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Posted by 京つう運営事務局 at

2010年08月08日

六道まいり

 京都のお盆は8月7日~10日にお寺で迎え鐘をついて、御精霊様「おしょうらいさん」(先祖の霊)をお迎えすることから始まります。 この時期、五条坂の陶器祭りや今年は、清水寺千日詣りで本堂内々陣の特別拝観や諸行事をやっていますので、この界隈はたくさんの人で賑わっていました。



 松原通りでは六道詣りがおこなわれています。松原通りは、平安時代の葬送地であった鳥辺野へ亡骸を運ぶ際に通る道筋です。 六道珍皇寺周辺はあの世と現世の分かれ道「六道の辻」と言われたのが六道まいりの由来です。
  六道珍皇寺は、臨済宗建仁寺派の寺院。 入り口のテントの中では祖先の精霊が宿るとされる高野槙やホーズキが売られています。露店や茶店も結構な賑わいでした。



 境内には十界之図(天国・地獄絵図)が展示されていました。京都の子供たちは、家族に連れられてこの絵を見せられ、悪いことをしたらこんな罰が待っていると教えられるのだとか。この絵図には、 血の池地獄、煮え湯など恐ろしい地獄絵図か描かれています。



  迎え鐘は、御精霊様(おしょうらいさま)、先祖様の精霊迎えの鐘を撞くために並びます。この時期はすごい人出になります。寺の外の土塀までぐるりと列が続いていました。 綱を手前に曳きます。その後、静かに手を合わせます。こうやって京都人は御精霊様を迎えるのです。「迎え鐘」を鳴らして先祖の霊を迎え、矢田寺(三条寺町上る)の「送り鐘」で霊を送り帰すのです。



 さてこの珍皇寺は、小野篁の邸宅跡といわれており、篁が地獄と現世を行き来したと伝承される井戸があります。閻魔堂には、閻魔大王や弘法大師とともに篁卿の像が安置されています。
 平安京の官人、従三位参議左大弁であり、外交官であり、歌人、漢詩人、学者でもあった小野篁、野狂と呼ばれたり、なかなか魅力的な人物だったようです。篁については次の機会に。



 ところで、閻魔大王がポピュラーですが、実は地獄には十人の大王が亡者を裁判官として裁いていたのだとか。
 この十王の内、最初の七人の王の審判が七日ごとに行われるために、七日ごとの法要があり、遺族が供養することによって、その善行が故人にも及び、故人の魂が少しでも早く極楽に行くことができるという信仰から来ているのだとか。だから四十九日なのですね。
  カッコ内は本地仏。この姿が本来の姿で、十王に姿を変えてそれぞれの役目を果たしていると言われています。
 初七日 泰広王(不動明王) 殺生について聴取。
 二七日 初江王(釈迦如来) 偸盗(盗み)について。
 三七日 宋帝王(文殊菩薩) 邪淫の業について。
 四七日 五官王(普賢菩薩) 妄語(うそ)について。
 五七日 閻魔大王(地蔵菩薩) 六道の行き先を決定。
 六七日 変成王(弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定。
 七七日 泰山王(薬師如来) 生まれ変わる条件を決定。
 一周年 都市王(勢至菩薩)
 三周年 五道転輪王(阿弥陀如来)



 閻魔大王が十王の中で特に著名なのは、五七日担当で、亡者が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の六つの界のうち、どこに生まれ変わるかを決定する立場にあったからだそうです。
 四十九日後、それぞれ定められた所に行くのですが、地獄、餓鬼、畜生、修羅に行くことが定められた亡者も、百箇日、一周忌、三回忌と供養を重ねることにより誰でも極楽に行くことができるようになっているといいます。  


Posted by 篠田ほつう at 20:02Comments(2)篁閻魔帳紀行

2010年07月20日

矢田寺

 矢田寺は、平安時代の初め、奈良・大和郡山市にある矢田寺の別院として、建立されたといわれています。もともとは壬生にありましたが、安土桃山時代の豊臣秀吉による区画整理で、寺町通三条上るの現在地に移されました。



 地蔵菩薩がご本尊のお寺。このお地蔵様は代受苦(だいじゅく)地蔵と呼ばれ、人々の苦しみを代わってくださるといわれています。矢田寺地蔵縁起には以下のような逸話があります。
  嵯峨天皇の臣の小野 篁(802~852)は、身は現世、魂は閻魔大王に仕えるという不思議な人物。満米上人の徳を慕って、しばしば当寺へ詣でていたという。
 ある時、閻魔大王が、「自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探すように」と篁に命じた。篁は、満米上人にこの話を伝えて、閻魔庁に案内し、閻魔大王に菩薩戒を授けたという。閻魔大王は非常に感激して、そのお礼として、上人の希望により、自ら地獄を案内してまわられた。上人は、恐ろしい地獄の中にあって、あらゆる苦痛にさいなまれる亡者を見て、身の毛もよだつ思いであった。
 この時、燃えさかる炎の中にあって、生身の地蔵菩薩が亡者の身代わりとなって、地獄の責め苦を受けておられる姿を拝し、たいそう心をうたれ、礼拝し教えを請われた。地蔵菩薩は「苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる」と語られた。



 上人は、菩薩の教えに随喜して閻魔庁を辞し、矢田寺へ戻ると、早速に仏師を呼び、そのお姿を刻まれた。けれども、どうしても思うように彫ることができず悩まれ、神仏に祈願の日が続いた。
 ある日、4人の翁があらわれて、大きな桐の木に3日3晩のうちに、地獄で上人が拝んだそのままの地蔵菩薩を造りあげた。驚く上人に、「我らは仏法守護の神である。」と告げ、五色の雲に乗り、奈良の春日山へと飛び去られた。そのため、この尊像は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられている。



 また上人は、閻魔大王と別れる時、お土産にと不思議な手箱と印文を授けられた。この手箱には米が入っており、上人がいくら使われても、常に米が箱いっぱいに満ちていたことから、人々は満米上人と尊称するようになたと伝える(上人のもとの名は満慶という)。(大和郡山矢田寺ホームページより)
  この様子が描かれた「矢田地獄縁起絵巻」が、矢田寺に遺されています。このお地蔵様には安産祈願・子孫繁栄・病患悉除・万霊供養の霊験があるといわれています。
 お盆になると、京都では、ご先祖のお精霊迎えのために「迎え鐘」を行います。六道珍皇寺が有名ですが、これに対し、矢田寺では「送り鐘」が行われます。8月16日にはご先祖様が無事冥土に戻れるように、梵鐘をついて魂を送ります。この日は特に、多くの人がこの寺を訪れます。



 冬の寒さが本格的に厳しくなる12月23日には、「かぼちゃ供養」も行われます。古来より冬至の日にかぼちゃを食べると、中風除けや諸病退散になるといわれていたと言います。



 矢田寺では、ぬいぐるみでできたとても愛らしいお守りが人気です。ご住職夫婦の手づくりなんだとか。良縁成就・安産祈願・無病息災などのご利益があり、最近では若い女性がぬいぐるみ守りを求めて、全国から訪れているといいます。
 矢田寺 京都市中京区寺町通三条上る 参拝時間 8:00〜19:00 お問い合せ 075-241-3608  

Posted by 篠田ほつう at 06:44Comments(0)篁閻魔帳紀行

2010年04月25日

普賢像桜は散り際が美しい

 千本通り寺の内を上がってしばらくすると、千本ゑんま堂と書かれた看板がとびこんでくる。千本通り沿いに面した商店街の一角にあります。引接寺と彫られた石柱はあれど、今は門もなく、本堂の前が駐車場になってしまっている境内に乗り入れ、車を降り立った。すると入り口に閻魔法王が睨みを聞かせています。脇士として従っているのが、帳面を持つ検事役の司命尊と書記の役目の司録尊です。

 

 遅咲きの桜、普賢像桜は散り際が美しい。それはなぜか?
 実はこの桜、かつて船岡山の刑場の麓に植えられてて、花冠のまま、ぼとりと落ちるこの桜の散り姿を囚人に見せ、斬首を連想させることで囚人に仏心を起こさせたと伝わっているのです。
 ゑんま堂は、平安時代、現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法といわれる精霊迎えの法、平たく言うと今のお盆行事ですが、その根本道場として建立された祠が発祥です。京の三大無常といわれた葬送の地、化野念仏寺で有名な嵯峨野には福生寺、今は嵯峨清涼寺境内に石碑だけになっています。そして鳥辺野、今の東山阿弥陀ケ峰の南麓あたりには六道珍皇寺、当時は愛宕寺といわれていました。それぞれ六道の辻といって地獄への入り口や出口があったといわれているんですが、さまよえる霊魂の鎮魂寺が置かれたのですね。
 ゑんま堂のあるこの辺りは蓮台野の入口ですが、今でも多くの石仏群が出土するといいます。ここよりさらに北にある上品蓮台寺(千本十二坊)はその蓮台野の墓守として建立されたと伝わっています。上品は、極楽浄土での位が高いことを意味し、その位につくためには、引接寺、通称ゑんま堂で閻魔法王の裁きを受ける必要があったというんですね。ゑんま堂で閻魔様の捌きを受けてから蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、何本も無数にあったため、千本通りと呼ばれるようになったといわれています。
 
 
 
 そして、ゑんま堂や愛宕寺の開基であり、この三大葬送地を定め、管理したと伝えられているのが、小野篁という人物なのです。百人一首の歌人でもあった小野篁は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、閻魔法王より精霊迎えの法の奥義をさずかり、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕えていたと伝承されています。  

Posted by 篠田ほつう at 04:18Comments(0)篁閻魔帳紀行