2008年03月24日
日本発の本格的医学校!
間直瀬道三は時代を代表する武将たちの治療に関わっています。普通権力者はおのれの体調や病状が露呈するのを嫌い、限られた医者だけに体を診せるものでしたが、他の武将を見ているのを知っていながら道三を呼び頼りにしたと申します。道三は一貫して権力に深入りせず、固く口を閉ざし、他人の病状を決して漏洩せず、今で言う守秘義務を完璧に守っていたからでございます。1575年には織田信長が道三の居宅を訪ね、正倉院の門外不出の名香で伽羅の香木である蘭奢待(らんじゃたい)を道三に送っていますが、いかに道三を重視していたかがうかがえます。
やがて道三は、後進の指導のため、日本発となる本格的医学校「啓迪院」を聚楽第近くの新町通り(現在の上京区新町通り上長者町下ルあたり)に建て、多くの門人を養成、その数八百余名であったと申します。間直瀬道三の興した医学は「後世方派」として、江戸時代を通じて、漢方医療の一大流派を形作り、今日の漢方医学に受け継がれています。自らの医療実践にもとづいてでしょうか、あの時代にあって享年八十八歳の大往生であったのでございます。(山崎光夫著 戦国武将の養生訓 新潮新書より抜粋)
現在そのあたりはブライトンホテルとなっております。
晩年、道三はセミナリオの上長ベルショール・デ・フィゲルド師を診察したことがきっかけでキリスト教に傾注し、オルガンチーノ神父より、洗礼名ベルショールを授けられます。「道三がキリシタンになったことは一万人の改宗に価する・・、ある意味関白の改宗よりも重要だ・・・」(完訳 ルイス・フロイス日本史)と言わせるほどでございました。
やがて道三は、後進の指導のため、日本発となる本格的医学校「啓迪院」を聚楽第近くの新町通り(現在の上京区新町通り上長者町下ルあたり)に建て、多くの門人を養成、その数八百余名であったと申します。間直瀬道三の興した医学は「後世方派」として、江戸時代を通じて、漢方医療の一大流派を形作り、今日の漢方医学に受け継がれています。自らの医療実践にもとづいてでしょうか、あの時代にあって享年八十八歳の大往生であったのでございます。(山崎光夫著 戦国武将の養生訓 新潮新書より抜粋)
現在そのあたりはブライトンホテルとなっております。
晩年、道三はセミナリオの上長ベルショール・デ・フィゲルド師を診察したことがきっかけでキリスト教に傾注し、オルガンチーノ神父より、洗礼名ベルショールを授けられます。「道三がキリシタンになったことは一万人の改宗に価する・・、ある意味関白の改宗よりも重要だ・・・」(完訳 ルイス・フロイス日本史)と言わせるほどでございました。
Posted by 篠田ほつう at 18:13│Comments(0)
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