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2011年02月01日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 東山三十六峰の最南端に位置する稲荷山に鎮座するのが、伏見稲荷大社である。全国に四万社近くある稲荷社の総本宮だ。「病弘法、欲稲荷」ということわざがある。病気のことなら弘法大師、金儲けのことならお稲荷さんにという意味 だ。
 奈良時代に、秦氏が稲荷山に奉った神が始まりとされ、稲荷山の山上山下の一帯が稲荷信仰の原域 、御神体である。伏見稲荷の祭神は宇迦之御魂神、五穀豊穣の穀物の神である。五柱を奉る。
 稲荷の語源は稲が成る(稲成)から来ており、元々は五穀豊穣を願う農耕の神。今でも田植え神事などが引き継がれている。後に米が商取り引きの中心になり、石高で流通価値を表すようになっていった経過から、商売繁盛の神としても崇められていくようになる。
 深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができる。ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばしていったと考えられている。
 駐車場は師団街道稲荷新道から東に、京阪伏見稲荷駅を越えて、稲荷大社の総門をくぐった社務所前、参集殿あたりに数箇所隣接している。参集殿は宿泊、食事なども行える。 

「『山城国風土記』の逸文によると、古くからこの地域に住んで、一族が繁栄を極めていた秦氏の長者・伊呂具(いろぐ)は、和銅四年(711)2月初午の日、驕富(きょうふ)におごって餅を的にして矢を射たところ、的はたちまち白鳥と化して飛びたち、後ろの山の三ヶ峯の頂上にとどまった。するとそこにたちまち「稲が奈利生(なりお)う」という奇瑞がおこり、その後は、秦氏の家運が傾きはじめたので、伊呂具は驕慢(きょうまん)の心を悔いて杉を神木として稲の精霊を祀り、再び家運を挽回することが出来た。
 この霊験のあらたかさに感じて、この精霊を「稲成(いなり)の神」と崇め、山を神山(こうやま)として崇め、元明天皇の和銅4年(711)に、その麓に社殿を営むことになった。そして伊呂具の後裔にあたる秦忌寸(はたのいみき)の一統が代々祖神祭祀の聖地として祭祀にたずさわってきたのである。」

 http://www.fusimi-inari.com/store/map01.asp 
 「伏見稲荷参道商店街」のウェブガイド」
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 京阪電車の伏見稲荷駅からして稲荷色だ。駅のイメージが、あの鳥居の朱色なのである。朱(あか)は魔よけの色である。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。ちなみにJR稲荷から続くのが表参道、京阪から続くのが裏参道である。参道には稲荷らしいお土産物店が並ぶ。伏見人形、稲荷寿司、キツネの煎餅、びっくりするのはスズメ、ウズラの姿焼き。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 深草は、良土を産出し、古くから土人形のふるさとと言われる。(5世紀中ごろから7世紀前半)土器が造られ、土師部(はじべ‐埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原(西大寺の南)から移住した記録があり、遺跡も発掘された。さらに、豊臣秀吉の伏見城建造時(1594年)、播州(今の兵庫県)などから瓦を造る人々が深草に移り住んだ。
 これらの人々から伏見人形が起こった。伏見人形(稲荷人形・深草人形)は、日本各地の土人形・郷土玩具の原型となった。
「饅頭食い人形」は、ある人が幼児に「お父さんとお母さんどちらが大切か」と問うたところ、幼児は手に持った饅頭を二つに割って「おじさんこれどっちがおいしいか」と当意即妙に答えたという民話を人形化したもの。部屋に飾っておくと「子供たちが賢くなる」と言われる。文化・文政時代からあったと伝わる伏見人形の代表作だ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 伏見稲荷大社の参道で名物の「すずめの焼き鳥」は、穀物を食い荒らすスズメ退治のために始まったとされ、大正時代から販売されてきた。穀物を食べる野鳥を追い払うために食べるのは「鳥追い」と呼ばれる文化の一つ。
 ただ、その名物「スズメの焼き鳥」を売る店も現在では2店だけになっている。スズメを捕る猟師の高齢化やワシントン条約などもあり、禁輸による中国産の在庫切れが原因だ。
 国産で販売を続けている食事処「稲福」は京都、兵庫、香川県などの猟師から仕入れているが、確保できる量はピーク時の3分の1にすぎない。国産すずめの解禁時季に限って姿焼きを販売している。値段も1本500円と中国産の約2倍。スズメ猟の後継者も少なくなっているという。

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 狐の面のような、甘さ控えめ、味噌の香ばしい
「いなり煎餅」。手焼きするための煎餅の型がだんだん、製造されなくなってきているのだとか。
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 朱塗りの楼門

 表参道に面して厳然として建つ朱塗りの楼門は、安土桃山時代に豊臣秀吉により寄進されたもの。3間1戸、屋根は入母屋造り、桧皮葺で屋根の軒反りが大きく荘重な威厳がある。
 天正18年(1589)、豊臣秀吉が母大政所の病気回復を願って、こと成就のあかつきには1万石を寄進するとの「命乞いの願文」が残されている。
 昭和49年の解体修理の際、垂木に同年号の墨書銘が発見され、秀吉書状の正しさが証明された。

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お茶屋
 参集殿の東にある「お茶屋」はもともと仙洞御所にあったものを、慶長11年(1608) 禁中非蔵人として出仕していた、伏見稲荷大社の神主であった羽倉延次が、後水尾院から拝領したものである。
 天皇家が使用していた茶室ということで、普通の茶室のようなにじり口はなく、貴人口とも呼ばれる大きな出入り口となっている。書院造りが数寄屋造り化していく過程を示す数少ない貴重な遺構だ。
 重要文化財。非公開

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 楼門を潜るとすぐの外拝殿が現れる。外拝殿の背後の石段の上に内拝殿、本殿となる。
 外拝殿の金色の手すりには、天保11年とある。江戸時代の末ごろ、11代将軍徳川家斉の末期に当たる。外拝殿は天正年間、1589年頃に作られたものが、この天保11年(1840年)に改築され、そのときに刻まれた文字だという。
 
 内拝殿は外拝殿の斜め後ろにあり、その奥に稲荷造という屋根続きで重要文化財の本殿がある。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 本殿 (重文・室町)
 社殿は明応3年(1494)の建造で、5間社、流造り、屋根は桧皮葺とした稀にみる大建築で、これを「稲荷造り」という。社記には、「御本殿、五社相殿、ウチコシナガレ作、四方ニ高欄アリ、ケタ行五間五尺、ハリ行五間五尺」とある。
 打越流造りとは、浅い背面の流れが棟を打越して、雄大な曲線を描きながら、長々とゆるやかに流れており、側面から眺めると、棟へ向かって盛り上がるように妻がそびえている形をいう。

 現在は本殿と拝所の間がきわめて狭くなっている。これは昭和38年の本堂修理の際に、内拝殿(祈祷所)を増築したためであり、このとき本殿を創建当初にもどし、向拝を内拝殿の正面に取り付けた。この唐破風の向拝は、秀吉が本殿修理後に付け足したもので「懸魚」の金覆輪や「垂木鼻」の飾金具、前拝の「蟇股(かえるまた)」の意匠に安土桃山時代の気風がみなぎる。

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荷田春満邸宅跡と東丸神社
 伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が荷田春満を奉る東丸神社 。学問の神様である。隣接して邸宅跡も残る。
 荷田春満(かだのあずままろ)は、江戸時代中期の国学者で歌人。古典・国史を研究して復古神道を提唱。『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人に数えられた 。
 元禄赤穂事件で有名な大石内蔵助とは旧知の友人であったといい、大石は『源氏物語』などの進講や歌の指導をしに、よく吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出し、この日を討ち入り決行の日と定めている 。といった逸話も伝えられる。
 
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 本殿の参拝後、本殿背後の稲荷山の三つの峰を順拝(お山めぐり)する。いわゆる稲荷詣である。社殿も元は三つの峰に上、中、下の三社に分かれていたが、応仁の乱の兵火で焼けて現在の地に遷った。本殿修築などの際に神様が遷座する仮殿の役割を持つ「権殿」よこの石段がお山めぐりのスタート。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 初めが玉山稲荷社、右の石段をのぼり奥宮、その横が白狐社。なだらかな登りの石段を登り始める。稲荷社の聖地でもある御膳谷奉拝所、かつての祭祀遺跡と云われる御饌石(みけいし)があったり、三条小鍛治宗近の話が残る御剣社、枕草子に記された清少納言が登ったと伝わる春繁社など、逸話には事欠かない。
 枕草子「2月午の日の暁に、稲荷の社に詣で、中ノ社のあたりにさしかかるともう苦しくて、なんとか上ノ社までお参りしたいものだと念じながら登っていく……誠にうらやましく思ったもの」

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 ここから「千本鳥居」が始まる。千本とは無限のごとく多いという意味。実際には数多の人たちから寄進された、5千本にも及ぶ鳥居が今もその数を増やし続けている。
 この鳥居を潜り30分ほどで三ツ辻に着く。この辺りには休憩のための茶店などもある。元気ならそのまま歩くと四ツ辻へ。眼下の深草の町を展望できる。続けて一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰と歩く。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

稲荷神社の守り神は何故、おキツネさん?
 楼門の両脇に宝珠と倉の鍵を持つ、眷属(けんぞく・神の使い)としてのきつねがいる。境内のあちこちで見られる。
 山からおりて田の近くで食物をあさり(実る稲穂をねらう害獣:ネズミ等が獲物)、子キツネを養う。それは,稲の稔った晩秋から冬にかけての季節。そして,秋の田園でたわわに実る稲穂の色と,キツネの体毛は同色。
 豊かな実りを迎えた田園風景に,稲穂と同色のキツネの親子。農村に生きる当時の日本人の目には,繁殖=豊作のイメージとして結びついた。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 民俗学者の柳田國男は「田の神の祭場として残した未開地にキツネが住み着き,人々の前で目につく挙動をしたため」と説明する。キツネの習性が神秘性と結びつき「キツネは神の使い」とイメージされ,やがて「稲荷信仰」と結びついたと考えられているという。
 一方でキツネが,穀物の神である宇迦之御魂神の使いになったのは,一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津(みけつ)神」であったことから,ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され,誤って「三狐神」と書かれたため。そして,先に触れたようなキツネの習性(穀物を食べる野ネズミをキツネが食べてくれるなど)が,田の神の先触れ,田の守り神と見られ,キツネを通さなければ穀物あるいは豊かな実り・農耕の神の神霊をうかがい知ることはできないと考えられたとの説もある。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 千本鳥居をぬけたところ通称「命婦谷」にあり、一般には「奥の院」の名で知られる。この奥社奉拝所はお山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はこの社殿の背後に位置している。  
 奥社には「おもかる石」と云われる一種の神占石がある。この灯篭の前で願い事の叶うことを念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 初午(2月に初めて廻ってくる午・うまの日)の「初午大祭」で、参詣者に授与される「しるしの杉」は歴史も古く、和歌においては、稲荷の歌枕にもなっている。御礼、御守りの代わりであった。
 秦氏が先祖の罪を悔い改めて神様に祈願し、社の杉を庭に植えると、立派に育ち福を得たという縁起による。初午のお参りは福が授かる「福参り」といわれる所以である。

伏見稲荷大社は、東寺の鎮守社でもある
 平安時代には、稲荷信仰は真言密教と結びつく。淳和天皇が病気になった原因は、弘法大師空海が東寺の建立に当たって稲荷山の木々を伐り出したことによると云う宣託を受けて、天皇は稲荷神に従五位下の位を贈り謝罪することで、その非を認めた一件から、東寺と稲荷大社の結びつきは強固になっていった。 
 また、東寺は西寺と共に国家鎮護の寺として建立されるが、稲荷社の位置関係も京の都から見て東南の方角に当たるため、これも王城鎮護の役割とも合いまったもののようだ。
 藤森神社とは犬猿の仲?
 もともとこの地域は紀氏の領土であったという。紀氏の神を奉る藤森神社の氏子が今でも多い。軒先を貸した秦氏の勢力が台頭し、母屋も…………との伝承もある。真実はいかに。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

 御近所散策 ぬりこべ地蔵
 稲荷大社の大鳥居をくぐって、社殿の右横にある東丸神社の横に続く細い路地を南に行き、石峰寺に行く道の途中。お墓の立ち並ぶ一角にこのぬりこべ地蔵尊はあります。 本来は『塗り壁地蔵』と呼ばれていた土壁に塗り込められたお堂に祀られたお地蔵さんは、京都でも屈指の名地蔵といわれ、病気を塗り込める、とりわけ歯痛に効き目があるということで人々の崇拝をうけている。
  この「ぬりこべ地蔵さん」は歯痛が治るよう祈願したハガキを出すだけでも願いを聞いてくださるとか。 6月4日(虫歯予防デー) には「歯痛封じ法要」が行われます。
 周辺の悪い箇所を千本通りの『釘抜き地蔵』で抜いた跡を修復し再発を封じてくれるやさしい地蔵でもある。『釘抜き地蔵』に御参りした後、なるべく早く参拝するのが良いという。  

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社

御近所散策 石峰寺
 百丈山石峰寺は、江戸中期の正徳3年(1713)に黄檗宗萬福寺(宇治市五ヶ庄)の第六世千呆性侒(せんかんせいあん)禅師により創建された禅道場が始まりである。七面山西麓 にある。
 石段を登りきると竜宮造りの赤い門(総門)があり、「高着眼(こうちゃくがん)」の扁額が架かる。本尊は薬師如来。平安中期の武将の多田(源)満仲の念持仏で恵心僧都の作 。
 本堂裏の竹林に五百羅漢と呼ばれる石仏群が風情をかもしだす。表情豊かな石仏の下絵は、江戸中期の画家、伊藤若冲がここに庵を結び、十年あまりの歳月をかけて描き上げたものだ。

























善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
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 松尾大社 (2012-07-26 10:45)
 お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺 (2012-03-21 12:56)
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