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2008年01月12日

聚楽第


 天正14年(1586)に、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地で聚楽第の建設を開始しました。聚楽第には各地の大名の屋敷を集め、豊臣が京都における政治の中心地にしようとしたことがうかがわれます。天正16年(1588)にはその聚楽第への後陽成天皇の行幸が盛大に行われ、諸大名に天皇と天皇の代理である関白秀吉に忠誠を誓わるという一大イベントが行われたのでございます。その後、関白の座と聚楽第は秀吉から甥の秀次に譲られましたが、豊臣家の後継者とするなら聚楽第に豊臣政権を運営する役所を増築する必要があったはずで、記録にはないことから秀吉は、豊臣家ではなく関白職だけを譲ったと思われます。聚楽第は、豊臣家の後継者・秀頼が誕生し、文禄4年(1595)の豊臣秀次の失脚後、秀吉は次第に政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体され伏見城の資材とされ、聚楽第は廃城となってしまいます。9年間という短い期間でしたが、聚楽第は、京都における豊臣政権の中心として存在したのでございます。

聚楽第

 聚楽第は、邸宅ではありますが、天守を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備え、瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったといいます。西本願寺の飛雲閣や、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築された建物という伝承を持つ建造物が今も京にいくつか残されています。また04年に尼崎市の民家で発見されたという洛中洛外図屏風(尼崎本)には、聚楽第と行幸の様子が描かれております。聚楽第は屏風の左側に描かれ、五層の天守や本丸御殿、櫓などあり、行幸は聚楽第の東御門から御所まで続く150人の列を描写し、秀吉が乗っているとみられる牛車や天皇が乗る輿もみられ。行列が通る道は金砂を敷いたような装飾がされている様子が描かれております。

聚楽第 

 聚楽第の範囲は、いろいろな説があり、まだ確定されるにいたっていません。これまでの遺構の発掘例としては、上京区一条通大宮下ル民家の敷地では、花崗岩の切石9個からなる礎石群が発見され、櫓の存在が推定されました。また平安宮内裏承明門跡の調査では、聚楽第に関連すると思われる四脚門跡・濠跡・整地層などが検出されています。また西陣職業安定所の発掘では大規模な堀の遺構が検出され、多数の金箔瓦が出土しています。



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