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2010年02月28日

興福寺、元興寺、新薬師寺

 史跡勉強会の奈良ツアー第二段は、引き続き奈良の古刹をめぐりました。
興福寺、元興寺、新薬師寺

 法相宗の大本山として知られる興福寺。前身は飛鳥の「厩坂寺」、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。
 藤原氏、特に摂関家藤原北家(後の五摂家・近衛、一条、二条、九条、鷹司家)の人々によって、次々に堂塔が建てられ手厚く保護され、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられるようになります。 
 平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においても面目を保持していくこととなります。

興福寺、元興寺、新薬師寺

 五重塔は古都奈良を象徴する塔といえます。塔はお釈迦さまの舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標です。
 天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立しました。初層の東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられています。
 現在の塔は、応永33年(1426)頃に再建されたもの。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も取り入れた建造物といわれます。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置してあります。

興福寺、元興寺、新薬師寺

 三重塔は康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮による創建。治承4年(1180)に被災し、鎌倉時代に再建されました。北円堂とともに興福寺最古の建物で、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えます。

 東金堂、興福寺には三つの金堂がありましたが、中金堂の東にある金堂で、西向きの建物です。神亀3年(726)に聖武天皇が叔母元正太上天皇の病気全快を願って建立したといいます。創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界がこの世にあらわされていたのだとか。以来6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永22年(1415)に再建されました。
 堂内には本尊薬師如来像、日光・月光菩薩像(いずれも重要文化財)、文殊菩薩像と維摩居士(ゆいまこじ)像、四天王像、十二神将像(以上いずれも国宝)が安置されています。中に入るとその荘厳な雰囲気に圧倒されます。

興福寺、元興寺、新薬師寺

 八角円堂は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されています。興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明天皇と元正太上天皇が建立しました。鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残しています。内陣は天蓋が輝き、組物間の小壁には笈形(おいがた)が彩色されています。
 堂内には本尊弥勒如来像(国宝)、法苑林・大妙相菩薩像、無著・世親菩薩像(国宝)、四天王像(国宝)が安置されています。

 平城遷都と同じ和銅3年(710)に、平城京三条七坊のこの地に創建されたと伝わり、金堂の中心ともいうべき中金堂の復元が進められていました。平城遷都1300年記念の平成22年(2010)は、興福寺の創建の年でもあります。今奈良では、興福寺だけではなく、春日大社、東大寺、薬師寺、唐招提寺、さらに平城宮朱雀門、大極殿などでも復元整備がさかんにおこなわれ、新たな万葉の魅力が生まれつつあります。

興福寺、元興寺、新薬師寺
 
 日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)です。
 かつては、猿沢池をはさんで北の興福寺、南の元興寺と平城京左京(外京)の台地に広大な寺地と伽藍を有していました。平安遷都後も、この外京と東大寺、春日社一帯は南都の中心地であったのです。

 五重塔小塔は、光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔堂に安置されていたといわれるもので、現存する奈良時代盛期の五重塔としては唯一のものとして著名です。軸部は等間隔三間で、初層から上に従って三寸ずつ低減している。細部まで本格的な建築物であり、国分寺の塔の十分の一の本様(雛形)ではないかともいわれています。

興福寺、元興寺、新薬師寺

 新薬師寺、 「新薬師寺」の「新」とは、「薬師寺」に対するものではありません。「新薬師寺」は華厳宗、「薬師寺」は法相宗で宗派も違います。ここでの「新」とは新しいという意味ではなく、霊験「あらたかな」という意味で、あらたかな薬師寺ということです。
 天平十九年(747)に、聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が造営したと伝わります。かつては、正面九間の金堂、東塔・西塔などの七堂伽藍を備え、境内の敷地は四町四方(約20万平方メートル)、天平時代には「十大寺」の一つに数えられた大寺でした。落雷や台風の被害で衰微し、現在は、こじんまりと佇み静寂さ漂う寺院となっています。  
 平安作の薬師如来像と天平作の十二神将像が共に国宝指定されています。いくら見ていてもあきません、これは必見です。萩の寺としても有名で、その時期には、静寂な伽藍も多くの人で賑わいをみせるようになります。



Posted by 篠田ほつう at 20:27│Comments(1)
この記事へのコメント
京都興福寺の住所を教えてください
お願いします
Posted by 九嶋 at 2016年05月11日 09:10
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