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2007年12月09日

京の南蛮寺

 ガラシャが生きた前半期は、日之本の人口の五分の一が信者であったといい、日本におけるキリスト教全盛の時代でございました。 この時代に、信長の庇護のもと、イエズス会によって建てられた南蛮寺は、蛸薬師通り室町西入る姥柳町の地にあったと推定されています。京都でのキリスト教布教は、永禄2年(1559)から本格化し、永禄4年にこの付近に礼拝堂が設けられたと申します。天正4年(1576)古くなった礼拝堂を再建する事にし、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助で完成、献堂式のミサが行われました。 これが南蛮寺(正式には被昇天の聖母教会と呼ぶ)で、信者の間では、珊太満利亜上人(サンタマリアしょうにん)の寺とも呼ばれ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となりました。バテレンの寺は新たな京名所として見物人でにぎわったのですが、 天正15年(1587)九州征伐を終えた豊臣秀吉は突如、宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じました。南蛮寺もこの時に破壊され、ついにこの地には復興されなかったのでございます。 (京都市)

京の南蛮寺

 南蛮寺の近くには織田信長が自決した本能寺や、京都におけるキリスト教の基盤を固めたガスパル・ヴィレラ神父(イエズス会)の住居があり、近畿一円には実に1万5000人の信徒がいて、活況を呈していたと申します。

京の南蛮寺

京の南蛮寺

 門前には南蛮帽子を売る店も見えてございます。もとは全61枚の京名所扇面画帖に含まれていたもの。南蛮寺を描く洛中洛外図はこの1例のみで、天正期にさかのぼる古例です。各図に捺(お)された「元秀」朱文壷印から、筆者は狩野永徳の弟で、信長や秀吉の画事をつとめた宗秀(1551~1601年)とわかります。


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