顔から血の気がさっと引き、まさか、信じられないといった様子が露になっっていく。
「何! 亡き公方様と言いやるか?」
「はっ、公方様におかれましては、さきほど辰の下刻、三好党の手の者らによって討ち取られ、御逝去なされましてございます」
「何と……」
 藤孝は動揺を隠せず、馬に跨ったまま、呆然と、翳り始めた曇天の空を眺めていた。
 九十九は「この人もまた、公方様を、ほんに大切に思うておられたのやな」と感じいった。

 藤孝は、気を取り直した様子で、従者に問うた。
「近くに休息の場は、あるか?」
 従者が、懐から、この頃まだ貴重な、木綿の手拭を取り出し、藤孝の汗を拭う。
「はっ、ほん一町余に、袈裟御前の恋塚で名高い、浄禅寺がありまする」
「うむ、良し、皆のもの、寺に移動し、馬を休めよ」
 一行に浄禅寺での休息を指示し、地蔵堂の前で、藤孝が九十九に問うた。
「公方様、此度は何故、脱出されなんだのや……。して、ご最期は、いかな様子であったか?」
「はっ、御みずから敵勢十数人を討ち果たし、奉公衆とともに数刻に渡り奮戦されましたれど、多勢に無勢、槍、弓矢、刀にて、ついに力つきたと伺っておりまする」
「そうであったか。公方様、さぞやさぞや無念で」
 藤孝は、悔しくてたまらないのか、握り締めた手を何度も、何度も、地蔵堂の濡縁に叩きつけている。
 九十九は、あまりにも激しい、藤孝の様子に、一瞬、躊躇してしまった。楮を素にする純白の奉書紙を手渡しながら、報告を続けた。
「その先刻、一同ともに末期の食を摂られましたが、その折、兵部大輔様に、特に急ぎ、御内書を認められてございます。これにて」
 藤孝は、墨書きの御内書を、震えた手で受け取ると、順に開きながら読み進める。
 書を開くごとに、藤孝の瞳から、涙が滴り落ちる。最後まで読んだときには、御内書の文字が、水滴で滲むほどであった。
「これは、まさしく公方様の花押でありまする」
 力を失った藤孝の手から、書がこぼれ落ち、段々に開く。最後のほうに、覚慶のこと兵部にしかと託せし候……、と読み取れた。
 書を読み終えた藤孝は「源平盛衰記」の恋塚と伝わる、五輪の石塔の前で、何も言わず、佇んでいた。
 八半刻ほどだろうか、九十九には、異様に長く感じた。
 突然、藤孝がさっと、九十九の方に向き直り、するどい眼光をぎょろっと向けた。
「桂の女、大儀。革嶋殿に伝えや。兵部、即座に南都に向かったとな」
「はっ」
 すでに藤孝は、すばやく傍らの白馬の鞍に飛び乗り、馬首を南方に向けていた。
 「早い」九十九は、唖然とした。
 梅雨時の小雨を背景に、金雲を模り、美しい唐三彩の釉が掛けられし、鞍覆に跨る姿。背筋を伸ばし、きりりとした姿勢から、文武に秀でたもの独特の雅が伝わってきた。
「何と、うつやかなお方や」と見とれながら、思わず深々と頭を下げ、九十九は、藤孝が遠のいていくその姿が見えなくなるまで見送った。

  

Posted by 篠田ほつう at 08:28Comments(0)小説「桂女恋花」