2008年02月06日
戦国の世に理想郷建設を夢見た男
大徳寺塔頭(たっちゅう)・瑞峯院は、天文4年(1535)にキリシタン大名・大友宗麟が菩提寺として創建したものです。国の重要文化財に指定されている表門と本堂(方丈)は室町時代の禅宗方丈建築の遺構をとどめる貴重なもの。 方丈前の「独坐庭」を見て、方丈裏には「閑眠高臥して青山に対す」という禅語から銘じられた庭の「閑眠庭」があり、この枯山水の砂利の庭を斜めによぎるように縦4個、横3個合計7個の石が置かれ、縁側からみると大きな十字架を形作っているようにみえると申します。
さて、有馬晴信・大村純忠とともに、「少年遣欧施設」を、ローマ教皇のもとに送ったキリシタン大名として知られる大友義鎮(宗麟)・(洗礼名・フランシス)は、天文20年(1551)に大内氏旧領の豊前、筑前を制圧。早くから鉄砲の価値を評価していた義鎮は、その製造に取り掛かっていたと言われ、その効果もあったと思われます。海外貿易の拠点、博多を支配し、鉄砲、火薬はじめ、その利を献上し、永禄2年(1559)には、時の将軍、足利義輝から、豊前、筑前守護に正式に任命され、後に九州探題を補任されます。
イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルを府内城(現、大分市)に招き、布教を許可。その城下は、象や孔雀といった珍しい動物などもいる、異国情緒あふれる町であったと申します。 永禄13年(1570)には、毛利氏が九州から撤退。豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を領する、強大な戦国大名となりました。宗麟自身は禅宗に凝っていて、ポルトガル貿易に力を入れた所からも、貿易が主目的であったのではないかとも言われておりますが、晩年には、日向に、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)・キリシタンの理想国を建設する計画に没頭したと申します。
キリシタン灯篭
宗麟は、かなりの好色家で、京都に赴いては美女狩りをしていたとも言われておりますが・・・・
さて、有馬晴信・大村純忠とともに、「少年遣欧施設」を、ローマ教皇のもとに送ったキリシタン大名として知られる大友義鎮(宗麟)・(洗礼名・フランシス)は、天文20年(1551)に大内氏旧領の豊前、筑前を制圧。早くから鉄砲の価値を評価していた義鎮は、その製造に取り掛かっていたと言われ、その効果もあったと思われます。海外貿易の拠点、博多を支配し、鉄砲、火薬はじめ、その利を献上し、永禄2年(1559)には、時の将軍、足利義輝から、豊前、筑前守護に正式に任命され、後に九州探題を補任されます。
イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルを府内城(現、大分市)に招き、布教を許可。その城下は、象や孔雀といった珍しい動物などもいる、異国情緒あふれる町であったと申します。 永禄13年(1570)には、毛利氏が九州から撤退。豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を領する、強大な戦国大名となりました。宗麟自身は禅宗に凝っていて、ポルトガル貿易に力を入れた所からも、貿易が主目的であったのではないかとも言われておりますが、晩年には、日向に、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)・キリシタンの理想国を建設する計画に没頭したと申します。
キリシタン灯篭
宗麟は、かなりの好色家で、京都に赴いては美女狩りをしていたとも言われておりますが・・・・
Posted by 篠田ほつう at 14:30│Comments(0)
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