2012年03月20日
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願したことに始まる。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御、宇多天皇が先帝の遺志を継ぎ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となった。
宇多天皇が譲位後に出家し、仁和寺第一世 宇多法皇となってから、寺内に「室」即ち僧坊を建て住いとする事で「御室御所」と呼ばれ、寺の付近までもが御室と地名にされた。

その後、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保った。応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われた。本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられてきた。
二王門 重要文化財
仁和寺の正面に建つ巨大な門。高さは18.7mで重層、入母屋造、本瓦葺。門正面の左右に阿吽の二王像(金剛力士像)、後面には唐獅子像を安置する。同時期に建立された知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様の三門であったのに対し、平安時代の伝統を引く和様で統一されている。
阿吽(あうん)とは「あ」から始まって「ん」で終わる。宇宙の始まりと終わり、生と死を表すとされる。

暴れん坊将軍 III のエンディングに使われたり、必殺仕事人V激闘編で生臭大僧正が住持する寺として使われた。また、沢村一樹さん扮する浅見光彦シリーズのロケでも良く使われたりする。
寺名に元号を配すのは、寺院の中でも最高の格式とされる。仁和寺以外には京都でも延暦寺、建仁寺しか例がない。
また門跡寺院とは、代々皇室(親王など)か摂関家の者が法主を務める習わしとなっている格式の高い寺院である。
白書院
宸殿南庭の西側に建立。襖絵などは、昭和の画家・福永晴帆(1883〜1861)画伯による松の絵が部屋全体に描かれている。
南庭
宸殿の南側にあることから南庭と呼ばれている。庭内には左近の桜、右近の橘が植えられ、その前方に白砂と松や杉を配した、簡素の中にも趣のある庭が広がる。
勅使門
大正期に竣工。檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としている。鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など。
勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達する 。勅使を受け入れる施設や宿場、寺社には勅使専用の部屋や門が造られ、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがある。
左近の桜、右近の橘
平安京以降、天皇が政務を取る紫宸殿の前には、当初、左近の梅、右近の橘が植えられていた。奈良時代から平安初期にかけては大陸文化の影響もあって、花といえば梅が主流だったから。橘は中国古来より不老長寿の実といわれる。大覚寺などは今でも左近の梅である。
何故、植えられているのかと言えば、私財を投げ打って平安京を築いた秦河勝の邸宅が大内裏とされ、そこに植えられていたとの説、秦氏と賀茂別氏の名残だとの説などもある。
桜に変わったのは、左近の梅が枯れたとき、仁明天皇が桜好きだった嵯峨上皇を偲んで桜へ植替えたという説や藤原氏初の太政大臣である藤原良房が、承和の変で思惑どうり道康親王(文徳天皇)を皇太子としたとき、氏の威力を内外へ知らしめるために桜へ変えさせたという説などがある。
旧皇居の建物が下賜された宸殿や神宮などの本殿の前には左近の桜、右近の橘が植えられていることが多い。

宸殿
儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていたが、明治期に焼失。現在は大正期に竣工されたもの。御所の紫宸殿と同様に檜皮葺、入母屋造。
内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵は全て原在中(1849〜1916)の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれている。
掛け軸の人物は、宇多法皇である。ちなみに天皇が譲位して引退すると上皇となり院と呼ばれる。上皇が出家すると法皇となる。ちなみに、暴れん坊将軍などで北側の縁先を江戸城御廊下として使う例が多い 。

宸殿から写す北庭、飛濤亭(ひとうてい)、五重の塔
この景観が仁和寺で一番人気のビュースポットだ。宸殿の北側にあることから北庭と呼ばれ、南庭とは対照的な池泉式の雅な庭園。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を望む事が出来る。庭の制作年は不明だが、元禄3年(1690年)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備され現在に至る。
霊明殿
宸殿の北東にみえる霊明殿は、仁和寺の院家の本尊・薬師如来坐像を安置する為に明治44年に建立。正面に須弥壇を置き、小組の格天井をはじめ、蟇股の組物などの細部に至るまで見事な建築。正面上に掲げられた扁額は近衛文麿の筆である。

錦の御旗
御室仁和寺は明治維新においても大きな役目を果たす。仁和寺の第三十世門跡、最後の法親王である純仁法親王は、慶応三(1867)年の王政復古とともに還俗し、仁和寺宮嘉彰親王となり軍事総裁に就いた。
翌年の伏見鳥羽の戦いが起こるや征討大将軍になり、仁和寺の霊明殿須弥壇前の水引をもって錦の御旗を作り出陣した。この錦旗の威力は大変なもので、この旗を押し立てた薩長軍は官軍となり、会津・桑名藩を中心とする幕府軍を一方的に破った。
桧皮拭
宸殿から霊明殿に向かう渡り廊下で、まじかに桧皮葺(ひわだぶき)の様子が伺える。桧皮葺とは、ヒノキの樹皮を用いて施工する日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法 である。
御殿出口付近のお土産コーナーでは、井上真央さん主演の映画にもなった青木琴美さんの人気漫画「僕の初恋を君に捧ぐ」。この仁和寺で、修学旅行に来た逞と繭が買ったクローバーの幸福お守りが実際に売ってある。
原作漫画家の青木琴美さんの色紙展示も見逃せない。

中門(Cyumon) 重要文化財
二王門と金堂の中間に位置し、五重塔や観音堂といった伽藍中心部に向かう入口ともいえる門。切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門で、側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られています。また、向かって左側に西方天、右側に東方天を安置します。

晩春になると「わたしゃお多福 御室の桜(花)鼻も低いが 人も好く」と詠まれて親しまれてきた遅咲きの御室桜が境内の桜苑を埋め尽くします。
中門前の参道も有名なロケ地だ。暴れん坊将軍で、豪気な商人がお参りの際襲われたり、勅使門の前あたりから徳田新之助が駆けつける。必殺仕事人などでもよく見かけた。映画千年の恋 ひかる源氏物語では、中宮・定子が宮中へ参内する行列が描かれ、見送る彰子と紫式部は勅使門の前に控えている。 といった具合だ。
五重塔 重要文化財
寛永21年(1644年)建立。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の屋根の大きさにあまり差がないので、下に立つと塔が自分に迫ってくるようで圧倒される。初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられる。
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置される。中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれている。

九所明神 重要文化財
仁和寺の伽藍を守る社。社殿は本殿・左殿・右殿の三棟あり、八幡三神を本殿に、東側の左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷を、西側の右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の計九座の明神を祀る。
実はここがロケの一番多い場所。「暴れん坊将軍」「鬼平犯科帳」「大奥」と悪者から逃げてきた娘が社の前で一息ついていると、塀の向こうからならず者が笑いながら現れる。あるときは人目を避けて怪しげな取引が行われる。お庭番や忍者がツナギをとっているのもよく見かける。ほどよく褐色した玉垣、ちょうどいい感じの織部灯籠、まるで時代劇のためにセットしてくれたかのような場所なのである。 メイド刑事では、若槻葵役の福田紗紀ちゃんが走り抜けたシーンもあった。

金堂(Kondo) 国宝
仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。慶長年間に徳川家光によって造営された御所・内裏紫宸殿を寛永年間(1624〜43)に移築したものである。
現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝える建築物として、国宝に指定されている。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれている。
ところで、真言宗の本尊では通常、大日如来がまつられるが、ここは本尊が阿弥陀如来となっているのが珍しい。宇多法皇が入寺当初、相当な浄土信仰が広まっていたと考えられている。

御影堂 重要文化財
鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置している。御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用している。
約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえる。

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Posted by 篠田ほつう at 10:58│Comments(0)
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