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2012年07月26日

松尾大社

松尾大社

  松尾大社御由緒 (松尾大社公式ホームページより)
磐座祭祀
当社の御祭神「大山咋神」(おおやまぐいのかみ)は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。 近江国の比叡山を支配する神(現日吉大社)と、ここ松尾山一帯を支配する神(現松尾大社)がいたと伝承されます。一方、中津島姫命は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の別名で、福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。外来民族である秦氏が朝鮮半島との交易する関係から、航海の安全を祈って古くから当社に勧請されたと伝承されています。
秦氏が奉祭してきた海の神と、日本古来の松尾山の神が出会った神域が「松の尾」であったのです。
秦氏来住
五・六世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられています。
文武天皇の大宝元年(西暦701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させました。この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)です。
奈良から長岡京へ、平安京への遷都には秦氏の財力が大きく、平安時代には正一位の神職を受け、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、皇城鎮護の社とされ、室町時代には、全国十数か所の荘園、江戸時代にも朱印地1200石、嵐山一帯の山林を有していたと言われます。
武門の崇敬
鎌倉時代に入ると、源 頼朝は社参して願文を奉納し、黄金百両、神馬十頭を献じましたが、以後も武門の崇敬は続き、将軍足利義政、豊臣秀吉も神馬を献じました。
明治時代以降
明治になると、全国神社中第四位の序列をもって官幣大社に列せられ、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄となり、終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年に松尾大社と改称し現在に至っております。

松尾大社

大堰と用水路
また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。 その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地を通っております。
酒造神
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。 酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。室町時代末期以降、松尾社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。

松尾大社

脇勧請
赤鳥居の上部に柱と柱を結ぶ注連縄(しめなわ)があり、榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下っています。これは「脇勧請」と称されるもので、榊の束数は平年は12本、閏年は13本吊り下げる慣わしとなっています。
この形は『鳥居』の原始形式を示すもので、太古の昔、参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、柱と柱の間に縄を張り、その年の月数だけの細縄を垂れて、月々の農作物の出来具合を占ったとされています。現在では、詳しい資料なども現存せずその占いの方法や仕方などはほとんどわかりませんが、占いによって月々の農作物などの吉凶を判断していた太古の風俗をそのまま伝えているので、民俗史学上も貴重な資料とされています。
尚、扁額は明治以後の官幣社として松尾大社になる以前の額で
「松尾大神」 となっています。

楼門
左右に随神を配置したこの楼門は江戸時代初期の作と言われております。この楼門の随神の周囲に張り巡らせた金網には、たくさんの杓子がさしてあります。よろずの願い事を記して掲げておけば救われると言う信仰に依るもので、祈願杓子とも言われます。

松尾大社

  本殿は、大宝元年に、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築されてきました。
現在のものは室町初期(応永4年・1397)の再建ですが、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで、松尾造りと称され、重要文化財に指定されています。向拝(ごはい)の斗組(ますぐみ)・蟇股(かえるまた)・手挟(たばさみ)などの優れた彫刻意匠は、中世の特色を遺憾なく発揮して います。

松尾大社

  松尾山は、別雷山とも称し、松尾社は、この松尾山の遥拝場であったと伝わります。現在、社務所の裏の渓流を御手洗川と称し、涸れることのない霊亀の滝がかかり、傍には延命長寿、よみがえりの水として知られる「亀の井」と呼ばれる霊泉があります。酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和するのだとか。
 この渓谷の北に続く大杉谷の頂上には、巨岩の露頭する「磐座」と呼ばれる屏風状の自然岩盤があり、社殿祭祀以前に古代神の祀られていた処です。この谷には霊亀の伝説があります。 奈良の平城京に都が遷されて数年、元正天皇の頃(西暦七一四年=和銅七年八月)、この谷から八寸ほどの白い亀が現れました。「首に三台(三つの星)を戴き、背には七星、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、尾に緑毛・金色毛が混ざる」(続日本紀)といったもの。 この当時の人々は、珍しい白色の動物たちを尊んだようです。この亀を朝廷に奉納した所、元正帝は「嘉瑞なり」と、ことのほか喜悦に及び、『和銅』から『霊亀』へと元号を改めた(翌七一五年)ほどです。後に亀は再び、降臨の地とされる、この大杉谷に放たれたました。
称徳天皇が道鏡禅師や吉備真備らと政界に君臨した時代にも、武蔵国久良郡から白い雉、参河国から白い烏、日向国から鬣と尾の白い青馬、美作国から白い鼠、伊勢国からは白い鳩と献上があいつぎました。大瑞、祥瑞などと言われ、その見返りとして、破格の官位や姓、賜物が与えられたり、租税の免除などもなされていたようです。
松尾山は、別雷山とも称し、松尾社は、この松尾山の遥拝場であったと伝わります。現在、社務所の裏の渓流を御手洗川と称し、涸れることのない霊亀の滝がかかり、傍には延命長寿、よみがえりの水として知られる「亀の井」と呼ばれる霊泉があります。酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和するのだとか。

松尾大社

 松風苑の三庭
神社後方の松尾山々中頂上近くにある磐座で祭祀が営まれており、この古代祭祀の場である磐座を模して造られた「上古の庭」、四方どちらからみても八方美の姿「曲水の庭」、全体が羽を広げた鶴を形どっており、池泉の周囲を巡り池に浮かぶ島々を 表現した「蓬莱の庭」の三つの庭があります。いずれも昭和の造園家・重森三玲の力作です。
上古の庭の奥には、山の斜面に「紫陽花苑」が広がっています。

松尾大社

 境外摂社・月読神社
 かつては、例祭が勅祭と定められ(『続日本紀』)、延喜6年には最高位となる正一位の神階を受けている(『扶桑略記』)。延喜式神名帳では「葛野坐月読神社」と記載され、名神大社に列している。天慶4年(942年)には神宮号の宣下を受けた。歴史も古く、高い格式を持つ独立の神社であった。
御祭神は月読尊。 境内には聖徳太子社・御船社・月延石があります。 月延石は安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が使いを筑紫に遣わして求め、この社に奉納したという伝説(雍州府志)があり、「妊婦がこの石をまたぐと安産になる」との言い伝えから、古来安産の霊験を慕ってお参りされる人が多い神社です。

 


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