2011年11月27日
2011年11月25日
2010年11月20日
一休寺
一休寺の境内あちらこちで紅葉が見ごろを迎えています。訪れる人は意外と少なく、穴場といえそうです。

通称一休寺(酬恩庵)は京田辺市薪にあります。薪は観世流や金春流などの四座の能。薪能の発祥の地でもあります。一休さんが京田辺市薪の酬恩庵に移り住んだのは室町時代中期、康正2年(1456年)、63才のころでした。室町時代の文明13年(1481年11月21日)、88才で没するまでの約25年間、酬恩庵は隠棲の地となりました。

とんちやアニメで有名になった一休さん。一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧です。
京都で生まれ、出自は後小松天皇の御落胤説が有力です。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けるものの、讒言により宮中を追われ、一休さんをを生んだといいます 。

6歳から寺に預けられた一休は、早くから詩才に優れ13歳の漢詩『長門春草』、15歳の漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となるほどだったとか。応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(迷いの世界)より無漏路(悟りの世界 )へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かりました。
応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住みませんでしたが再興に尽力したといいます。天皇の寵愛篤く、民衆にも慕われたといわれます。88歳で酬恩庵においてマラリアにより没しました。
臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わっています。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれていますが、宮内庁が御廟所として管理する陵墓となっています。

その一休宗純、実は奇行ともとれるような、言動が多かったのだとか。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いした。

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
一休はその筆や絵に髑髏(どくろ)や骸骨をよく用いました。人はすべて骸骨と同じであることを悟って、現世の空なることを知り、その無相の自己に帰ることをすすめるもの。「権力者も衆上も一皮向けば皆同じ骸骨」といった思いがあったといいます。
こうした行動は、禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったと言われます。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方が民衆の共感を呼び、江戸時代に一休咄に代表されるとんちばなしを生み出す元となったのだそうです。

本殿には木彫りの一休像、また大徳寺までの道のりを弟子たちに担がせたという輿も安置されています。
宝物館には、かみそりをあてず、ざんばら髪で、無精ひげをのばした顔つきは、およそ貴族化した当時の禅僧とは縁遠い姿の一休像があります。また一休作と伝わるどくろの面も収められています。

『一休骸骨』…一休作(と言われている)仮名法語で、様々な人間の生活を思わせる骸骨の群像を描いた挿し絵12葉を間に、道歌をまじえた法語である。

通称一休寺(酬恩庵)は京田辺市薪にあります。薪は観世流や金春流などの四座の能。薪能の発祥の地でもあります。一休さんが京田辺市薪の酬恩庵に移り住んだのは室町時代中期、康正2年(1456年)、63才のころでした。室町時代の文明13年(1481年11月21日)、88才で没するまでの約25年間、酬恩庵は隠棲の地となりました。
とんちやアニメで有名になった一休さん。一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧です。
京都で生まれ、出自は後小松天皇の御落胤説が有力です。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けるものの、讒言により宮中を追われ、一休さんをを生んだといいます 。
6歳から寺に預けられた一休は、早くから詩才に優れ13歳の漢詩『長門春草』、15歳の漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となるほどだったとか。応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(迷いの世界)より無漏路(悟りの世界 )へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かりました。
応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住みませんでしたが再興に尽力したといいます。天皇の寵愛篤く、民衆にも慕われたといわれます。88歳で酬恩庵においてマラリアにより没しました。
臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わっています。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれていますが、宮内庁が御廟所として管理する陵墓となっています。
その一休宗純、実は奇行ともとれるような、言動が多かったのだとか。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いした。
正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
一休はその筆や絵に髑髏(どくろ)や骸骨をよく用いました。人はすべて骸骨と同じであることを悟って、現世の空なることを知り、その無相の自己に帰ることをすすめるもの。「権力者も衆上も一皮向けば皆同じ骸骨」といった思いがあったといいます。
こうした行動は、禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったと言われます。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方が民衆の共感を呼び、江戸時代に一休咄に代表されるとんちばなしを生み出す元となったのだそうです。
本殿には木彫りの一休像、また大徳寺までの道のりを弟子たちに担がせたという輿も安置されています。
宝物館には、かみそりをあてず、ざんばら髪で、無精ひげをのばした顔つきは、およそ貴族化した当時の禅僧とは縁遠い姿の一休像があります。また一休作と伝わるどくろの面も収められています。
『一休骸骨』…一休作(と言われている)仮名法語で、様々な人間の生活を思わせる骸骨の群像を描いた挿し絵12葉を間に、道歌をまじえた法語である。
タグ :、気候
2009年12月04日
厭離庵

厭離庵は清涼寺から祇王寺への道、注意しないと見落としてしまいそうな竹垣の路地を入るとあります。 中納言藤原定家の山荘の跡、荒廃後、冷泉家が修復し、明治に山岡鉄舟の娘、素心尼が住職に就き、それ以後尼寺となりました。
藤原定家はここの時雨亭で小倉百人一首を編纂したといいます(諸説ありますが……)。紅葉の時季だけ公開されます。
2009年12月02日
額縁の庭
大原の里を久しぶりに歩いてみました。今年は紅葉の色づきが薄いように感じて、ちょっと残念でしたが……。でもやっぱり清閑な雰囲気がいいですね。
三千院の参道の奥の突き当たりに勝林院(大原寺)本堂があります。この本堂こそが天台宗の仏教が栄えた大原の中心的道場で、法要儀式に用いる仏教音楽「声明」の修学地として有名です。
また1186年に天台座主顕真と法然との間で、念仏によって極楽浄土にいけるかどうかの「大原問答」が行われた地でもあります。100日にも及んだという問答で、正論を説くと、本尊の阿弥陀如来が光明を放ったという伝説もあって、こちらの阿弥陀仏は証拠の阿弥陀とも呼ばれています。


宝泉院はその勝林院の僧坊として古く800年前よりあったお寺です。このお寺何といっても通称「額縁の庭園」がいい!柱と柱の空間を額に見たてて観賞するその絵画のような景色が訪れる人を癒しの世界に誘ってくれます。
庭の名前は盤桓園(ばんかん、立ち去りがたい意)と称します。ゆったりと紅葉を愛でながら一時、お抹茶を味わって下さい。
上を見上げると血の顔跡や手形も生々しい血天井が。関ヶ原の合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃しました。その武将達の霊をなぐさめ、自刃した床板を天井にして祀り、供養としています。

三千院の参道の奥の突き当たりに勝林院(大原寺)本堂があります。この本堂こそが天台宗の仏教が栄えた大原の中心的道場で、法要儀式に用いる仏教音楽「声明」の修学地として有名です。
また1186年に天台座主顕真と法然との間で、念仏によって極楽浄土にいけるかどうかの「大原問答」が行われた地でもあります。100日にも及んだという問答で、正論を説くと、本尊の阿弥陀如来が光明を放ったという伝説もあって、こちらの阿弥陀仏は証拠の阿弥陀とも呼ばれています。
宝泉院はその勝林院の僧坊として古く800年前よりあったお寺です。このお寺何といっても通称「額縁の庭園」がいい!柱と柱の空間を額に見たてて観賞するその絵画のような景色が訪れる人を癒しの世界に誘ってくれます。
庭の名前は盤桓園(ばんかん、立ち去りがたい意)と称します。ゆったりと紅葉を愛でながら一時、お抹茶を味わって下さい。
上を見上げると血の顔跡や手形も生々しい血天井が。関ヶ原の合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃しました。その武将達の霊をなぐさめ、自刃した床板を天井にして祀り、供養としています。
2009年11月26日
紅葉情報 嵯峨野
紅葉真っ盛り、ここ嵯峨野は何度来ても、やっぱりすばらしい。今週末までは十分見ごたえがありそうです。
さて、常寂光寺、厭離庵、二尊院に祇王寺、直指庵に大河内山荘などなど、数多の紅葉の名所で有名な嵯峨野は、実は、京都盆地の西北方、太秦広隆寺を中心として、北は北嵯峨の丘陵、東は双ケ丘、西は小倉山、南は桂川(大堰川)までの広大な地域をさします。
このあたりは古代、秦氏の生活圏であったといわれ、嵯峨野とこれ以東、現在の京都市北区の白梅町附近までがその範囲であったといわれています。 昭和の初期までは葛野(かどの)郡と呼ばれてていました。

写真の清凉寺は、浄土宗の寺院。山号を五台山と称します。別名・嵯峨釈迦堂とも。。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)は弟子の盛算(じょうさん)です。中世以降は「融通念仏の道場」としても知られています。
もともとここには、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(実はこの人、源氏物語の光源氏のモデルとの説もあるのですが)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったといいます。
十世紀に入って、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいました。
奝然は、宋へ渡航中、台州の開元寺で、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻した釈迦如来像を謹刻させました。釈迦像は、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれて今日に至っています。(現在は霊宝館に安置)
この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。像の胎内からは、奝然の遺品、仏教版画などが発見され、像とともに国宝に指定されています。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目されるのだとか。
奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとしました。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置し、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に南都系の旧仏教の拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたといいます。

「五台山」の額を潜り抜け仁王門を入ると、本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた阿弥陀堂があり、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されているのも特徴的です。また、本堂西側には南向きの薬師寺があります。現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建です。多宝塔、聖徳太子殿、春には京都三大念仏の一つが催される狂言堂、一切経蔵(輪蔵)などがあります。

さてここには、もう一つ興味ある伝承があります。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある小野篁(おのたかむら・小野小町の祖父)。篁は、乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったといいますが、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとされることで有名ですね。
この篁が行き来したという冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」ですが、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝えられています。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が建っています。
さて、常寂光寺、厭離庵、二尊院に祇王寺、直指庵に大河内山荘などなど、数多の紅葉の名所で有名な嵯峨野は、実は、京都盆地の西北方、太秦広隆寺を中心として、北は北嵯峨の丘陵、東は双ケ丘、西は小倉山、南は桂川(大堰川)までの広大な地域をさします。
このあたりは古代、秦氏の生活圏であったといわれ、嵯峨野とこれ以東、現在の京都市北区の白梅町附近までがその範囲であったといわれています。 昭和の初期までは葛野(かどの)郡と呼ばれてていました。

写真の清凉寺は、浄土宗の寺院。山号を五台山と称します。別名・嵯峨釈迦堂とも。。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)は弟子の盛算(じょうさん)です。中世以降は「融通念仏の道場」としても知られています。
もともとここには、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(実はこの人、源氏物語の光源氏のモデルとの説もあるのですが)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったといいます。
十世紀に入って、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいました。
奝然は、宋へ渡航中、台州の開元寺で、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻した釈迦如来像を謹刻させました。釈迦像は、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれて今日に至っています。(現在は霊宝館に安置)
この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。像の胎内からは、奝然の遺品、仏教版画などが発見され、像とともに国宝に指定されています。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目されるのだとか。
奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとしました。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置し、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に南都系の旧仏教の拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたといいます。

「五台山」の額を潜り抜け仁王門を入ると、本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた阿弥陀堂があり、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されているのも特徴的です。また、本堂西側には南向きの薬師寺があります。現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建です。多宝塔、聖徳太子殿、春には京都三大念仏の一つが催される狂言堂、一切経蔵(輪蔵)などがあります。

さてここには、もう一つ興味ある伝承があります。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある小野篁(おのたかむら・小野小町の祖父)。篁は、乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったといいますが、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとされることで有名ですね。
この篁が行き来したという冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」ですが、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝えられています。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が建っています。
2009年11月13日
紅葉情報・大原野
京都市西京区の一地区。京都盆地西縁の小塩山山麓に広がる一帯は、水利に乏しく、竹林に利用され、タケノコの産出が多いことでも知られています。「花の寺」で知られた勝持寺、長岡京遷都の際、藤原氏が奈良の春日大社を勧請した大原野神社のほか、小塩山中腹には金蔵寺、三鈷寺、善峰寺などがあります。
平安以前のいにしえをも伝える土地柄でもあります。今回の史跡勉強会では、花の寺・勝持寺と大原野神社、正法寺、竹林公園などに行きました。とりあえず写真ダイジェストでどうぞ。
勝持寺


大原野神社


竹林公園
平安以前のいにしえをも伝える土地柄でもあります。今回の史跡勉強会では、花の寺・勝持寺と大原野神社、正法寺、竹林公園などに行きました。とりあえず写真ダイジェストでどうぞ。
勝持寺


大原野神社


竹林公園

2009年11月05日
紅葉情報・粟生光明寺
長岡京市西山の麓、粟生広谷にある西山浄土宗の総本山光明寺は、法然上人が43歳の時、日本で最初に念仏の産声をあげた立教開宗の地です。紅葉の名所として知られ、今年はJR東海のCMに取り上げられているのもこのお寺です。
すでに紅葉が色づき始めていました。私も初めて行きましたが、それは見事ですよ!

法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
茂右衛門夫婦は法然の旅の目的が「広く大衆が救われる道を求めての旅」と聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願った。時は流れ承安五年(1175年)3月、浄土宗を開いた法然は20年前の約束通り、粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたのだといいます。

文治元年(1185年)に、かの源平合戦・一の谷の戦いで、源義経の奇襲部隊に所属し、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた弓の名手がおりました。名を熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)といいます。
平家物語の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性や世の無常観を表現する題材として武士の間で好まれ、直実は敦盛とともに主人公として、能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」などにに取り上げられています。
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
その時、法然が説いた「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜した直実は、直ちに弟子となり剃髪したといいます。
法力房蓮生と名付けられた直実は、数年の修行の後、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を得たのだそうです。これが光明寺の発祥といいます。
では光明寺の名の由来はというと……。
「第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人が没しました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとしたので、法然の遺弟達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました」(光明寺縁起より)と伝承されています。
すでに紅葉が色づき始めていました。私も初めて行きましたが、それは見事ですよ!

法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
茂右衛門夫婦は法然の旅の目的が「広く大衆が救われる道を求めての旅」と聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願った。時は流れ承安五年(1175年)3月、浄土宗を開いた法然は20年前の約束通り、粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたのだといいます。

文治元年(1185年)に、かの源平合戦・一の谷の戦いで、源義経の奇襲部隊に所属し、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた弓の名手がおりました。名を熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)といいます。
平家物語の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性や世の無常観を表現する題材として武士の間で好まれ、直実は敦盛とともに主人公として、能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」などにに取り上げられています。
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
その時、法然が説いた「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜した直実は、直ちに弟子となり剃髪したといいます。
法力房蓮生と名付けられた直実は、数年の修行の後、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を得たのだそうです。これが光明寺の発祥といいます。
では光明寺の名の由来はというと……。
「第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人が没しました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとしたので、法然の遺弟達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました」(光明寺縁起より)と伝承されています。
2009年10月27日
紅葉・金福寺へのいざない
俳句の聖地といわれる洛北の臨済宗南禅寺派の金福寺・静かなブームとなってきています。かつて松尾芭蕉もおとずれたという金福寺、庭門をくぐり、小丘をみあげると美しく幻想的な景色が広がっています。

東山を借景とした枯れ山水の小庭です。紅葉は必見なのはもちろん、新緑や雪化粧なども美しい。正面にある椎の大樹に覆われた藁ぶき屋根が芭蕉庵です。
この寺は平安時代の創建らしいですが、荒廃していたのを近くの円光寺にいた鉄舟和尚が再興しました。芭蕉が鉄舟と語り合った草庵を芭蕉庵となずけたんですが、いつしか朽ち果てていたんですね。八十年後、俳人・文人画家の与謝蕪村が再興しました。
庵は三方壁がなく、窓からのぞく京の街並み展望が素晴らしい。庵の後方には、いくつもの石碑があり「憂き我を寂しがらせよかんこ鳥」の芭蕉の句碑もあります。

本堂にあがると俳句資料の他、小説・花の生涯でも著されている幕末の「女スパイ」村山たか女の遺品も展示されています。
「村山たか女は幕末の動乱期、時の人・大老井伊直弼の寵愛をうけながら、身分の違いから結ばれなかったんですが。隠密・すなわち女スパイとなって、京都の反幕府軍の動向を探索し、大老の安政の大獄に手を貸しました。「桜田門外の変」で大老が暗殺された後、とらえられた、たか女は京都三条河原で三日三晩、生き晒しにされたといいます。これがその時の様子を描いた掛け軸です」
住職の奥様にお伺いしたところ、数年前、JR東海のキャンペーンで紹介されたので、関東からの観光客が増えているとのことでした。写真は昨年のものですが、今年は綺麗に色づいてくれるといいな!

東山を借景とした枯れ山水の小庭です。紅葉は必見なのはもちろん、新緑や雪化粧なども美しい。正面にある椎の大樹に覆われた藁ぶき屋根が芭蕉庵です。
この寺は平安時代の創建らしいですが、荒廃していたのを近くの円光寺にいた鉄舟和尚が再興しました。芭蕉が鉄舟と語り合った草庵を芭蕉庵となずけたんですが、いつしか朽ち果てていたんですね。八十年後、俳人・文人画家の与謝蕪村が再興しました。
庵は三方壁がなく、窓からのぞく京の街並み展望が素晴らしい。庵の後方には、いくつもの石碑があり「憂き我を寂しがらせよかんこ鳥」の芭蕉の句碑もあります。

本堂にあがると俳句資料の他、小説・花の生涯でも著されている幕末の「女スパイ」村山たか女の遺品も展示されています。
「村山たか女は幕末の動乱期、時の人・大老井伊直弼の寵愛をうけながら、身分の違いから結ばれなかったんですが。隠密・すなわち女スパイとなって、京都の反幕府軍の動向を探索し、大老の安政の大獄に手を貸しました。「桜田門外の変」で大老が暗殺された後、とらえられた、たか女は京都三条河原で三日三晩、生き晒しにされたといいます。これがその時の様子を描いた掛け軸です」
住職の奥様にお伺いしたところ、数年前、JR東海のキャンペーンで紹介されたので、関東からの観光客が増えているとのことでした。写真は昨年のものですが、今年は綺麗に色づいてくれるといいな!
2008年12月04日
2008年11月28日
2008紅葉 鷹峰エリア
鷹峰エリアには、光悦寺、源光庵、常照寺と紅葉の名所が連なっています。
本阿弥光悦の工房跡 光悦寺 中には七つの茶室に、花札の坊主の元になった景色もありますよ。


源光庵 悟りの窓に、迷いの窓で有名です。


常照寺 吉野太夫ゆかりの朱塗りの門、紅葉とのコントラストが見事です。

本阿弥光悦の工房跡 光悦寺 中には七つの茶室に、花札の坊主の元になった景色もありますよ。


源光庵 悟りの窓に、迷いの窓で有名です。


常照寺 吉野太夫ゆかりの朱塗りの門、紅葉とのコントラストが見事です。

2008年11月27日
松山閣
松山閣松山本店は、御室御所の奥山・宇多野山に囲まれた閑静な京料理の料亭です。近くには、世界遺産に登録された旧御室御所「仁和寺」や石庭の「竜安寺」、日本画家の巨匠堂本画伯の作品二千点を展示した「京都府立堂本印象美術館」などもある。御室は、江戸中期の名工野々村仁清の釜跡としても有名です。

金閣寺のある西大路通りから、蓮華谷を越えて、急な山間の道路を登っていくと、僅か5分ほどで、木々に囲まれた静寂の地に到ります。松山閣の玄関から、館までの間に、見事な紅葉の庭園が広がっていました。
精進料理の材料が豊富な京都にて、湯葉(ゆば)、豆腐、生麩などの奥深い味を生かした京料理は、この店独特のこだわりを持つ。とりわけ湯葉(ゆば)は自家工場にて作り、湯葉桶膳がお勧め。 京野菜は九条ネギ、加茂なす、聖護院かぶら、堀川ごぼう、壬生菜、京松茸、京筍、瀬戸内のハモや鯛、若狭の甘鯛(ぐじ)、かれい、地場で獲れる鮎など四季折々の彩りをそのままお料理にうつしだす事を心がけているといいます。晩秋の景観を満喫しながら、こだわり抜いた京料理に舌鼓を打ち、癒しのひと時を満喫するのもいいのでは。

湯葉は、精進料理の材料の一つとして、約1200年前に最澄が中国から持ち帰ったのが初めと云われ、日本最初の湯葉は、天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本に童歌「山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心坊(お漬物)」として唄われたことが歴史的な記録に残っています。
大豆からしぼった豆乳を温めますと上に薄い膜が張ります。その膜を丁寧にすくい上げたものが「湯葉(ゆば)」でございます。原料は豆腐と同じですが、大豆の味が濃厚で食感が良く、タンパク質、植物性脂肪、炭水化物が豊富で、「畑の牛肉」と呼ばれております。京都では古くから高級、健康食材として用いられて参りました。当店の「湯葉」は、厳選された素材を用い、最新システムの工場で、職人さんの経験値を十二分に取り入れ、安全で衛生的な環境のもと毎日おつくりしている、最高級の「湯葉(ゆば)」でございます。お客様の健康を守りながら、美味しいものをご提供していくこと、ごまかしの無い誠心誠意の商品をお出しすることを私どもの喜びとしながら営業しております。(松山閣ホームページより)
京都市右京区鳴滝宇多野谷20(原谷)
■営業時間 昼 午前11時~午後3時 夜 午後5時~午後10時
■定休日 不定休
■TEL フリーダイヤル 0120-3591-28 TEL 075-461-4970

金閣寺のある西大路通りから、蓮華谷を越えて、急な山間の道路を登っていくと、僅か5分ほどで、木々に囲まれた静寂の地に到ります。松山閣の玄関から、館までの間に、見事な紅葉の庭園が広がっていました。
精進料理の材料が豊富な京都にて、湯葉(ゆば)、豆腐、生麩などの奥深い味を生かした京料理は、この店独特のこだわりを持つ。とりわけ湯葉(ゆば)は自家工場にて作り、湯葉桶膳がお勧め。 京野菜は九条ネギ、加茂なす、聖護院かぶら、堀川ごぼう、壬生菜、京松茸、京筍、瀬戸内のハモや鯛、若狭の甘鯛(ぐじ)、かれい、地場で獲れる鮎など四季折々の彩りをそのままお料理にうつしだす事を心がけているといいます。晩秋の景観を満喫しながら、こだわり抜いた京料理に舌鼓を打ち、癒しのひと時を満喫するのもいいのでは。

湯葉は、精進料理の材料の一つとして、約1200年前に最澄が中国から持ち帰ったのが初めと云われ、日本最初の湯葉は、天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本に童歌「山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心坊(お漬物)」として唄われたことが歴史的な記録に残っています。
大豆からしぼった豆乳を温めますと上に薄い膜が張ります。その膜を丁寧にすくい上げたものが「湯葉(ゆば)」でございます。原料は豆腐と同じですが、大豆の味が濃厚で食感が良く、タンパク質、植物性脂肪、炭水化物が豊富で、「畑の牛肉」と呼ばれております。京都では古くから高級、健康食材として用いられて参りました。当店の「湯葉」は、厳選された素材を用い、最新システムの工場で、職人さんの経験値を十二分に取り入れ、安全で衛生的な環境のもと毎日おつくりしている、最高級の「湯葉(ゆば)」でございます。お客様の健康を守りながら、美味しいものをご提供していくこと、ごまかしの無い誠心誠意の商品をお出しすることを私どもの喜びとしながら営業しております。(松山閣ホームページより)
京都市右京区鳴滝宇多野谷20(原谷)
■営業時間 昼 午前11時~午後3時 夜 午後5時~午後10時
■定休日 不定休
■TEL フリーダイヤル 0120-3591-28 TEL 075-461-4970
2008年11月15日
天龍寺
定番ですが、天龍寺に行ってまいりました。京福電車の嵐山駅を降りてすぐ目の前に山門があります。境内は綺麗に色づいた所もありましたが、お目当ての宝厳院の獅子吼の庭や曹源池は、まだ早かったようです。

嵯峨野は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広範な地域の名称です。天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)は、吉野で没した後醍醐天皇を弔うために、宿敵であった足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山の亀山離宮を禅寺に改めたことから始るとされています。しかし実は、その建設の動機は、失意のうちに無くなった後醍醐天皇の怨霊鎮魂のためであったようです。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を実現したのもつかの間、倒幕でともに戦った足利尊氏と対立し、天皇の証である三種の神器は持明院統の光明天皇の手に渡りました。
後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝を構え、都を奪回すべく画策しますが、足利軍に敗れ、失意のうちに吉野の仮宮で没します。
足利尊氏は、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の鎮魂のために、怨霊となった天皇による復讐を恐れ、災いが自身に及ばないように天龍寺の建設を行ったと言います。
「太平記」には、建設に掛かる莫大な巨費は対明貿易「天竜寺船」が大きな役割を果たしたとあります。
当時は、嵐山一体が境内となっており、七堂伽藍と嵐山を借景にした美しい庭園を誇り、京都五山の一位となっていました。

室町時代、幕府の外交は、五山の僧が担っていました。貿易や財務は僧侶に不向きなため、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配してきたんが、土倉・酒屋の者たちでした。
かの角倉了以を排出した吉田家は、この嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がって来たのです。角倉了以の父・吉田宗桂と天龍寺塔頭の妙智院住持・策彦周良は、二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。荒波を越え、幾度も遭難しそうになりながら、渡航したといいます。

獅子の形をした獅子岩、岩から生えている破岩の松。一面に敷き詰めた緑の苔と楓の大木。嵐山を借景にした回遊式枯山水庭園。獅子吼の庭は、策彦周良による作庭と伝わります。


嵯峨野は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広範な地域の名称です。天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)は、吉野で没した後醍醐天皇を弔うために、宿敵であった足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山の亀山離宮を禅寺に改めたことから始るとされています。しかし実は、その建設の動機は、失意のうちに無くなった後醍醐天皇の怨霊鎮魂のためであったようです。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を実現したのもつかの間、倒幕でともに戦った足利尊氏と対立し、天皇の証である三種の神器は持明院統の光明天皇の手に渡りました。
後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝を構え、都を奪回すべく画策しますが、足利軍に敗れ、失意のうちに吉野の仮宮で没します。
足利尊氏は、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の鎮魂のために、怨霊となった天皇による復讐を恐れ、災いが自身に及ばないように天龍寺の建設を行ったと言います。
「太平記」には、建設に掛かる莫大な巨費は対明貿易「天竜寺船」が大きな役割を果たしたとあります。
当時は、嵐山一体が境内となっており、七堂伽藍と嵐山を借景にした美しい庭園を誇り、京都五山の一位となっていました。

室町時代、幕府の外交は、五山の僧が担っていました。貿易や財務は僧侶に不向きなため、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配してきたんが、土倉・酒屋の者たちでした。
かの角倉了以を排出した吉田家は、この嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がって来たのです。角倉了以の父・吉田宗桂と天龍寺塔頭の妙智院住持・策彦周良は、二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。荒波を越え、幾度も遭難しそうになりながら、渡航したといいます。

獅子の形をした獅子岩、岩から生えている破岩の松。一面に敷き詰めた緑の苔と楓の大木。嵐山を借景にした回遊式枯山水庭園。獅子吼の庭は、策彦周良による作庭と伝わります。

2008年11月12日
2008紅葉 曼殊院門跡
京の町もようやく朱に色づいてまいりました。ここ数日冷え込んできましたので、紅葉の見ごろとなっていきますでしょうね。

「見事な霧島つつじの季節を経て、新緑から紅葉へ、これからの季節がまたいい」というのが曼殊院門跡でございます。門跡とは皇室一門の人々が住職であった事を意味し、曼殊院は妙法院・三千院・青蓮院・毘沙門堂とともに天台宗五ヶ室門跡の一つです。天台座主ともなった良尚法親王の美の結晶といわれるこのお寺、境内はさまざまな工夫や展示、名庭など見所満載です。

叡山電鉄の一乗寺駅から東へ、北白川の曼殊院道をとっとこ、とっとこ登っていくと、狭いですが車も入れます。このシーズン、マイカーはだめですよ。タクシーでね……。参道からもう紅葉のトンネルが続きます。ようやく色づいてきましたので、おすすめです。

「見事な霧島つつじの季節を経て、新緑から紅葉へ、これからの季節がまたいい」というのが曼殊院門跡でございます。門跡とは皇室一門の人々が住職であった事を意味し、曼殊院は妙法院・三千院・青蓮院・毘沙門堂とともに天台宗五ヶ室門跡の一つです。天台座主ともなった良尚法親王の美の結晶といわれるこのお寺、境内はさまざまな工夫や展示、名庭など見所満載です。

叡山電鉄の一乗寺駅から東へ、北白川の曼殊院道をとっとこ、とっとこ登っていくと、狭いですが車も入れます。このシーズン、マイカーはだめですよ。タクシーでね……。参道からもう紅葉のトンネルが続きます。ようやく色づいてきましたので、おすすめです。
2008年09月29日
洛北の秘境
西賀茂から北へ、柊野堰堤を横目にどんどん登る。美しい杉木立の中を、鴨川源流をなす雲ケ畑川が流れる。洛北雲ケ畑の険しい山中にある志明院は、小さな集落にある古いお寺、岩屋山不動教の本山です。不動明王を祀ることから岩屋不動とも呼ばれています。
白雉元年(650)に役の行者が草創し、天長6年(829)、空海が淳和天皇の勅願により再興したと伝えられています。諸堂が点在し、岩屋山全体が山岳道場となっています。鴨川の水源である洞窟の湧き水を神聖視して皇室の崇敬が深く、水神を祀り、清浄な鴨川の御用水を祈願したといいます。水伝説として歌舞伎十八番の『鳴神』の舞台ともなり、鳴神上人の行場でもあったという飛竜の滝も必見です。
ここは、知る人ぞ知る紅葉の名所。鴨川源流地の大秘境に広がる紅葉は、ほんとに綺麗です。

鳴神 歌舞伎脚本 歌舞伎十八番の一。
鳴神上人は朝廷に願いを立てたがお許しがないのを恨み、三千世界の竜神を飛竜の滝壷に封じ込め黒雲坊、白雲坊を従えて護摩の洞窟にこもる。旱魃となって苦しむ民百姓を救うため朝廷は雲の絶間姫という洛中一の美女を遣わす。姫は色仕掛けで上人を迷わせて破戒させ、竜神を封じ込めた護摩洞窟の注連縄を切る。上人の法力は破れ、竜神は天にのぼり雨が沛然と降る。
白雉元年(650)に役の行者が草創し、天長6年(829)、空海が淳和天皇の勅願により再興したと伝えられています。諸堂が点在し、岩屋山全体が山岳道場となっています。鴨川の水源である洞窟の湧き水を神聖視して皇室の崇敬が深く、水神を祀り、清浄な鴨川の御用水を祈願したといいます。水伝説として歌舞伎十八番の『鳴神』の舞台ともなり、鳴神上人の行場でもあったという飛竜の滝も必見です。
ここは、知る人ぞ知る紅葉の名所。鴨川源流地の大秘境に広がる紅葉は、ほんとに綺麗です。

鳴神 歌舞伎脚本 歌舞伎十八番の一。
鳴神上人は朝廷に願いを立てたがお許しがないのを恨み、三千世界の竜神を飛竜の滝壷に封じ込め黒雲坊、白雲坊を従えて護摩の洞窟にこもる。旱魃となって苦しむ民百姓を救うため朝廷は雲の絶間姫という洛中一の美女を遣わす。姫は色仕掛けで上人を迷わせて破戒させ、竜神を封じ込めた護摩洞窟の注連縄を切る。上人の法力は破れ、竜神は天にのぼり雨が沛然と降る。
2007年12月07日
桂昌院像
・・・玉枝「幸せを招くお地蔵さんって?」文寿「これも三百三十年前に桂昌院が祈念されたと伝えられています。自分以外の人の幸せをお願いすることとされているんですよ。藤原様は誰の幸せをお願いしますか?」玉枝「う~んそうねえ・・・」「このあたりは夏の時期には一面がアジサイに覆いつくされてそれは見事ですよ」
源算上人が写経のための墨を摺ったとされる白山名水が龍の口から流れる。桂昌院の遺髪を納めた桂昌院廟、十三仏堂、釈迦堂、薬湯場「ここのお風呂は決まった日にほんとに入れるそうですよ」玉枝「へ~そうなんだ」「さあ奥の院にまいりましょう」二人は静まり返った奥の院への石段を登り始める。玉枝「あっ川の音が聞こえる。この景色、感覚、何だか懐かしいような気がするなあ。以前にどこかで聞いたような。デジャブ?わっすごい」石段を登りきるとそこには、シアターの大パノラマを見るかのような雄大な景色が眼下に広がっていた。「ここからは京や大阪が眺望できますよ」
文寿「さあここが、最もあなたをお連れしたかったところ、世に言う・出世薬師・です。・京は堀川西藪屋町のあたりに、・・・(本文 現代編)


・・・京は堀川西藪屋町のあたりに、仁右衛門と云う八百屋がいたという。嫁とりをして何年にも成るのに、いっこうに子宝に恵まれず、思い余った仁右衛門夫婦。信仰厚き善峯寺の観音様にお参りしたそうな。・どうか子供をお授け下さい・と水ごもりまでしたおかげか願いが叶い、やがて生まれたのが玉のような女の子。名をたまと名づけ、大事に育てたと。お玉は近所でも評判の器量よし。 透き通るような白い肌、鼻筋の通った顔立ち、その姿はまるで京人形のようだったとな・ これがお玉・桂昌院伝説の始まりなのです。父の死後、お玉と母は二年半の間、善峯寺に奉仕しています。その後、綱吉を生み、大奥で絶大な権力を誇り、従一位にまで上り詰めた桂昌院、沢山の京都の寺院の復興にも力を注いでいます。玉の輿といわれる、その原点はここにあるんですよ」
その時だ、傍らに愛犬を抱きかかえる桂昌院像の前にひれ伏す玉枝の口から始めて聞くはずの歌、玉枝が知りうるはずもない歌が自然にこぼれ出た。「たらちをの 願いをこめし寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」それは、かつてこの薬師如来に桂昌院が奉じた・・・(本文 現代編)
源算上人が写経のための墨を摺ったとされる白山名水が龍の口から流れる。桂昌院の遺髪を納めた桂昌院廟、十三仏堂、釈迦堂、薬湯場「ここのお風呂は決まった日にほんとに入れるそうですよ」玉枝「へ~そうなんだ」「さあ奥の院にまいりましょう」二人は静まり返った奥の院への石段を登り始める。玉枝「あっ川の音が聞こえる。この景色、感覚、何だか懐かしいような気がするなあ。以前にどこかで聞いたような。デジャブ?わっすごい」石段を登りきるとそこには、シアターの大パノラマを見るかのような雄大な景色が眼下に広がっていた。「ここからは京や大阪が眺望できますよ」
文寿「さあここが、最もあなたをお連れしたかったところ、世に言う・出世薬師・です。・京は堀川西藪屋町のあたりに、・・・(本文 現代編)


・・・京は堀川西藪屋町のあたりに、仁右衛門と云う八百屋がいたという。嫁とりをして何年にも成るのに、いっこうに子宝に恵まれず、思い余った仁右衛門夫婦。信仰厚き善峯寺の観音様にお参りしたそうな。・どうか子供をお授け下さい・と水ごもりまでしたおかげか願いが叶い、やがて生まれたのが玉のような女の子。名をたまと名づけ、大事に育てたと。お玉は近所でも評判の器量よし。 透き通るような白い肌、鼻筋の通った顔立ち、その姿はまるで京人形のようだったとな・ これがお玉・桂昌院伝説の始まりなのです。父の死後、お玉と母は二年半の間、善峯寺に奉仕しています。その後、綱吉を生み、大奥で絶大な権力を誇り、従一位にまで上り詰めた桂昌院、沢山の京都の寺院の復興にも力を注いでいます。玉の輿といわれる、その原点はここにあるんですよ」
その時だ、傍らに愛犬を抱きかかえる桂昌院像の前にひれ伏す玉枝の口から始めて聞くはずの歌、玉枝が知りうるはずもない歌が自然にこぼれ出た。「たらちをの 願いをこめし寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」それは、かつてこの薬師如来に桂昌院が奉じた・・・(本文 現代編)

2007年12月03日
八坂神社の西楼門 お目見え
修復中だった八坂神社の西楼門が、修復を終え、再びその姿を現しました。四条通りのどんつきは、やっぱりこれでなくっちゃ!境内にある祇園のえべっすさんの前の紅葉もきれいでしたよ!


・・・順子「おいしゅおす。お前様、おおきに、これはいしいしか?なんでごじゃりますのや」「まさかどこぞの姫君やないわなあ。ははっ・・・今日は気分がええさかい、お代はええよ。求肥まんじゅう(白玉粉を水でといてこね、強火で蒸し、冷めてから練って、砂糖、水飴を加えてさらにこねてつくる)いうんえ」お玉「ふ~ん、なあお~たん、ここは、なんなん、おとこしはんが踊るんえ」「つい先ごろまでは、出雲の阿国をまねた遊女かぶきが盛んやったし、派手な踊りで、ときには股下がまくれあがったりもして、そら妖艶なことやったがなあ、いつの頃からか、遊女の客引きの出先のようになってしもて、所司代はんに禁止されてしもうた。それから若衆もんになったんやなあ」「ふ~ん、ゆうじょにわかしゅう・・???」・・・江戸時代の初めに出雲阿国は流行歌に合わせ、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れた踊りを披露したと申します。阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれておりましたが、風紀を乱すとの理由から遊女ものは寛永期に禁止され、若衆ものもこの後に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となったのでございます・・・(本文 時代編) 四条大橋には阿国の像がございます。


・・・順子「おいしゅおす。お前様、おおきに、これはいしいしか?なんでごじゃりますのや」「まさかどこぞの姫君やないわなあ。ははっ・・・今日は気分がええさかい、お代はええよ。求肥まんじゅう(白玉粉を水でといてこね、強火で蒸し、冷めてから練って、砂糖、水飴を加えてさらにこねてつくる)いうんえ」お玉「ふ~ん、なあお~たん、ここは、なんなん、おとこしはんが踊るんえ」「つい先ごろまでは、出雲の阿国をまねた遊女かぶきが盛んやったし、派手な踊りで、ときには股下がまくれあがったりもして、そら妖艶なことやったがなあ、いつの頃からか、遊女の客引きの出先のようになってしもて、所司代はんに禁止されてしもうた。それから若衆もんになったんやなあ」「ふ~ん、ゆうじょにわかしゅう・・???」・・・江戸時代の初めに出雲阿国は流行歌に合わせ、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れた踊りを披露したと申します。阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれておりましたが、風紀を乱すとの理由から遊女ものは寛永期に禁止され、若衆ものもこの後に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となったのでございます・・・(本文 時代編) 四条大橋には阿国の像がございます。

2007年12月02日
山寺への道は険しく!
京都市内からは小一時間、数十キロしか離れていないのに、あたりはまるでずいぶんと山奥に来たように感じられる澄み切った空気と静寂が広がる。かつて王侯貴族たちが宴や鷹狩りをして遊興をせし山里・大原野。一車線の曲がりくねった細い道を走る。うっそうとした木立の中をぬけると、その頂上に位置するところに気高くそびえ立つのが、西国三十三所第二十番札所の「善峯寺」でございます。・・・ 綱吉の将軍職就任後、しばらくして、京の善峯寺の住職が江戸へ訪れた。お玉時代に奉仕した頃から三代目となる。三の丸の客殿にて面会した紫衣姿の桂昌に住職からめずらしい献上が成された。黒白の毛並みの良い鼻筋の通った子犬たちである。「ご住職殿、これはもしや?」住職「はいっ、桂昌様の御愛犬でございました・くう・さまの曾孫さま方にござりまする」「やはりそうでございましたか、とうとう迎えにいてやれ何だになあ。ほんになあ、くう・・」子犬たちを傍らに抱きかかえ、かつての西山に思いをめぐらせながら桂昌が力強くいう「山門、多宝塔、その他の伽藍の再建の儀、しかと分かり申しました。ようやっと恩返しができまする」
桂昌は綱吉、亮賢、そしてその後、亮賢より推挙の隆光や側用人・柳沢保明らとともに、乱世のあおりを受け、荒廃のままの各地の寺院復興に力をそそいだ。桂昌は、幼きころの仁和寺で聞いた・・・(本文 時代編)


・・・「わん、わお~ん、がうがう」「くう、ずいぶんと山奥まできたなあ。かか様、まだ遠いん?」「ほら、みとぉみ、向こうに小さな塔が見えるやろ、もうすぐやからなあ」長い長い竹林の中を、樫原一帯を南北に貫き、太古より田畑を潤す清流・小畑川沿いに抜け、うっそうとした木立ちの中の道ともいえぬ道をずいぶんと上ってきたように感じる。少女にはなおさらのことであったろう。山を登りきると、広大な荒地の中に、いくつかの植木や畑が点々とあって、ぽつんと本堂と多宝塔、薬師堂と観音堂も質素なほこらの中にひっそりとまつられているような状態であった。・・・(本文 時代編)
桂昌は綱吉、亮賢、そしてその後、亮賢より推挙の隆光や側用人・柳沢保明らとともに、乱世のあおりを受け、荒廃のままの各地の寺院復興に力をそそいだ。桂昌は、幼きころの仁和寺で聞いた・・・(本文 時代編)


・・・「わん、わお~ん、がうがう」「くう、ずいぶんと山奥まできたなあ。かか様、まだ遠いん?」「ほら、みとぉみ、向こうに小さな塔が見えるやろ、もうすぐやからなあ」長い長い竹林の中を、樫原一帯を南北に貫き、太古より田畑を潤す清流・小畑川沿いに抜け、うっそうとした木立ちの中の道ともいえぬ道をずいぶんと上ってきたように感じる。少女にはなおさらのことであったろう。山を登りきると、広大な荒地の中に、いくつかの植木や畑が点々とあって、ぽつんと本堂と多宝塔、薬師堂と観音堂も質素なほこらの中にひっそりとまつられているような状態であった。・・・(本文 時代編)

2007年12月01日
紅葉の新名所 御土居の紅葉
梅苑で知られる北野天満宮、もちろん菅原道真公を祀る学問の神様として全国の受験生はじめ、崇敬されています。実はここには史跡となっている御土居があり、そこには樹齢数百年を数えるものもある中々の紅葉がございます。今秋より公開されています。京の紅葉の名所がまた一つ増えました。



さて、御土居とは、かつてこの国の支配者であった太閤・秀吉が建設したもので、高さ五メートル、堀を入れると幅四十メートルもの土居掘が京の街を取り囲んでおりました。戦乱うち続いた京の街を外敵の来襲から守るために築かれた土塁の城壁で、鴨川の氾濫を防ぐ防水施設でもございました。これより中が洛中といわれるゆえんでございます。

・・・北野の天神さんの近く、紙屋川沿いの土居掘(御土居のこと)に群生する竹林を見ながら堀に面した通りを歩いているとお玉が「うわ、かいらしいなあ、みなでひと列に並んで、かもの親子やなあ」とかん高い声を上げる。かなり近づいてみたが、人に慣れているのか飛び去る様子はない。他にもアオサギや白鳥、コウノトリなどが・・・(本文・時代編)



さて、御土居とは、かつてこの国の支配者であった太閤・秀吉が建設したもので、高さ五メートル、堀を入れると幅四十メートルもの土居掘が京の街を取り囲んでおりました。戦乱うち続いた京の街を外敵の来襲から守るために築かれた土塁の城壁で、鴨川の氾濫を防ぐ防水施設でもございました。これより中が洛中といわれるゆえんでございます。

・・・北野の天神さんの近く、紙屋川沿いの土居掘(御土居のこと)に群生する竹林を見ながら堀に面した通りを歩いているとお玉が「うわ、かいらしいなあ、みなでひと列に並んで、かもの親子やなあ」とかん高い声を上げる。かなり近づいてみたが、人に慣れているのか飛び去る様子はない。他にもアオサギや白鳥、コウノトリなどが・・・(本文・時代編)
2007年11月28日
京の紅葉三昧 西国一の名所 善峯寺
京都市内からは小一時間、数十キロしか離れていないのに、あたりはまるでずいぶんと山奥に来たように感じられる澄み切った空気と静寂が広がる。かつて王侯貴族たちが宴や鷹狩りをして遊興をせし山里・大原野。一車線の曲がりくねった細い道を走り、うっそうとした木立の中をぬけると、その頂上に位置するところに気高くそびえ立つのが、西国三十三所第二十番札所の「善峯寺」でございます。平安の頃、源算上人が開基されて、長元七年(1034年)に後一条天皇から良峯寺の号をたまわってよりの古い歴史があり、歴代天皇の崇敬あつく、代々、青蓮院宮が住職を務められた「西山宮」という門跡寺院であった。
儒医で歴史家の黒川道祐のまとめた山城国の地誌である雍州府志には善峯寺のこととして「・・・斯の山を開くとき、三尾四谷を分けて寺院五十余箇所を建つ。応仁の兵火に悉く(ことごとく)炎上し、寺産も亦、分散す。今、僅かに七坊、存するのみ。・・・」とございます。お玉・桂昌院は、母と一緒に二年半ここで奉仕したといいます。まずは2007紅葉三昧!この日は少し曇天だったのが残念・・・




・・・山並みを埋め尽くす紅葉のトンネル、かなり急な勾配の九十九折りの石段を息をきらしながら上がると荘厳な仁王門が出迎えてくれた。玉枝「うわあ、ほんとに広いんねえ。そしてほんとにきれい、この赤、紅、赤、燃えるような深紅って、こんな色のことをいうんやねえ」文寿「約三万坪といわれているこの善峯寺はね、境内全体が回遊式の庭園となっていて、年中、四季折々の花々が楽しめます。紅葉は境内南側の中腹から約一千本の木々があるんですよ」二人は山門でもらえる順路案内図にそって散策していく。桂昌院が綱吉の厄除けのために寄進した釣鐘堂を・・・(本文 現代編)
儒医で歴史家の黒川道祐のまとめた山城国の地誌である雍州府志には善峯寺のこととして「・・・斯の山を開くとき、三尾四谷を分けて寺院五十余箇所を建つ。応仁の兵火に悉く(ことごとく)炎上し、寺産も亦、分散す。今、僅かに七坊、存するのみ。・・・」とございます。お玉・桂昌院は、母と一緒に二年半ここで奉仕したといいます。まずは2007紅葉三昧!この日は少し曇天だったのが残念・・・




・・・山並みを埋め尽くす紅葉のトンネル、かなり急な勾配の九十九折りの石段を息をきらしながら上がると荘厳な仁王門が出迎えてくれた。玉枝「うわあ、ほんとに広いんねえ。そしてほんとにきれい、この赤、紅、赤、燃えるような深紅って、こんな色のことをいうんやねえ」文寿「約三万坪といわれているこの善峯寺はね、境内全体が回遊式の庭園となっていて、年中、四季折々の花々が楽しめます。紅葉は境内南側の中腹から約一千本の木々があるんですよ」二人は山門でもらえる順路案内図にそって散策していく。桂昌院が綱吉の厄除けのために寄進した釣鐘堂を・・・(本文 現代編)