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2008年06月25日

桂女の里

 やれ、おもしろや、えん、京には車、やれ、淀に舟。えん、桂の里の鵜飼舟よ。と詠われた。桂川では鵜飼が盛んであったと申します。
 濃紺地に楓葉を絞りぬき、胴あきの部分に浅葱水玉、肩と裾とに文様をあしらう、辻が花の小袖姿。
 頭には、桂包みといわれる白布が、巻貝のようにぐるぐる巻いて締めてある。ふっくらと少し余裕があって、裾回しも短めの桂女装束。かつて西岡・桂の里より出て、竹の桶に入れた若鮎の酢(燻製)と、名物として名高い桂飴とを京の町で振売する桂女たちがおりました。

桂女の里

 桂川の右岸・現在の阪急上桂駅付近は、かつて上桂郷と呼ばれ、ここから下桂郷あたりに、桂女の産する桂の里が広がっていたと言われております。織豊時代、当時は、この里を含む、上六ヶ郷付近一帯の惣領となっていた革嶋家の支配下にあったといわれております。
 桂女は、もともと、神功皇后につかえ、三韓に出征した岩田姫を祖とし、産婆として安産の祈祷と出産にかかわった、シャーマン(巫女)の一族であったとも。妊婦の岩田帯はここから来ているのだとか。各家系は、女系相続が習いでした。
 ただ、神功皇后の三韓征伐や石を挿んで出産を遅らせたとは、明らかに日本書紀や古事記を編纂した後の為政者によって(藤原不比等が関与していると言われますが)、意図的に創造された話です。
 白村江の戦いで、唐、新羅の連合軍に大敗を喫した大和朝廷、当時は大陸の進んだ文化や軍事力にとても太刀打ちできるような力はありませんでした。果たしえなかった悲願を創造し、日ノ本の権威付けの意図であったと思われます。
 そういう意味では、後の秀吉の朝鮮出兵や二度の世界大戦における日本軍の侵略の口実として、半島が「神話時代以来の日本の領土であった」とされた事実などは、とんでもない本末転倒の話です。

桂女の里

 また、桂女は朝廷に鮎を献ずる供御人であったとも言われます。夫たちは鵜飼に携わり、諸役免許を朝廷から与えられ、山城一帯の川上を自由に往来し、水上交通に絶大な力を持っておったそうにございます。。
 明治期になって、没落しながらも、十軒の桂女の家系が存続していたと申します。大八木性が多かったのだとか、なるほど歩いてみると、確かに今でも多いです。

桂女の里


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Posted by 篠田ほつう at 18:24│Comments(0)伊波多紀行
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