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2011年06月06日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 京の都において徳川の威信を示すが如く二条城がそびえたったのは1626年(寛永三年)であった。本丸、二の丸、天守閣を備えた総面積8万3000坪、建物面積2200坪という大規模なものであったという。1601年(慶長六年)に徳川家康が、将軍上洛の際の居館として築城を命じ、三代将軍家光により、1624年から大改造が3年の歳月をかけて行われた。
京都御所を上回る規模、天守閣からは、広く京の都を一望でき、御所を見下ろす景観。正に徳川幕府の威光と権威で、まるで朝廷を威圧するかのようにそびえる二条城を、禁裏ではどのような思いで、見ていたのであろうか。また京童(きょうわらべ)たちの思いはいかなものであったろう。
 家康が、ここに二条城構築を決める際重要視したのが、外濠・内掘の水であった。眼をつけたのが平安京の大内裏に隣接する禁苑・神泉苑だった。かつては、池の周囲に豪華な殿舎が設けられ、池に船を浮かべて管絃の宴を催したという。
後の祇園祭の起源となった御霊会も行われた。その聖地とも言える神泉苑の北側を家康が二条城に取り組んでしまったのである。当時の京都人の思いは複雑であったに違いない。町屋四、亓千軒が立ち退いた。
二条城の大改造が終わった1626年(寛永3)に、後水尾天皇始め、総勢千人に及ぶ一行が二条城に行幸した。先頭が二条城に入門した時も最後尾は、未だ御所の中だったと云われている。後水尾天皇は、寵愛していた御不津との間を幕府の手によって引き裂かれ、徳川二代将軍秀忠の亓女、東福門院和子(今話題の江姫の娘)を迎えた。かっての藤原氏や平氏と同様に、幕府が朝廷を操ろうとする意図も垣間見える。その怒りからか、この後の「紫衣事件」を端に、後水尾天皇は突然、明正天皇に譲佈してしまう。
 寛永九年(1632年)に秀忠が亡くなり、名実ともに天下を掌握した家光は、それを誇示するように上洛を計画する。寛永十一年の上洛は、三十万七千人もの兵力を率いた壮大なもので、二条城を拠点に大規模な大名の領地替えや領地朱印状の発給などをおこない、家光の全国統治を印象づけた。しかし、これ以後十四代将軍家茂まで徳川将軍がこの城を訪れることはなかった。四代将軍以後は朝廷の勅使、院使を江戸城に呼びつける方式に変わっていくからである。
1867年(慶応3年)、十亓代将軍 徳川慶喜が、二条城の大広間で大政奉還を上表する。徳川幕府の象徴として、内裏の禁苑を取り込んで造られた二条城も、この時、徳川幕府終焉の舞台となった。
 さらに明治元年には、太政官代が置かれ、明治天皇が二条城に行幸し、二の丸御殿の白書院で慶喜追討の詔が発せられた。家康の造った二条城で慶喜は「賊徒」となった。正に、二条城は江戸時代の始まりと終わりを看取った城なのである。
 明治になると二条城は朝廷のものになるが、明治4年に京都府庁が置かれ、更に、明治17年には二条離宮(皇居とは別に設けられた宮殿)となる。元離宮二条城と言われるのは、この事実に由来する。明治26年には、本丸御殿の移築など大改修が行われている。「二条城」は国史跡に指定されており、現在、京都市の管理下にある。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 余裕があれば駐車場に入る前にお城の廻りをぐるりと廻ってみよう。実は色んなものがあるのです。
堀川通りから竹屋町通りを西に入ると、すぐ南には冷泉院跡の石碑がひっそりと建っている。これは平安時代に嵯峨天皇が離宮として造営され、譲佈後は後院(上皇の御所)として使用された。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 しばらく西に行くと見えてくるのが北門である。閉門されている。
 竹屋町通りを突き当り美福通りを下がると西門にあたる埋門が見えてくる。非常時には、土砂などで埋めて塞ぐことを想定して構築された門 である。この門は大政奉還した慶喜ら徳川一門が最後に退去していった門として著名である。他の門と違い、厳重な造りとなっている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 東南隅櫓(とうなんすみやぐら)は、江戸時代初期に造られた二条城に残る隅櫓である。二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺で、国の重要文化財に指定されている。元々は、城の四隅にそれぞれ造られたが、1788年(天明8年)の大火で東北隅櫓と西北隅櫓が焼失し、以後再建されること無く、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓の二つだけとなっている。
押小路通りの東西の端には、神泉苑端の石碑がある
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 二条城のお堀の鯉は味が良い?
 二条城は東西に長く長方形を呈し、水を満々とたたえた外壕がめぐり、内側には高い土居が築かれている。堀川通り側から拝観券を買って、東大手門に至る橋を渡る。お堀には今も鯉たちの姿がうかがえる。
江戸時代の元禄三年(1690)に、長崎の出島にやってきた、ドイツ人医師・ケンペルが書いた『日本誌』には二条城のこととして……。「城廓は方形で……、石垣を築いて深い濠を囲らし……、四角い数層の高い櫓を築き、濠には味のよさそうな鯉が放魚されている。その晩われわれの通詞の許に、この濠の鯉が数尾届けられた」と記述している。果たしてお味はいかがだったのだろう。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

東大手門は多聞櫓(城門を固める石塁の上に設置された長屋形式の櫓) がともなった堂々とした門構えである。これが正門といえる。棟には鯱(しゃち)が飾られている。重要文化財に指定されている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 門を入るとすぐ右手に番所がある、徳川将軍丌在の時の二条城は、二条在番と呼ばれる江戸から派遣された武士によって警備されていた。毎年2組(1組50人)が4月に交代して番にあたった。この番所はそうした詰め所の一つ 。現存する門番所の遺構は尐なく貴重な建物だ。ここで人の出入りがチェックされた。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 現在は来場者も塀に沿って左側(南側)に迂回して、昔の貴人ルートから拝観できる。すぐにも勅使門が見えてくる。寛永年間に建立され、唐門とも呼ばれる。切妻造、桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっている。彫刻がふんだんに使われている。勅使門とは、朝廷の勅使(天皇が出す使者)が来城した時のみ開けられる門である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 唐門の上部桁と唐破風屋根の格天五との間にある欄間には、「牡丹に蝶と瑞雲」の欄間彫刻が4枚(前面と背面に2枚づつ)ある。透かし彫りだが、裏側に板があるので透けては見えない。蝶は青色に塗られている。
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 唐門南面の蟇股(かえるまた)と両脇に「鶴に大和松と亀と瑞雲」の極彩色彫刻がある。中央の蟇股(かえるまた)には「亀」が彫られ、亀の背には蓬莱山と思われる山が載せられている。蟇股の両脇には鶴が羽ばたいている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

唐門中央上部の欄間に「龍虎」の極彩色彫刻がある。
唐門北面の蟇股と両脇に「亀乗り仙人と鳳凰」の極彩色彫刻がある。巻物をもって亀の背に乗っているの仙人である。亀仙人として知られる黄安であろうと思われる。蟇股の両脇には鳳凰が配されている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

二の丸御殿
 勅使門を入ると正面に二の丸御殿の出入り口、豪華な装飾の車寄せが見えてくる。牛車で入れるようになっている。
遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院の各建物が雁行の形で配置されている。二の丸御殿は江戸時代初期の武家の邸宅の姿を今に伝える数すくない遺構である。当時は武家や公家の身分によって入れる部屋も決められていた。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 遠侍(とおさむらい)の間
 城へ参上した大名の控えの間である。二の間は、虎の間とも呼ばれていて狩野一門による虎と豹(ひょう)の絵(竹林群虎図)が描かれている。当時、日本に虎はいなかったため、毛皮を模写したと言われていて、虎にしては優しい顔立ちに描かれている。また豹は虎の雌と思われていた。つまりこの絵はカップルとして描かれているのである。
 一の間は、慶長16年に家康が豊臣秀頼に会見した場所でもある。これ以後、豊臣家は徳川の臣下となったことが示された。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城



式台の間
参上した大名が老中とあいさつを交わした所。将軍への献上品はここで取次がれていた。「松の襖絵」は、狩野探幽25歳の傑作と言われる。
大広間
三の間は、外様大名の控えの間。 部屋の正面上にある欄間の彫刻は、厚さ35㎝の桧の1枚板を両面から、すべて手張りで透かし彫りしたもので、表と裏の彫刻が全く違うが、それでもお互いに邪魔になる部分が見えないという優れものである。
蘇鉄の間を通り過ぎるとと、ここからは奥御殿になる。以前は畳廊下になっていた。身分の高いものしか入れなかった。
黒書院
三の間は、親藩大名(徳川家康の直系の子孫にあたる家柄。 御三家、御三卿、御家門(越前松平家とその分家、会津松平家とその分家 )、譜代大名(関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名、幕府の要職に就任する資格のある大名を指す)の控室。
二の間は、親藩、譜代大名と将軍との内輪の対面所。大政奉還の相談もここで行われた。襖絵は狩野探幽の弟、尚信の二十歳の時の作。「さくらの間」とも呼ばれる。違い棚が二つ設けられているのも特徴である。
白書院
将軍の居間と寝室で、将軍とお付きの女官しか入れなかった。平たく言えば、江戸城の大奥のようなものである。 内部の装飾は表書院と趣が違い、絵画も探幽の師、狩野興以の作で、山水画になっている。
大広間四の間
「槍の間」とも呼ばれ、将軍が居間にいるときの武器を置いた部屋。それにふさわしく、横の長さ11mに及ぶ豪壮な探幽作の
「松に鷹図」の襖絵が飾られている。35㎝の一枚板の透かし彫りの欄間は、表が牡丹、裏が孔雀の見事な彫刻である。
一の間・二の間
将軍に外様大名が面会したところ。将軍の座の横には十四畳の帱台構え(武者隠しの間)、違棚・床の間・附書院を備えている。このような部屋のつくりを、桃山時代の武家風書院造りという。襖絵は狩野探幽の作。この部屋で慶応3年10月、15代将軍慶喜は諸大名を集めて政権を天皇に還す大政奉還を
発表し、徳川幕府265年の幕を閉じ、鎌倉時代よりの武家政権は終わりを告げた。日本史の教科書に載っている「大政奉還の図」は、まさにこれである。 大広間一の間の天五 外様大名に対面した部屋で、最も豪華絢爛である。 天五は、四方がまるく折上がった「折上げ格天五」(ごうてんじょう)である。 一の間は中がもう一段折上がった「二重折上げ格天五」になっている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 蘇鉄の間を通り過ぎるとと、ここからは奥御殿になる。以前は畳廊下になっていた。身分の高いものしか入れなかった。
黒書院
 三の間は、親藩大名(徳川家康の直系の子孫にあたる家柄。 御三家、御三卿、御家門(越前松平家とその分家、会津松平家とその分家 )、譜代大名(関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名、幕府の要職に就任する資格のある大名を指す)の控室。
 二の間は、親藩、譜代大名と将軍との内輪の対面所。大政奉還の相談もここで行われた。襖絵は狩野探幽の弟、尚信の二十歳の時の作。「さくらの間」とも呼ばれる。違い棚が二つ設けられているのも特徴である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

白書院
将軍の居間と寝室で、将軍とお付きの女官しか入れなかった。平たく言えば、江戸城の大奥のようなものである。 内部の装飾は表書院と趣が違い、絵画も探幽の師、狩野興以の作で、山水画になっている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

大広間四の間
「槍の間」とも呼ばれ、将軍が居間にいるときの武器を置いた部屋。それにふさわしく、横の長さ11mに及ぶ豪壮な探幽作の
「松に鷹図」の襖絵が飾られている。35㎝の一枚板の透かし彫りの欄間は、表が牡丹、裏が孔雀の見事な彫刻である。

老中の間
 徳川幕府の老中、今でいえば内閣といったところか。その老中職たちの執務室である。
板張り、塗り壁の質素な造りになっている。絵は、右から春夏秋冬の様子が描かれている。一・二の間は雁の間で、三の間は柳と鷺の絵で、狩野探幽と高弟の作といわれている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

勅使の間
 遠侍の東北の一角になっている。 将軍が朝廷からの使者を迎える時の対面所でる。 青楓とひのきの襖絵は狩野眞設の作。
二条城では、将軍は下座に座った。江戸時代に将軍宣下が江戸城内で行われるようになると、勅使は下座に坐し、将軍が上座に坐すという変則が常態化した。しかしこれも幕末になると尊王思想の浸透により公武の権威がふたたび逆転、勅使が上座、将軍が下座となる。

 鴬張りの廊下
二の丸御殿の廊下は、歩くと鴬(うぐいす)の鳴くような音が聞こえるために「鴬張りの廊下」と呼ばれる。夜間など侵入者があればすぐに分かる、一種の警報装置といえるものだ。 「目かすがい」といわれる、廊下の床板とそれを支える床下の根太の間に取り付けられた鉄製の鎹(かすがい、長さ約12㎝)が施されている。目かすがいには2個の釘穴があり、そこには鉄釘が打たれている。人が床板を踏むと、目かすがいが上下し、釘と擦れ合って鴬が鳴くような音がするのだ。
二の丸御殿を出て、庭園の方に向かうと二の丸庭園の向かい側、御殿の裏側で廊下の裏側が覗き込める。実際に目かすがいをみてみよう。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

二の丸庭園
 作庭の年代は二条城が造営されたと家康時代に、その建築に調和させて作庭されたものであるが、家光時代の御水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられている。
書院造庭園である二の丸庭園は神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また「八陣の庭」とも呼ばれている。二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の为に三方向から鑑賞できるように設計されていたという。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編)二条城

 二の丸庭園を出ると本丸への入口、櫓(やぐら)門がある。横から見ると櫓が2階建てになっているように見えるが、家光時代はこの橋の上に渡り廊下があって、身分の高い人は二の丸から本丸へ土を踏むことなく移動できた。
奥には本丸御殿、天为閣跡、清流園が広がっている。
本丸御殿は非公開となっている。都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を明治26年に移築したもので、皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐ前に佊んでいた建物だそうだ。清流園は時々、特別公開される。






















善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺
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 松尾大社 (2012-07-26 10:45)
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この記事へのコメント
きよかりしみなもとなればいはし水
すゑはるばるとすみぞましける 源頼朝
Posted by 762907812637 at 2011年06月13日 02:30
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