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2009年04月28日

古寺に咲く牡丹2000株

 聖徳太子が、十一面j観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させたのが始まりと伝わる古寺・乙訓寺。境内には2000株の牡丹が植えられ、見ごろを迎えています。

古寺に咲く牡丹2000株

  桓武天皇は延暦三年(784年)に長岡京に遷都したとき京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築します。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のものであったといいます。
  翌四年 造長岡宮使、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや桓武天皇は皇太子早良親王をこの乙訓寺に幽閉します。
 早良親王は、母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、761年に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていました。781年、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子。ところが785年、 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で憤死したと伝えられています。境内にはその供養塔があります。

古寺に咲く牡丹2000株

 実際には、藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明です。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もあるようです。  
 その後、桓武天皇の長男安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われ、800年、崇道天皇と追称され、大和国に移葬されまし
た。

古寺に咲く牡丹2000株

 当時、無実の罪などで無念にも没した人々が怨霊となって、後世の為政者に祟るという怨霊信仰が根強く存在していました。桓武天皇の即位までには、やはり、相当強引な他氏排斥もあり、その怨霊による災いを恐れての長岡遷都であったといわれますが、ここで早良親王という、またもや新たな怨霊を作り出してしまったのです。
 怨霊の在る無しはさておき、当時の人々が我々の想像をはるかに超えて、怨霊や祟りを恐れていたという事実が問題なのです。平安京への遷都に到る要因の大きなウエイトを占めていた事はいなめません。だからこそ、なんとか治めて欲しいと鎮魂がなされ、追称されたのです。


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Posted by 篠田ほつう at 08:18│Comments(1)伊波多紀行
この記事へのコメント
>当時、無実の罪などで無念にも没した人々が怨霊となって、後世の為政者に祟るという怨霊信仰が根強く存在していました。

こういう信仰が、現代より、かなり強くあった時代のことなんですよね。
まんが日本の歴史というのを昔読んで、怨念とか怨霊が飢饉の原因とか、病気の原因とかいわれていて、なんだか怖かったのを覚えています。
Posted by いっそ at 2009年08月31日 17:33
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