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2007年12月13日

日本史上最大の謎の舞台

 日本の歴史上最大のミステリーとも言われる本能寺の変は、天正十年(一五八二)の六月二日の早朝のことであったと申します。焼失した当時の本能寺は、現在の堀川高校付近・油小路蛸薬師から四条西洞院あたりいったいの広大な寺域を領しておりました。周囲に堀と土塁を持ち、内部に七堂伽藍、多くの子院、厩舎を備える城郭構えで、都随一の大寺院だったのでございます。
 天文法華の乱、本能寺の変、天明の大火、蛤御門の変と実に五度の焼失、七度の再建を繰り返した現在の本能寺は、寺町御池下がるオフィスビルと大商店街の喧騒の中にございます。24日まで、信長と本能寺の寺宝展が開かれております。

日本史上最大の謎の舞台

 さて、光秀は何故、謀反を、果たして謀反であったのか?何故、信長の宿舎は本能寺であったのか?解き明かしたき謎は数々あれど、きりがないほどの諸説があるようでございますが、とりあえず気になるところから。寺宝展の展示に管領細川晴元が本能寺に送った礼状がございます。

 種子嶋より鉄放馳走候いて、此方へ到来す、誠に悦喜せしめ候、彼嶋にも書状を以って申し候、御届けあるべく候、なお古津修理遣わし申すべく候、恐々謹言、四月十八日 晴元 花押 本能寺 (原文は漢字) 本能寺が種子島の末寺を通じて、鉄砲を斡旋していたことを表しております。京の本能寺と南方の種子島、はるかかなたのようで、法華宗の教線を通じて、当時の高速海運を通じて人や物の流れが存在していたということが伺えます。この書状は鉄砲伝来の天文十二年(1543)から晴元が京を追われる十八年までに送られたもの。天文法華の乱により、堺の顕本寺に避難していた本山・本能寺へ、日流門流の末寺・本源寺から鉄砲が届けられたと考えられているのでございます。話はつきませぬ、また次回・・・ICON154

日本史上最大の謎の舞台







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