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2007年11月22日

織豊時代より続く、羊羹の老舗

 羊羹(ようかん)は、一般には小豆を主体とした餡を寒天で固めた和菓子でございます。羊羹とは、本来「羊の羹 (あつもの)」、つまり羊肉入りのとろみのある汁物でした。鎌倉~室町時代、禅僧が点心 (食間に食べる小食) の一つとして中国から日本に伝えました。しかし、禅僧は肉食を禁じられていたため、日本では小豆や葛、小麦粉を用いた見立て料理に変化し、そのうち現在でいう蒸羊羹に近いものになっていったと考えられています。寒天の添加量により、煉羊羹と水羊羹の二種類がある初期の羊羹は、小豆を小麦粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。蒸し羊羹からは、ういろうが派生しています。江戸時代になって寒天が発見され、1589年(天正17年)、和歌山の駿河屋岡本善右衛門によって寒天に餡を加え、さお状に固めた「煉羊羹」がつくられ、今に至っています。
 古文書などの資料で虎屋の存在がたしかめられるのは、1500年代後期の後陽成 天皇の御世であるといいます。虎屋の羊羹は、小豆を煮る作業から完成までに3日を要すのだとか。炊き上がった羊羹の煉り具合の見極めなど、熟練した職人の目で一つ一つ確かめながらの手間ひまを惜しまない工程により、虎屋の味が生まれるといいます。烏丸一条西入る

 織豊時代より続く、羊羹の老舗

  ・・・朝比奈は、お茶請けとして出された・とらや・の羊羹を食す。この頃はまだ蒸し羊羹であった。練り羊羹が登場するのは寛政年間以降となる。(これが話題のとらやのものか、なんという美味!)そう思いながらもすべては食べ切れなかった朝比奈は作法にのっとり、懐から和紙を取り出し、それに包んでまた懐にそっと返した。織部の茶器に入れられた抹茶を飲み干し、「結構なお手前にて、痛み入りまする。中宮さま、いえ、女院様には、お久しゅう、ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする」と深々とこうべをたれた。東福門院は水辺の杜若(かきつばた)に彩られた豪華な西陣織の小袖を着ていた。のちに流行となる寛文文様のはしりである。大坂落城の折、・・・(本文 時代編)


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