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2008年01月08日

油発祥の地

 大山崎は、日本の東西を結ぶ交通の要衝として古代より発展してきました。天下分け目の天王山、秀吉と光秀の戦いの舞台もこの地でありました。JR山崎駅のすぐ下に離宮八幡宮がございます。時の神官が搾油器を発明し「荏胡麻油」(えごま)の製油が起こったことで、日本における製油発祥地とされておりまする。

油発祥の地

 大山崎には、 社司らが山崎八幡宮に参拝し、12月13日の社座の席で、油売りたちに古来の作法にもとづいて許可状と印券を与える「判紙の会合」と呼ばれる,秘密の神事があったと申します。 この時代,大山崎は,全国の油売りの元締めとしての地位を守り、「油座」の制度で搾油と胡麻油の販売権を独占して大いに栄えたのでございます。諸国から集まった 油売りも,みな大山崎の免許状を受け,印券(許可証)を持ち、諸国の港や渡し場 を通行いたしました。聖域の神人として諸国の関所や湖上関なども通過かってであったといいます。もし秘密に 搾油を行う ものがあれば,大山崎の神人が出向きたちまち搾油の道具をたたき壊したとも申します。中世の『職人歌合』には、“よひごとに都へいづる油うりふけてのみ見る 山崎の月” とあり,山崎の油売りの非常に多忙な様子がうかがえます。

油発祥の地

 離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると, 大山崎神人が油や雑物 の交易のため,不破関の関料免除の特権を保持し,不破関を越えて,遠く美濃尾張まで行商の旅に出、また,旧社家・疋田種信氏所蔵写本中にある覚書元年(1229年)12月28日付の六波羅探題御教書によれば,既にこの頃,大山崎は播磨国で専売の特権を有し ,翌寛喜2年の御教書では,肥後国まで範囲を拡げております。応長元年(1311年)には,後嵯峨院の院宣が下り,荏胡麻と油の販売 独占を保証。正和3年(1314年)には,六波羅の下知状によって,荏胡麻の運送に関して,淀河尻,神崎,渡辺,兵庫等の関料を免除。文安3年(1446年)に 室町幕府が下した兵庫開制札の中では,山崎神人の買い入れた荏胡麻の運送は,「山崎胡麻船 」 として,大神宮船等とともに,関料の免除が保証。室町幕府においては,歴代の将軍が御教書を下して,大山崎の権益を保証しているのでございます。また京では,神人が居住して店舗を構え,定住の油売商として営業しておりました。大山崎は独占企業として財を成し,同時に諸国を自由に往来できることから, 自然に多くの 情報が集まったのでございます。


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