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Posted by 京つう運営事務局 at

2009年12月30日

東大寺

 奈良市内から東の方を眺めると、三笠山麓の深い緑の中に、燦然と鴟尾(しび)を輝かせている大仏殿を見る事ができます。この大仏殿を金堂とする伽藍が、華厳宗大本山「東大寺」です。
 かつて奈良の都において、南都諸大寺は、仏教の教理を研究し学僧を養成する機関でした。東大寺もまた、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であり、六宗兼学といって寺内に三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・華厳(けごん)・律(りつ)の六宗の宗所が併存し、他宗との兼学や他寺へ行って学ぶのも自由で、今日の大学のような役目を兼ねていたと考えられています。



 創建当時の東大寺は、南大門を入り、さらに中門を潜ると、垂木や角木の木口にも金箔で荘厳された、まるで天上界を思わせるほどの輝きを放つ金堂(大仏殿)があり、西に西塔や戒壇院、東の奥に東塔、羂索堂(現在の法華堂)、講堂、三面僧坊を始め、七堂伽藍が整っておりました。
 金堂の西北には、三間一戸八脚門の形式を持つ転害門に守られ、三角の木材を組み合わせた校倉造り、高床式の正倉が幾棟も集まる一廓(現在は一棟のみ現存する正倉院)があったといいます。当時の様子を精密に再現した模型も展示されていました。
 東大寺の造営には、造東大寺司がつかさどり、仏師国中連公麻呂、鋳師高市大国以下の工匠のほか、公民の夫役や奴婢が仕事に従事、要した材料は、銅73万9560斤、錫1万2618斤といわれます。農耕作業や日常生活にも支障をきたし、律令国家の衰退を招く一因ともなったといわれます。
 しかし、その創建当時の堂塔も、治承4年(1180)12月の平重衡による南都焼討ちによって、興福寺とともに焼失してしまいます。その後再建されましたが、戦国時代、またも三好、松永の乱において、松永久秀の焼討ちにあいまたも焼失、大仏の頭部も焼け落ちました。元禄時代以降になってやっと再建されたといいます。



 東大寺は、「発願聖武天皇」・「勧進行基菩薩」・「開山良弁僧正」・「開眼導師菩提僊那」の四聖(ししょう)の協力により造立された寺であることから、特に中世以降は「四聖建立の寺」とも称せられるようになります。

 あいつぐ遷都、大仏、国分寺、尼寺造営で労力と費用は並大抵ではありませんでした。事業が行き詰まる中、聖武天皇、光明皇后は、当時、民衆の間で影響力を影響力を強めていた行基法師の利用を考えます。 行基は、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれ、681年に15歳で出家、官大寺で法相宗に帰依します。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけたといわれます。
 37歳の時、山を出て民間布教を始め、710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になったと伝わります。民衆を煽動する人物であり寺外の活動が僧尼令に違反するとし、717(霊亀3)年、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されました。
 しかし、こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続け、722(養老6)年には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていきます。723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に広まります。教団は拡大を続け、関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動しました。



 行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、行基の指導により墾田開発や社会事業が進展し、地方豪族や民衆の人気を抑えきれなかったことなどから、731年(天平3年)には弾圧を緩め、翌年河内国の狭山下池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用し始めます。
 このような中、行基菩薩は大仏建立に協力し、741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されることになります。弟子たちを伴い勧進(寄進を募ること)をはじめたと伝えられ、勧進の効果は大きく、行基は745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られました。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。大仏造営中の749年(天平21年)、行基菩薩は、菅原寺で81歳で入滅しました。





  

Posted by 篠田ほつう at 09:25Comments(0)伊波多紀行

2009年12月26日

鹿たちと戯れる

 今年最後の史跡学習会は、少し足を延ばして、奈良の東大寺、春日大社を巡りました。私自身は、学生の頃いらい何と27年ぶり、久しぶりの鹿たちとの再会(?)、境内やその周辺にほんとに普通に鹿たちが歩いている姿に感動しまくりでした。奈良ならではですよね。



 さて最初にご紹介するのは、東大寺戒壇院、かの鑑真和上が、登壇授戒が出来るよう五台山の土を持って設けた我が国最初の戒壇です。(初の授戒は、753年(天平勝宝5年)12月26日、太宰府観世音寺でした)
 では戒壇とは――、
 仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要があります。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(授戒)を行う必要があります。戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているのです。



 鑑真和上は、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し、東大寺に住することに。東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立されました。その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に天下三戒壇が設置され、仏教界における戒律制度が急速に整備されたのです。
 では、何故、大和朝廷が遣唐使まで派遣して鑑真和上を我が国に招請したのでしょうか。そこには当時の政治情勢が色濃く反映していました。天平時代、天下泰平の年号とは反対に時代は、天災(飢饉、地震)、疫病の流行、唐や朝鮮半島、渤海などとの国際関係の緊迫、律令による税負担にあえぐ民衆の反抗と相次ぐ政変に揺れていました。
 天平9年(737年)に至っては、天然痘が流行し、最高権力者である藤原四家の領袖すべてが病死するまでの惨状を呈した程でした。疫病を払い、国家鎮護を願って、全国に国分寺、国分尼寺の建立とその中心として東大寺大仏殿の建立が詔されることになります。(井沢元彦氏によると、長屋王を筆頭に、持統・藤原王朝によって罪なくして殺害された皇子たちの怨霊封じと天皇家の子宝祈願を主目的に建立されたといいます)



 全国に仏教が普及するなか、多くの僧侶が必要となってきました。大仏開眼の折には、一度に3000人が得度(僧になること)したと伝わります。また当時、僧侶になると租庸調などの重税を逃れることができた事実ともあいまって、巷には、勝手に得度する俄坊主(私度僧)が溢れ返っておりました。まさに当時の仏教界には規律もなにもない無法状態が広がっていたのです。
 朝廷は、日ノ本に戒律をもたらすため、また仏教界の統制をはかるため、藤原清河を大使、大伴古麻呂を副使とする遣唐使を派遣して、鑑真大和上の来日を招請しました。唐の玄宗皇帝は高名な僧である鑑真を国の宝として扱い、唐からの出国を固く禁じていたため、密航ともなり、大変な航海の末でしたが、鑑真和上は仏舎利を携え、みごと北九州へ上陸を果たしたのです。(最近の研究では、直筆の書が見つかり、この時、鑑真は完全に失明していなかったとの見解が有力です)



 火災のため、現在の戒壇院は1731年に再建されたものですが、堂内の中央には多宝塔をまつり、愛染明王坐像、鑑真和上坐像、四隅に国宝の四天王像が安置してあります。さすがに天平彫刻の秀作といわれるだけあって、なんともいえない時空オーラが漂っていました。感動です。撮影禁止のためお見せできないのが残念です。
 
 

  

Posted by 篠田ほつう at 01:49Comments(0)伊波多紀行

2009年12月04日

厭離庵



 厭離庵は清涼寺から祇王寺への道、注意しないと見落としてしまいそうな竹垣の路地を入るとあります。 中納言藤原定家の山荘の跡、荒廃後、冷泉家が修復し、明治に山岡鉄舟の娘、素心尼が住職に就き、それ以後尼寺となりました。
 藤原定家はここの時雨亭で小倉百人一首を編纂したといいます(諸説ありますが……)。紅葉の時季だけ公開されます。  

2009年12月02日

額縁の庭

 大原の里を久しぶりに歩いてみました。今年は紅葉の色づきが薄いように感じて、ちょっと残念でしたが……。でもやっぱり清閑な雰囲気がいいですね。
 三千院の参道の奥の突き当たりに勝林院(大原寺)本堂があります。この本堂こそが天台宗の仏教が栄えた大原の中心的道場で、法要儀式に用いる仏教音楽「声明」の修学地として有名です。
 また1186年に天台座主顕真と法然との間で、念仏によって極楽浄土にいけるかどうかの「大原問答」が行われた地でもあります。100日にも及んだという問答で、正論を説くと、本尊の阿弥陀如来が光明を放ったという伝説もあって、こちらの阿弥陀仏は証拠の阿弥陀とも呼ばれています。





 宝泉院はその勝林院の僧坊として古く800年前よりあったお寺です。このお寺何といっても通称「額縁の庭園」がいい!柱と柱の空間を額に見たてて観賞するその絵画のような景色が訪れる人を癒しの世界に誘ってくれます。
 庭の名前は盤桓園(ばんかん、立ち去りがたい意)と称します。ゆったりと紅葉を愛でながら一時、お抹茶を味わって下さい。
 上を見上げると血の顔跡や手形も生々しい血天井が。関ヶ原の合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃しました。その武将達の霊をなぐさめ、自刃した床板を天井にして祀り、供養としています。