冬の祗園祭

篠田ほつう

2008年07月06日 18:09

 こんこんちきちん、こんちきちん、私にはどうしてもキントンシャン、テットンシャンとしか聞こえないのですが……、京では祗園祭が幕を開け、新町、室町、烏丸あたりでは、二階囃子が聞かれる様になってきましたね。
 


 これから七月の終わりまで、様々な行事が繰り広げられます。さてこの祗園祭、元来は祗園御霊会と呼ばれていました。平安初期の貞観十一(869)年に疫病が流行した時、疫神(御霊)の退散を祈願して、当時の国の数にちなんだ66本の矛を立て、神輿を神泉苑に届け、御霊会という疫病退散の祈願を行ったことが始まりとされています。
 旧暦の六月、現在のこの時期に行われるようになったのですが、戦国時代には、式日が安定せず、旧暦の十一月や十二月といった冬に行われることもしばしばあったとか。
 大永三年(1523)、五年、天文元年(1532)、四年、七年、十八年、弘治三年(1557)、永禄元年(1558)、三年、十年、元亀二年(1571)と、記録にあるだけでも、これだけの年が、冬の祇園祭でした。
 理由はといえば、祗園社(現在の八坂神社)は、実は当時、山門と呼ばれて権威を振るっていた比叡山延暦寺、当時は神仏習合でしたから、山内に日吉大社があり、その末社でした。戦国の状況でさまざまな事由の中、本社の祭が延期されているのに、祗園社の祭が、行われるなどけしからん(山門として申し入る)という、延暦寺からの圧力でした。



 当時、延暦寺の三塔(東塔、西塔、横川)による大衆(僧兵)は、時の大名をも凌ぐ軍事力を有しており、武力を背景に、室町幕府に強訴したり、祗園社や京の町衆に圧力をかけることもしばしばでした。元亀二年の秋に、織田信長によって、延暦寺と日吉大社が焼討ちされたことにより、山門の武装も解かれ、冬の祗園祭も、この年で最後となります。以後、今日のように式日が安定していくのです。(河内将芳著・祇園祭と戦国京都)
 天文元年の時には、雪の舞う中を、神輿が祗園社から御旅所へ渡ったといいます。それも見てみたかったなあ。

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