京つう

旅行・観光  |京都府北部

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2008年01月26日

見たことありませんか?

 京都御所の北門にあたる今出川御門を北上すると、そこに相国寺があります。臨済宗相国寺派の総本山。かの有名な金閣寺も銀閣寺も実はこの相国寺の山外塔頭(たっちゅう)だって知ってました。禁裏や足利将軍とえにし深き歴史あるお寺でございます。この風景、どこかで見たことありませんか?相国寺境内は電線が地中に埋めてあるので、よく時代劇の撮影に使われます。暴れん坊将軍の松平健さんがちゃんばらをしながら、かけおりたりしたのもここなのです。
 さて中世の京都は災害や盗賊などの災難に遭う可能性が高く、朝廷や幕府も土倉のような金融業者や石垣や堀などで防御に優れた寺院に資産を預けてリスクを回避しておりました。室町幕府は花の御所に隣接する足利将軍家の菩提寺・相国寺の倉庫の1つに自前の倉庫を保持していたのでございます。

見たことありませんか?

 ガラシャが生誕した頃の京の都の政情は、足利政権の前途に陰りが見え始め、凋落が避けられぬものとなってくるなか、まさに混乱のるつぼと化してございました。細川晴元、細川氏綱、三好長慶ら都を押さえた実力者たちとの抗争で、十二代将軍足利義晴とその子・義輝親子も、何度も近江坂本や朽木あたりへの亡命を余儀なくされるありさまであったと申します。そしてとうとう永禄8年5月19日(1565年6月17日)三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され、将軍暗殺という事態にまで及ぶのでございます。世に言う永禄の変(えいろくのへん)でありました。

見たことありませんか?

 義輝について宣教師ルイス・フロイスは、「公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀を手にし、まずそれで戦い始めたが・・・」と当時の様子を語っています。「・・・叛逆者たちは、宮殿が焼けるに先立って、すべての家屋を略奪した。その二時間ほどを経、相国寺という僧院の僧侶たちが訪れ、公方様の遺骸を上京にもたらし、葬儀を催すこととなった。三好殿はあらゆるものを焼き尽くし、宮殿の一部たりとも残すことがないようにと命じた・・・」(完訳・ルイスフロイス日本史 中公文庫)


三十三間堂
洛中洛外図屏風
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