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2009年05月23日

幻の都を発見 中山修一さんのものがたり

 171号線の勝竜寺の交差点から長岡京市街の方へしばらく行くと、中山修一記念館があります。

幻の都を発見 中山修一さんのものがたり

 長岡京(ながおかきょう)は、784年(延暦3年)から794年(延暦13年)まで山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)に存在した日本の首都でした。
 桓武天皇の命により、平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都して造営され、桂川や宇治川、木津川が淀川となる合流点が近く、全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替え、そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができたといいます。
 発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかり、人々は豊かな水の恩恵を受けていたことが分かります。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられ、道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流し、汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていたといいます。

幻の都を発見 中山修一さんのものがたり

 しかし、遷都後しばらくして、造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、首謀者の中には、平城京の仏教勢力に関わる役人が複数いたのに加え、桓武天皇の皇太弟早良親王もこの反逆に組していたことが明らかになり、早良親王が配流され、親王は恨みを抱いたまま死去したと伝わります。
 その後、日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病 、原因を探るため陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊であるとされ、御霊を鎮める儀式を行ったのですが、その2ヵ月後に大雨が襲い、都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となりました。
 次々と発生する災難、身内の不幸、早良親王を始め、これまでに没した政敵の怨霊を恐れた桓武天皇は、わずか10年後で平安京へ再遷都することになり、その贅を尽くした長岡の都も捨てられることとなってしまったのです。
 さて、この長岡京は、近年まで「幻の都」とされていましたが、1954年(昭和29年)より、高校教員であった中山修一さんを中心として発掘が開始され、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、今日までにかなり発掘調査が進みました。
 未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、平城京、平安京と並ぶ京域を持つ、完成した都であったことが分かっています。

幻の都を発見 中山修一さんのものがたり

 新神足村の村長を務めるほどの名士の家に生まれながら、その私財を投げ打って、幻の都の解明と乙訓の文化遺産を護るために、生涯を捧げたのが、中山修一さんでした。
 発掘を始めた当時、長岡京は文献上だけの「幻の都」といわれていました。しかし、中山さんは、長岡京復元のきっかけとなった、小さな蓮池の存在を見逃しませんでした。長岡京が平安京と同様に碁盤の目のように区画されていたことを明らかにし、手作りで長岡京の全体の復元予想図を作成したのです。
 記念館には、その手作りの地図と復元後の航空写真が飾られているのですが、何とこれが、ほぼぴったりなことに驚かされます。

幻の都を発見 中山修一さんのものがたり

 記念館では、ガイドの金田さんが、中山修一さんの生涯と長岡京発掘の経過を丁寧に説明してくださり、大変興味深い話を沢山伺うことができました。

大正4年 7月19日  中山長作(のち新神足村村長)・ふしの長男として誕生。その後、神足尋常小学校、京都府立桃山中学校を卒業する。
陸軍歩兵伍長に任ぜられ、同日除隊、国民軍士官勤務適任証書を受領する。
24歳 斉藤寿郎(乙訓郡大原野神社宮司)・隆子の長女志伝と結婚。
26歳 『乙訓村海印寺村郷土史の研究』を著す。早良親王幽閉事件を書き、不敬罪として警察の取り調べを受ける。
京都府立伏見中学校兼桃山中学校教諭となる。
30歳 京都帝国大学文学部史学科入学、在学中平安女学院講師となる。
新神足村開田小字下ノ町15に転居する。この付近の水田の区画が、条里の地割でなく、条坊地割であることに気づく。
昭和24年 4月 33歳 京都大学文学部大学院に進学する。 京都大学地理学研究室の頃(昭和21年)
昭和24年 9月 34歳 京都女子中学・高校教諭となる。
昭和26年 4月 35歳 京都市立西京高校教諭となる。
昭和28年 秋 38歳 長岡京復原のきっかけとなった蓮池の存在に気づく。
昭和29年 12月30日 39歳 長岡京の発掘調査にはじめて着手し、翌年早々朝堂院中門にあたる会昌門跡を発見。
昭和31年 40歳 長岡京大内裏付近遺物分布図を作成する
昭和34年 45歳 長岡宮大極殿跡・小安殿を発掘する。
昭和40年 11月5日 50歳 京都府教育委員会から文化財功労者表彰を受ける。
昭和56年 11月7日 66歳 多年にわたる長岡京跡の究明に功績があったとして、京都府教育功労者表彰を受ける。
昭和57年 4月12日 66歳 吉川英治文化賞を受ける。
昭和58年 11月30日 68歳 京都新聞文化賞を受ける。

 中山修一さんは、宅地開発が急激に進む中で、昭和41年に乙訓の文化遺産を守る会を結成し、副会長となりました。向日市の五塚原古墳・森本遺跡・元稲荷古墳・旧東院跡、長岡京市の勝龍寺城跡・恵解山(いげのやま)古墳など多くの遺跡保存のため、行政に異議を唱えながら、保護の重要性を訴え続けたといいます。


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Posted by 篠田ほつう at 08:25│Comments(0)伊波多紀行
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