祗園の御祭神

篠田ほつう

2008年07月15日 11:43

 祇園祭は、八坂神社をはじめ氏子区域一帯で、7月1日の「吉符入」から31日の「疫神社夏越祭」までの1カ月間、様々な神事や行事が執り行われます。
 さてこの祇園祭で行われる神輿渡御、神輿洗式、宵宮祭で 御神霊をうつした神輿が、山鉾巡行のある17日夕刻八坂神社を出発し、鴨川以東や河原町などを巡り、四条寺町の御旅所に入ります。花傘巡行の行われる24日まで鎮座され、今度は寺町通以西の区域をまわり、夜半に八坂神社に戻るのでございます。



 ところで、この御祭神、現在は、中御座・素戔嗚尊(スサノヲノミコト) 、東御座 ・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト) 、西御座・八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) となっております。
 明治以前の御祭神はというと、中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ) 、東の座 -- 沙竭羅竜王(サガラリュウオウ) 、西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ)でございました。 牛頭天王は仏教の守護神で、日本では素戔嗚尊と同神とされており、頗梨采女はその妻で、沙竭羅竜王は頗梨采女の父。牛頭天王は祇園精舎を守護するとされていたと申します。



 何で変わっちゃったの……?

 医療技術が極めて乏しかった昔、疫病などは、政争で追われた人などの怨霊の仕業と考えられておりました。それに打ち勝つ強い霊力を持つとされた牛頭天王に対する信仰が、平安時代末期から中世にかけて、爆発的に広まったのでございます。そして、当時の人々にとって、牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれ、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことでした。
 京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如と云う僧が、播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政・藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て、祇園社と呼んだのに始まると申します。天禄元年、悪疫を鎮めるために祇園御霊会が始まったのでございます。


 京都アスニー陶板より

 ところが、近世に入ると、国学者や神道家が現れます。神道こそ絶対で、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、スサノオ神と習合している牛頭天王は困った存在でした。しかも当時は、延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていたのでございます。さらに「てんのう」と称することは「天皇」に対する不敬とされました。

 やがて明治になると、明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対し、祭神をスサノオ神に変えるか、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めます。京都の祇園社も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更したのでございます。
 これらの変更の際の大儀名分として、当時の国学者たちは「これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、信長が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称したのだ。元から牛頭天王を祀っていたのではない」と「牛頭天王信長対策説」を唱えたのでございます。しかし、明治以前の人々にとって、牛頭天王は最も信仰厚き御祭神だったと申します。

 ちなみに、牛頭天王は、七尺五寸(約2m25cm)「頂きに三尺の牛頭があり、三尺の赤角があった」と、祇園牛頭天王縁起は説明しています。







関連記事