2008年02月27日
近衛邸前のしだれ桜
京都御苑で最も早咲きの桜が近衛邸前にある約30本の枝垂れ桜でございます。近衛家は摂政・関白を輩出する家柄である五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)の筆頭の位置にありました。応仁の乱までの邸宅跡が御苑内の最北にございます。
応仁の乱で屋敷が焼失したのちは、約1㎞北(現在は同志社大新町キャンパスの一部)に近衛殿を再建いたしますが、その規模は、敷地が南北約50mと意外と小さかったことが2004年の発掘調査で分かり、戦国期に荘園収入の減少など公家の財力は衰え、大邸宅を維持できなかった様子がうかがえるといいます。
さて朝廷最高の官職の家柄に生まれ、戦国時代から安土桃山時代を生きた近衛前久卿(このえ・さきひさ、1536~1612)は、京都において織田信長のために「朝廷工作」をおこなったり、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献するなど、天下取りに力を貸します。秀吉が近衛家の養子となって、「藤原(近衛)秀吉」となり、さらに「豊臣姓」を朝廷から秀吉に送った影にも前久卿の暗躍があったと申します。家康とは叙任、徳川改称について朝廷に斡旋するなどの役割を果たしたのでございます。
応仁の乱で屋敷が焼失したのちは、約1㎞北(現在は同志社大新町キャンパスの一部)に近衛殿を再建いたしますが、その規模は、敷地が南北約50mと意外と小さかったことが2004年の発掘調査で分かり、戦国期に荘園収入の減少など公家の財力は衰え、大邸宅を維持できなかった様子がうかがえるといいます。
さて朝廷最高の官職の家柄に生まれ、戦国時代から安土桃山時代を生きた近衛前久卿(このえ・さきひさ、1536~1612)は、京都において織田信長のために「朝廷工作」をおこなったり、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献するなど、天下取りに力を貸します。秀吉が近衛家の養子となって、「藤原(近衛)秀吉」となり、さらに「豊臣姓」を朝廷から秀吉に送った影にも前久卿の暗躍があったと申します。家康とは叙任、徳川改称について朝廷に斡旋するなどの役割を果たしたのでございます。
Posted by 篠田ほつう at 15:48│Comments(0)
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