京つう

旅行・観光  |京都府北部

新規登録ログインヘルプ


2011年01月22日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 左大文字
 西大路通りを南から上がってくると、左前方に左大文字が見える。金閣寺には左大文字、銀閣寺には大文字がある。五山の送り火の話なども話題のひとつ。
 西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらかな山なみは、北山(ほくざん)の名で一般に親しまれている。衣笠山はかつて「宇多天皇が真夏に雪が見たいといいだして、山に大きな白絹をかぶせた」との伝承が残り、きぬかけ山とも呼ばれる。これも話題のひとつ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 黒門では北山(ほくざん)殿 鹿苑寺の説明をしよう。「これはなんと読みますか?」
金閣寺の正式名称は、鹿苑寺「ろくおんじ」という。金閣寺は室町幕府三代将軍・足利義満の北山殿という別荘(北山文化の中心となった)を後に寺院としたもの。義満の諡号(しごう・死後に贈られた名前、戒名)が鹿苑院といったことに由来する。
 また、金閣寺は銀閣寺とともに京都五山の一、臨済宗の禅寺・相国寺の塔頭(たっちゅう)である。塔頭とは会社でいえば本社にあたる本山に属する支店みたいなもの。通常は院、庵、軒などで呼ばれることが多い。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 もみじのトンネルを通り参道を進む。西園寺家に由来し、鎌倉期に作られたと伝えられる鐘楼を左に眺め、世界文化遺産の記念碑と金色の案内板を横目に拝観券売り場へ。すでに右上方に金閣寺の天辺、鳳凰が垣間見える。 右手には唐門と方丈がある。時々特別公開している。
 左手の巨木は樹齢700年と言われる櫟樫(イチイガシ)だ。京都府指定の天然記念物に指定されている。櫟(いちい)は一位に通じて、立身出世を願い、公卿たちはこの木で笏(しゃく)を造って常に携えていたという縁起のよい木である

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

  金閣寺の拝観券は金閣舎利殿と書かれたお札になっている。「ご飯粒のことを銀シャリといったりしますね。これは舎利に似ているところからきています」
 舎利とは釈迦の遺骨のこと。仏舎利とも言い、釈迦(ゴータマシダルダ)入滅の折に何千にも砕かれ、弟子たちによって世界中にもたらされた。金閣寺はその仏舎利を供養する舎利殿である。
 お札は旧家の木造建築では、魔よけに柱などに貼っているのを見かけるが、近代住宅では見かけなくなりましたね。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 いよいよ、衣笠山を借景にした金箔の三層楼閣の舎利殿である金閣とその庭園が眼前に広がってくる。入ってすぐは通路で込み合うので、すぐにも西に移動しよう。
 金閣の建築様式が、伝統的な貴族の寝殿造風と武家が帰依した禅宗寺院の禅宗様を折衷したもので、室町時代における貴族と武士の折衷文化が北山文化だといわれる。
 晴天であれば、鏡湖池(きょうこち)に金閣がきれいに投影される。鏡湖池はその名の通り、金閣を映すためにつくられている。金閣内にいながらにして、楼閣から金閣を眺めることができるように造られた。
 本物と池面に映った二つの金閣を背景に記念撮影をしよう。「二十四割る十二は?」「にっ」といった具合にね。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 この池には、蓬莱山をイメージして、葦原島(あしわらじま)といわれる中島や鶴島、亀島が造られ、幾つもの岩島があり,これらの岩には畠山石、細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられている。 中国・明から運ばせた庭湖石で名石中の名石のため、豊臣秀吉の聚楽第建設の時の名石狩りからも逃れたといわれる九山八海石の名石が配される。
 この配置は西方極楽浄土の様子を表わした「浄土曼荼羅」に描かれた七宝池を模している。義満は蓬莱神仙思想に基づき、自らが船出する西方浄土を築いたのだ。
 ちなみに、浄土(清らかな国土)とは、それぞれの仏が住している聖域、理想的な国土のことである。蓬莱山とはその極楽浄土にある不老不死の仙人たちが住む処であり、理想郷なのだ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

金閣の天辺に据えられた鳳凰(ほうおう)は、西方浄土に住むとされる中国の伝説上の霊鳥で、羽ある生物の王であり、不老不死、再生の象徴とされている。 陰陽道では朱雀(すざく)と同一とされる。 手塚治虫さんの漫画「火の鳥」そのものだ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

順路に沿って、陸舟(おかぶね)の松へ……。
 方丈庭園には、義満が盆栽にしていたという松がある。船の帆と先端を表している。極楽浄土の金閣と鏡湖池に向くこの船は、まさに義満が西方浄土へ旅立つ船であったのだ。
 天竜船の交易で明文化に造詣の深かった義満が、船尾を反らせている中国のジャンクを模倣したといわれる。船尾には舵を模った枝を垂らし、深く沈ませ入船(目的を達した)を現している。
 ちなみに、鹿苑寺の陸舟の松は、善峰寺の游竜の松・大原宝泉院の五葉の松(近江富士)とともに、京都三松と呼ばれている。若い世代には「アニメのワンピースに出てくる海賊船みたいでしょ」と話してあげてもいいかも。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

金閣寺に参詣するには、明治初期までは、金一両を払って講の一員になる必要があった。その頃までは、渡り廊下があり、金閣(舎利殿)に渡り廊下より登る事ができた。
 金閣の側面に回りこむと、よりまじかに建築様式がうかがえる。
 鹿苑寺は、応仁の乱の西軍の陣所となったため諸堂を焼失。唯一「金閣」だけが北山文化の遺構であったが、惜しくも昭和25年の夏、学僧の放火によって炎上した。
 この有様は、三島由紀夫の小説「金閣寺」・水上勉の「金閣炎上」によって描かれている。
 昭和30年復元・再建したが、金箔が剥離したため、昭和62年、5倍箔の金箔で漆箔修理完了。10.8㎝四方の金箔が20万枚使われたという。
「だからこんなに金ぴかなんだ」「当時の建築でないのは残念だが、再建されたことによって美しい姿を見れるというメリットもありますよ」
 ちなみに、箔合金1グラムで約3300平方センチの金箔になる。仮に1ミリの幅で延ばし続けたとすると、330メートル、0.1ミリの糸状に延ばしたとするとなんと3.3キロメートルにも延びるのです!
 ちなみに京都五閣とは、金閣、銀閣、西本願寺の飛雲閣、大徳寺塔頭芳春院の呑湖(どんこ)閣、東福寺の伝衣(でんね)閣である。

 現在、殿内に入れないので、内部の写真が掲示されている。

初層 法水院といい藤原時代の寝殿造風 、阿弥陀仏堂として造られた。(法水→仏法が衆生の煩悩を洗い浄(きよ)めることを水に擬して云う)
二層 潮音洞といい鎌倉時代の武家造り仏間風。観音堂(岩屋観音を四天王が護持・天井には飛天が描かれています)。
三層 究竟頂(くっきょうちょう)と呼び禅宗様仏殿風 。唐様の仏間(桟唐戸・花頭窓)。ここに仏舎利(釈尊の遺骨)が安置されている。
 初層の寝殿造の上に二層 の武家造がきている。貴族より武家が上ということだろうか、当時の力関係を表していておもしろい。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 さて、順路に沿って散策しながら金閣をぐるりとまわっていく。こういった庭園を池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)という。江戸時代から流行した。金閣寺の現在の景観は江戸時代における住職・鳳林章承の修復、復興整備によるものである。
 西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい・釣殿)が伺える。貴族や武家の統領たちは舟を浮かべて、四季折々の風景を楽しむ。曲水の宴などの雅を楽しんだ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

ぐるりとまわるとお守りの販売所がある。但し、出口付近の朱印所でも買えるので、混雑しているときは後にまわそう。

 左手に、義満がお茶に使った銀河水、手洗いの厳下水、金閣寺垣を見ながら、鯉魚石、龍門の滝に至る。金閣寺垣は垣根の上部に半割りの竹(玉縁)を掛けているのが特徴で、造形的に格調が高いとされている。
 鯉魚石(りぎょうせき)は、鯉が滝を登ると龍になるといわれる中国黄河の故事「登竜門」にちなんだもの。
 若い世代であれば「ポケットモンスターのコイキングは進化すると何になる?」と聞いてやれば良い。ほとんどが「ギャラドス(龍の化身)」と合唱するはずだ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 さらに丘を登ると衣笠山を背景にした「安眠沢(あんみんたく)」と呼ばれる池となる。奥に白蛇塚と呼ばれる五輪の石塔がある。実は、鏡湖池や北の一段高い山腹に静かに水を湛える池の安民澤、そこから落ちる滝「龍門瀑」などは、発掘調査から、鎌倉時代の北山第の遺構とみられている。
 元来このあたりは、藤原北家一門で、摂関家に次ぐ精華家の西園寺家の別荘・北山第だった。かつては歴代の上皇・天皇が何度も行幸し盛大な宴遊が催されたという。
 動乱の南北朝時代、西園寺家が衰退し荒廃の一途を辿っていた北山第を河内国の領地と交換する形で譲り受けたのが室町幕府だった。時の権力者、足利義満が譲渡させたものと言っていいだろう。このあたりも当時の公家と武家の力関係を表していておもしろい。
 また、鏡湖池の貯水池となっているが、安民沢の周りは樹林に囲まれ、旱(ひでり)が続いても涸れないため、雨乞いの場となっていたと言われる。
 弁財天(印度の女神)と・白蛇(宇賀神・うがしん・日本の衣食の神)が合体した。白蛇は弁財天をも現している。
 西園寺時代には妙音弁財天(空海直筆画像・現在出町柳にあり)と木像(御苑にあり)を金閣辺に在った妙音堂に安置していた。
 西園寺 家は琵琶(楽器)の総家でもあって、天皇から公家衆に妙音弁財天の前で秘曲を伝授していた。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 安眠沢を少し登ると開けたところから、方丈の大きな屋根越しに金閣が見下ろせる高台に出る。このあたりが金閣の見納めだ。「見返り金閣」とも呼ばれている人気のビュースポットでもある。 
 金閣と対角線上に見上げると茶室・夕佳亭(せっかてい)がある。今は木々が生長してしまって、間を妨げてしまっているのだが、この夕佳亭から、夕日に映える金閣が見下ろせるように造られていたのだ。紅葉や雪のときなどは特にすばらしい光景となる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 夕佳亭の前に貴人橸(とう)という石の腰掛がある。昔、高貴な人が座られたということで、室町幕府が移設したものだそうだ。いったい誰? 「希望するお嬢さんは記念写真をどうぞ」

 夕佳亭(せっかてい)は、江戸時代,後水尾天皇(ごみずのおてんのう)を迎えるために鹿苑寺住職の鳳林承章が茶人・金森宗和(かなもりそうわ)につくらせた数寄屋造の茶室で「夕」日にはえる金閣が「佳(よ)」いという意味から「夕佳亭」と名付けられた。明治のはじめに焼失し,現在の建物は明治27(1894)年に再建されたものだ。

 茶室の南天の床柱や萩の違棚が有名で,亭の前にある石燈籠と富士形の手水鉢は,室町幕府八代将軍足利義政が愛用したものと伝えられている。茶室の降り口に南天の木が植えられているので参考にするといい。
 ちなみに南天は難転(なんを逃れる)のごろあわせだと言われる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 不動堂は、安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)が再建したもので、金閣寺の境内に現存する最も古い建物である。本尊の石不動明王は弘法大使作と伝わり、首から上の病に効くと言われている。現在は秘仏だが,2月の節分と,大文字の送り火が行われる8月16日には開扉法要(かいひほうよう)が営まれている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺

 境内を出たら、「よーじや」にもよってみよう。もちろん哲学の道(かくれや的で割烹も併設)や清水の二年坂、麩屋町三条(よーじやカフェ)、祇園花見小路にもあるので工程の中で一ヶ所考えればいいだろう。

 舞妓さんたちが愛用しているという「あぶらとり紙」は、金閣を初め、寺社仏閣で使われる金箔製造の副産物である。金地金を叩き広げる際、地金を挟むために用いられる箔打ち紙が、皮脂もよく吸収することから転用されるようになったのだ。
 ちなみに「よーじや」さんのユニークなマークは手鏡をモチーフにしている。



善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺
 善峯寺 (2012-10-26 12:34)
 松尾大社 (2012-07-26 10:45)
 お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺 (2012-03-21 12:56)
 観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺 (2012-03-20 10:58)
 観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺) (2011-09-02 17:36)
 観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺 (2011-07-28 20:31)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。