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2011年01月27日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・北野天満宮



 北野天満宮の参道・上七軒
 北野天満宮の参道ともなっている上七軒。地元の方は「かみひちけん」というようだ。
 室町時代、北野社殿が一部焼失し、時の十代将軍・足利義植は所司代・細川勝元に命じて、社殿の造営をさせた。その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に七軒の茶店を建て、 参詣諸人の休憩所としたので、七軒茶屋と称したのがその由来である。



 天正十五年(1587年)八月十日、太閣秀吉、北野松原に於て晴天十日間(実際には1日で打ち切り)の大茶会を催し「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」 との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈した。 
 その際、この七軒茶屋を、秀吉の休憩所に充て、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、 その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、我国に於けるお茶屋の始まりであると伝承される。 
 上七軒花街が、五つ団子の紋章を用いるのもここに由来する(歌舞会記より)
 またその後、西陣の隆盛で旦那衆が闊歩(かっぽ)した花街としても繁栄を極める。


 
 現在、お茶屋が十軒、芸、舞妓二十数名。 
 毎年春になると「北野おどり」が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている。



 夏甘糖(なつかんとう)で有名な和菓子「老松」、欧風料理の「萬春」はじめ、和洋中の本格料理から、うどんやお好み焼きまで、こだわりの店が30数店舗を超えるグルメスポットでもある。味にも値段にもシビアな西陣の旦那衆が通うお店が多く、元芸妓さんが切り盛りしている店も多数ある。 運がよければお店で上七軒の芸妓さん、舞妓さんを見かけることも!



 駐車場は東側に無料のパーキングがある。
 北野天神には楼門までに三つの鳥居がある。一の鳥居の東側の松は影向松(ようごうのまつ)といって、初雪が降ると菅原道真公がこの松に降りて雪に因む歌を詠むと伝承される。道真が肌身離さず持っていた御襟懸守護の仏舎利が大宰府より雪とともに飛翔してきたとの逸話によるものだ。
 三の鳥居横には、道真公の母君を祀る伴氏社(ともうじしゃ)が見られる伴氏社の石鳥居は鎌倉時代の作で、台座に彫られた蓮弁が珍しい。伴氏とは奈良時代の有力豪族・大伴氏である。 
 三の鳥居の東側あたりの松原は、上述した北野大茶会(きたのだいさのえ)が催されたところ。豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の竣工を祝って催した大茶会。1587年(天正15)10月1日、秀吉みずから亭主をつとめるなど、この日の参加者は、1000人を超えて賑ったという。諸家の茶席に秀吉秘蔵の「似たり茄子」初め、名物茶器・道具が展観された。



 茶会の遺跡として「太閤井戸」がある。北野大茶湯は秀吉に対する京都人の感情を知る試金石であったといわれている。



楼門
 桃山時代の様式。「文道大祖風月本主」と書かれた扁額が架かっている。「文道大祖 風月本主」というのは大江匡衡(952~1012)が道真を称賛して、天満宮に奉納した願文の中の言葉。菅原道真のこと。楼門の左右には右大臣、左大臣が鎮座する。



 北野天神の神紋は星梅鉢紋。「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
 梅をこよなく愛したという道真にちなむ。その梅が主である道真を慕って、一晩のうちに太宰府に飛んでいったという「飛梅伝説」が生まれた。



 北野天満宮には50種約2000本の梅が植えられ、2月初旬から3月末までは梅苑(有料)も公開される。梅の香りに誘われるように梅の季節には大勢の参拝客が訪れる。



楼門をくぐった東側に、参拝者が手と口を清めるための手水舎があり、「手水鉢(ちょうずばち)」と「柄杓(ひしゃく)」が備え付けられている。
 神様は「穢れ(けがれ)」を嫌うため、神域に立ち入るときに、心身の穢れや罪を祓う「禊(みそぎ)」という作法が古来より行われてきた。手水は、かつて、海や川で行われていた儀式が簡略されたもの。
 手水を行うときの作法は--。
まず一礼してから右手で柄杓を取り、水を汲む。
その水で、まず左手を濯ぎ、次に左手で柄杓を取り直して右手を濯ぐ。
もう一度右手で柄杓を取り、左手で水を受け、その水で口を漱ぐ。
口を漱いだらもう一度水を汲んで、今度は左手を濯ぐ。
柄杓を立てて、残った水で柄の部分を清め、柄杓を元の位置に戻す。
そして最後に一礼して、手水舎を出る。



 牛は天神さんのお使いといわれ、北野天満宮の境内にもたくさんの牛の像「なで牛」を見ることができる。
 理由は、道真の生まれた年が丑年、道真が亡くなったのが丑の月の丑の日、道真は牛に乗り大宰府へ下った、牛が刺客から道真を守った。道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めたなどなど諸説ある。
「座牛・寝牛」であるのは、菅公が亡くなった際、轜車(きしゃ・喪車)を引いていた牛が、悲しみのあまり安楽寺四堂のほとりで座して動かなくなってしまったとの伝承からきている。



 この牛の像の頭をなでると頭がよくなるといわれ、特に受験生に大人気だ。また体の調子が悪い人は、自分の体の悪い部分と、牛のその同じ部分とを交互になでると良くなるといわれる。
 ご利益を得ようと、いつも人の手で磨かれているので、牛はピカピカに輝いて見える。



 三光門
 2006年(平成18年)1月15日(日)京都新聞より抜粋
「雲間に浮かぷ月、実は星」
 北野天満宮の中門は、三光門とも呼ばれ、「天満宮」の額を掲げたひわだぷきの四脚唐門で、華麗な彫刻を施した桃山時代の建造物として重要文化財に指定されています。
 門わきの立て札には「由来は、豊冨な彫刻の中に日・月・星があることによる」と記されていました。では、日・月・星という三光の彫刻はどこにあるのでしょうか。



 日(太陽)は「天満宮」の額が掲げられた背面の梁間(はりま)に深紅の太陽のが。対極の梁間には雲に浮かんだ月?が。
「残るは星」がなかなか見つかリません。やっと北側(本殿側)の金網に守られた破風(はふ)に、二匹のうさぎの中央に三日月の彫刻を見つけましたが、星の彫刻ではあリません。神職の松大路和弘さんに聞きました。
 雲間に浮かぶ月と見えた彫刻が実は星だったのです。現代の感覚では、ギザギザの星形を思い浮かべますが、丸く彫られた星を月と見誤ったようです。



 ただ「三光門にはもともと星の彫刻は無く、旧大極殿から真北に位置する中門の上空に輝く北極星を三光の星に見立てた」という言い伝えもあリ、「星欠け門」との別名もあるそうです。このようにさまざまないわれが伝わるのも、この門の華麗さが、往時の人々の話題になったことの裏付けではないでしょうか。



 平安京遷都より100年の頃、都における高官であった菅原道真(天神)は、藤原氏との政争にやぶれ、太宰府に左遷された。
 大宰府で無念の死をとげたといわれているが、没後、京都で災害が頻発し、これが道真の怨霊の祟りとして恐れられた。
 天慶5年(942年)に右京七条の巫女、多治比文子(たじひあやこ)に道真から「北野に社殿を造り自分を祀るように」との御託宣があったという。道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていた(現在の文子天満宮)が、北野の朝日寺の僧、最鎮に相談し、その後、現在の地に祀るようになった。
 拝殿の上の欄間にいるのは、境内でただ一頭だけの「立ち牛」だ。全国の天満宮的にもめずらしいという。道真のご神体の前で不敬ではいけないということだろうか? 



 現存の「拝殿」及び「本殿」、中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉 は慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものといわれている。
「拝殿」は国宝。なお、拝殿の前は左近の梅、右近の松(なんで?)である。
 さらに、北野天満宮は、神社としては、とても不思議な造りになっているとか。拝殿と本殿が大きな屋根でひとつに覆われている。しかも中央に一段低い石の間がある。
 北野天満宮は、本来神を祀る場所ではなく、御霊を鎮めるための場所だったということから、明治の神仏分離まで、神社ともお寺とも区別のつかない不思議な形態だったのだ。「宮寺」と呼ばれ、天台宗に属し、皇族を門跡とする曼珠院が別当となっていた。北野天満宮が神社となるのは、明治以降のことである。ちなみに、本殿は八棟造で、江戸時代以降、秀吉の豊国神社や家康の東照宮にも引き継がれ、権現造と呼ばれるようになった。

 地方豪族の出自から大学に出仕し、学者から学問の才だけで右大臣にまで出世したのは、吉備真備と菅原道真だけである。このことから、天神さんは学問の神として奉られるようになった。



 二礼二泊一礼
 拝殿の前には大きな鈴がぶらさがっていて、ひもを引いて鳴らすようになっている。鈴には、もともと呪力があると考えられており、 邪気を祓うことで神様と対面できる状態にするためだ。鈴を鳴らしたあと、賽銭を入れ、二回おじぎをした後、大きく手を開いて2回柏手(かしわで)を打って、最後にもう1回おじきをする、というのが神様へのご挨拶の仕方。
 なお神社は柏手を打つが、お寺さんでは合掌になるので混同しないように気をつけよう。
 




 拝殿から西側の門をくぐると御土居の入り口がある。境内の西側には御土居の史跡が広がっている。東は鴨川右岸、北は鷹が峰、西は紙屋川左岸、南は九条通で、全長22.5kmの及ぶこの築堤を「御土居」と呼ぶ。
 豊臣秀吉は京都を抑えるとすぐにも、伏見城や聚楽第、京大仏の建設、町割りをはじめ、京都の大改造に乗り出した。北は寺の内通り、東は寺町通りを造り、寺社を移転させ、防波堤とした。そして、西と南は治水のためもあって、この御土居と呼ばれる堀と土塁の堤防で取り囲んだのだ。明治維新で取り壊され、現在は市内十数箇所に跡が残る。
 紅葉の時期には、御土居の紅葉として親しまれている。



 絵馬について
 古来、馬は神様の乗り物と考えられていたため、もともとは本物の馬を奉納していた。しかし、本物の馬は高価な上に、奉納される側も設備や世話などの面で面倒なため、平安時代の頃から馬を書いた絵で代用されるようになった。
 その後、境内に絵馬堂が設けられ、絵に描いた馬や武具などを奉納するようになった。
 現在では、絵馬も小振りになり、庶民でも奉納できる身近なものになった。神社や寺院に参拝する際に、絵馬に具体的な願いごとを書いて奉納すると願いがかなうとされている。



 地主神社  祭神:天神地祇(てんじんちぎ)
『続日本後記』に承和3(836)年(菅公生誕の9年前)2月1日、遣唐使のために天神地祇を北野に祭る」と記録されている通り、天満宮創建以前よりこの地に鎮座されている神社である。
 主祭神の天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のことであり、現社殿は、豊臣秀頼の造営になり、由緒・規模とも天満宮第一の摂社である。
 実は、鳥居から拝殿に至る北野天満宮の中心軸は、元々からのこの地の神である地主神社を避けて建てられている。
 


 北野天満宮の北門を出たところに石仏が奉られているが、この石仏は、破壊された御土居から掘り出されたもの。この北側にも御土居が残されていて、真近に見られる。



織部形石燈籠
 別名「マリア燈籠」とも「切支丹燈籠」とも言われている。マリア像が彫刻されています。
「織部形石燈籠」というのは、茶人好み石燈籠形式の一つで、古田織部正重然の墓にあるものの形に因んで名付けられています。



 大黒さん
 三光門の東側にひっそりと佇む大黒さん。この大黒さんのえくぼに、一回で小石を詰めて落ちなければ縁起が良いとか、願いがかなうとか、その石を財布に入れておくとお金が貯まるとかと言われています。



菅原道真公の生誕6月25日、命日2月25日にちなみ、毎月25日には、神社境内と周辺に所狭しと露店が並び、市が開催される。特に12月25日の市を終い天神、1月25日の市をお初天神と呼んでいる。
 かつては、煤(すす)払いと称して、年の暮れに屋内の煤やほこりを払い、不要になった道具類を廃棄した(現代の年末大掃除)。『付喪神絵巻』によると、煤払いには、手持ちの古道具が付喪神に変化する前に手放すという目的もあったそうだ。その廃棄された古道具を神社仏閣で転売し始めたのが、京都で有名な東寺や北野天満宮の古道具市の起源であったという。

 とようけ屋
 いつも長い行列が出来ている人気のお豆腐やさん。天神さんの門前にある、明治30年から続く老舗です。



 俵屋うどん
 天神さんの門前から今出川通りをはさんで、御前通りを下がったところにあるうどんやさん。ぶっというどん。少しえきぞちっく?



 みたらし団子の日栄堂
 今出川通りの上七軒から東へ少し行った北側にあるのが、日栄堂です。少し大きめのだんごが柔らかくてもっちり~としてて、焦げ目が香ばしい。タレも絶品なのです。一個一個丁寧に手作りされたおだんごが一串110円はお買い得です。





 妖怪ストリート 大将軍商店街
 一条通りにある大将軍商店街は、平安時代の京都で起こったとされる百鬼夜行(多くの異形の鬼・妖怪たちが夜中に徒党を組んで行進する現象)の通り道だったとされることから、各店舗ではかわいい妖怪たちが出迎えてくれる。
 大徳寺真珠庵所蔵の『百鬼夜行絵巻』では、古道具が変化した妖怪「付喪神(つくもがみ)」が主役になっています。陽気で滑稽で愛らしい姿が描かれています。





 大将軍八神社
 平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の北西角の天門に祭られた方除けの星神・大将軍。商店街の中心にある。
「天地明察」の渋川春海の天球儀なども安置されている。
 













  

2011年01月24日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・清水寺

 音羽山清水寺は、1200余年前、奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創といわれる。奈良の延鎮上人(開山)が、この音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、観音菩薩の化身(開祖・行叡)より霊木を授けられ、それを持って千手観音像を彫作して奉ったのがおこりと伝わる。
 その翌々年、蝦夷征伐で知られる坂上田村麻呂が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねたところ、 延鎮上人に出会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山した。妻室に延鎮の説く清滝の霊験、 観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置したといわれれている。
 「清水寺」の寺名は音羽の滝の清泉にちなみ、以後、古くからの観音霊場として人々の崇敬を集めてきた。もとは興福寺の玄肪が請来した北伝の法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。

 http://www.monzenkai.com/monzen_map.htm  清水寺門前会マップ

 五条坂を上がると左手に大型駐車場(600円)、満車だったら突き当りの右側にタクシー専用駐車場がある。さらに満車の場合は、1時間500円となるが、高台寺の霊山観音の駐車場がある。

 駐車場を降りて突き当たりの角が七味家本舗。創業350年、七味唐がらし創案の店だ。お振る舞いの「からし湯」は、白湯に唐辛子の粉をふりかけたもの。清水寺への参拝客や音羽の滝で修行する行者さんに「身体がぬくもるように」と、無償でだしていたものという。

 栄山堂は、豆乳ドーナッツと豆乳ソフトが人気。お菓子をはじめ、京都限定キャラクターグッズなども多く、若い世代に人気がある。

 清水焼窯元である森陶器店では「陶芸教室」が開設されている。店舗内では、自家の窯で焼き上げた清水焼作品をはじめ、京人形や京みやげが購入できる。
 創作陶芸教室 (1名~300名)所要時間約90分 下絵付け教室(1名~600名)所要時間約40分 075-561-3457

 錦古堂は、古都京都の伝統を受け継いだ京扇子専門舗。女性たちに人気のお店。

 西尾八ッ橋は、京都で一番古い八ッ橋のお店。お茶のサービスがあるほか、店内では三十数種の八ッ橋が試食しほうだい。最近ではソーダやマンゴ、ショコラといったものまであり、種類は豊富だ。八ッ橋は老舗の聖護院八ッ橋、大手の井筒八ッ橋・夕子、おたべ他いくつもの店が乱立している。


 
 参道を登りきると、眼前に石段が広がり、仁王門や西門が現れる。左側に地蔵院善光寺堂があり、脇にはちょこんとまあるいお地蔵さん・首振り地蔵が座している。(2代目、初代は堂の中にある)
 善光寺堂縁先に祀られているこのお地蔵さんは首が離れているため自由に動かせる(360度回転できる)ようになっている。自分が恋い想う人が住む方向に首を振り向け、祈願すると思いが叶うとされている。「回らない人は、体が悪いか、借金で首が回らないのだとか?」



 仁王門(重要文化財)
 室町後期再建。両脇間に阿形・吽形の金剛力士像を安置する三間一戸、入母屋造り、檜皮葺、室町様式の堂々たる楼門(ろうもん)で、昔の丹塗りを淡美に残し「赤門」とよばれている。

 阿吽(あうん)は仏教の呪文(真言)の1つ。梵字において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、それぞれ人間の生まれた瞬間と死ぬ瞬間の姿、宇宙の始まりと終わりを表すとされた。
 狛犬は通常神社にあるが、清水寺の奥に地主神社があるため、門前に狛犬が一対置かれている。 また狛犬は阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の一対の姿なのだが、 ここのはなぜか両方とも口をあんぐりと開けている。「なんで?」(七不思議の一)
「坂を上りきって疲れた参拝者を励ますため、二匹とも爆笑してるのかなあ?」



西門(重要文化財)
 江戸初期の再建。両脇間に持国天・増長天を祀り、優美な三間一戸の八脚門で、丹塗りと極彩色文様が復元されて華麗な桃山様式の美を見せる。 切妻造り、檜皮葺の西門。



 随求堂(ずいぐどう)
 江戸中期再興。塔頭・慈心院の本堂で、衆生の願い・求めにすぐに随って、すべて叶えてくれるという大功徳をもつ随求菩薩(秘仏)が祀られ、毘沙門天と吉祥天を脇侍にする。
 堂下は随求菩薩の胎内に見たてた真っ暗な空間を大数珠をたよりにお詣りする「胎内めぐり」。自分自身の存在を問い直し、新生するのだとか。入場するのに百円必要だが、おもしろくもあるので、ぜひ体験してもらおう。



 三重塔
 一重内部に大日如来を祀り、天井や柱などが密教仏画や飛天・龍と各種文様らの極彩色で荘厳された高さ31㍍弱の日本最大級の三重の塔。四周の壁に真言八祖像が描かれている。
 「大日如来」は真言密教の根本となる仏。宇宙の中心に位置し、その大いなる光ですべてのものを照らすという。塔は宇宙観を表しているのだ。
 「真言八祖像」とは、真言密教の開祖龍猛から龍智・善無畏・一行・金剛智・不空・恵果と我が国に真言密教を伝えた空海までの八祖を八幅(8枚)一組の画像としたもの。東寺の五重塔などにも描かれている。明治維新までは、清水寺は法相宗に真言宗を兼ねていた。その名残がこの三重塔や大日堂に残されている。





 轟門、梟(ふくろう)の手水鉢
 経堂、坂上田村麻呂夫妻、開祖行叡居士、開山延鎮上人が祀られている田村堂を横目に、拝観券を買って、轟門をくぐる。
 本堂への中門である轟門は江戸時代初期のもので、重要文化財。「普門閣」の扁額は月舟禅師の名筆。三間一戸の八脚門、切妻造り、本瓦葺きで、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写している。本殿、奥の院など境内を龍に見立て「龍の口」ともされている。左右両脇間に持国天像と広目天像を祀り、背面には阿・吽形の狛犬を安置する。

 なお、轟門横の龍が水を出している清め水の梟の手水鉢。「なぜ龍なのに、梟(ふくろう)?」「さがしてごらん」
 実は、手水鉢を支える石の四隅が梟の彫像がついた台座になっているから。じゃあ、フクロウと言えば知恵の神様なので、こんな下座に置くのはなんで?これも京都七不思議の一つだ。ちなみに、この水を含んで祈ると歯痛にご利益があると伝わる。

 

本堂前に鉄製の草履や杖があり、大きい杖は約90Kgあるとか!数人で持ち上げようとしてもなかなか持ち上がらない。

 本堂・舞台(国宝)
 清水寺本尊十一面千手観音(秘仏)を祀る正面十一間(約36㍍)、側面九間(約30㍍)、高さ18㍍の仏殿で、優美な起り反り曲線を見せる寄棟造り・檜皮葺の屋根や軒下に吊る蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝える。
 江戸時代初期の再建。「清水の舞台から飛びおりる」の諺(ことわざ)はまさにここ!
 実は、御本尊の観音様に御利益をいただいたお礼に能や踊りを楽しんでもらうため、舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」なのだ。両袖の翼廊は楽舎である。
 清水寺は観音信仰のメッカであり、清水観音への奉納舞は、当代一流の演者が選出された。人生の晴れ舞台を「檜舞台を踏む 」というが、この檜舞台とは まさにこの檜の板間の舞台なのだ。
 また舞台からは、正面に子安の塔、西方に京都タワーもはじめ、京都市街が展望できる。ここも記念撮影に人気のビュースポットだ。

 本堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣・内々陣に三分され、最奥の内々陣の大須弥壇上の三基の厨子(国宝)内に本尊千手観音と脇侍(わきじ)の地蔵菩薩・毘沙門天を祀る。

 御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
 本堂内々陣の厨子内に安置され、33年に一度の御開帳の秘仏のため、変わって人々の願いを受けるお前立ちが据えられている。千手観音の手はあまねく人を救う手。
 普通一般の十一面(顔)四十二臂(ひ・手)千手観音は左右それぞれの手に小さな如来を持つが、ここのは、最上の左右二臂を頭上高く挙げて如来を戴く独特の「清水型」千手観音である。

 二十八部衆と風神、雷神
 千手観音の眷族(けんぞく・従者)で、本堂内々陣の本尊の厨子の左右に分かれて立ち並び、本尊と観音信者(千手観音を信じる善なる者)を、それぞれが500の部下を持って護衛すると伝わる。金網越しに見ることができる。
 向って右端の毘沙門天の厨子の外側に風神が、左端の地蔵菩薩の厨子の外側に雷神が守護する。みな木造・漆箔・彩色像である。三十三間堂の千手千眼観音、眷属たちと比べてみよう!





 仏足石
 轟門をくぐり、回廊をぬけた左手にお釈迦様の足形と霊妙な十一種の文様が彫刻された石があります。足腰の弱い人がこの石を撫で、その手で自分の足腰をさするとよくなるといわれています。
 堂々めぐり筋痕
 仏足石の向かい、裳層(もこし)の窓下長押に深い筋状の痕がみられます。これは昔、お百度やお千度の堂々めぐりをした数取り札の擦り痕で、本堂軒廻りの長押にズーッと刻まれています。





 京都盆地が湖であった時代から不老長寿の霊山「蓬莱の島」として信仰をあつめていたと伝わるほど、古代からここにあるのが地主神社。東隣下の崖には今も「船着き場」の跡が残る。
 因幡の白兎を助けたとして知られる縁むすびの神さま大国主命を主祭神として五柱を奉り、さまざまな願いを叶えてくれると大人気のスポットだ。
 近年、アメリカの原子物理学者・ボースト博士の研究により、 本殿前の「恋占いの石」は縄文時代の遺物であることが証明された。
 また一樹に一重と八重を持つ地主桜は、平安期、嵯峨天皇が行幸したとき、あまりの美しさに三度車を返したといわれ、それより「御車返しの桜」と呼ばれている。

「恋占いの石」は、相手を思いながら、片方の石から片方の石に目をつぶってたどりつくと思いが叶うというもの。人の手を借りると、その恋にも手助けがいるという。











なで大黒 撫でる箇所によって、良縁・受験必勝・安産・商売繁盛・勝運・交通安全とそれぞれのご利益があるのだとか。

おかげ明神は、どんな願い事でも、ひとつだけなら必ず「おかげ」(ご利益)があるという、一願成就の守り神さま。特に女性の守り神として厚い信仰を集めている。 
 また、後方のご神木は「いのり杉」とも呼ばれ、昔には丑の刻まいり(うしのときまいり)のわら人形が打ち付けられていた。現在でもその釘跡が無数に残る。

水かけ地蔵は、長い年月、地主神社の地中で修業をされた、徳の高いお地蔵さま。水をかけて祈願するとご利益がある。

狩野元信筆「天井龍」(重要文化財)は、夜ごと天井を抜け出し、音羽の滝の水を飲むので、竜の目に釘を打ちつけたという伝説で知られている。この竜は、いずれの方角から眺めても自分の方をにらんでいるように見えるところから、「八方にらみの竜」とも呼ばれている。

 

ぬれて観音

 奥之院の東裏、石の玉垣にかこまれた小池中にに祀られる小型の可愛らしい石造観音 。北隣の蓮華水盤で柄杓に水をくみ、肩からかけると、おのれの塵汚すなわち煩悩や罪が洗い流されるという。 見る人によって表情が色々に変化するとか。
 水をかけているときに観音が笑っていたら幸せになれるとの言い伝えもある 。台座には「観世水」とある。





奥の院 
 江戸時代初期、重要文化財。元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝えられている。
 本堂同様に舞台造りになり、本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神を祀る。蟇股(かえるまた)、長押(なげし)など、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残す。
 清水寺開創を起縁する音羽の滝の真上に建ち、昔の真言宗兼学兼宗を伝統して、弘法大師像も奉祀している。

 絵葉書やメディアなどで紹介される清水本堂の定番画像は、この奥の院から撮影したものである。

 毎年12月に日本漢字能力検定協会(ちょっと別の話題にもなりましたが……)が主催する「今年の漢字」が発表され、清水寺の貫主(09年は森清範さん)の揮毫(きもう・筆をふるう)がされるのもこの奥之院だ。 2010は「暑」でしたね。



 音羽の滝
 こんこんと流れる出る清水 、清水寺の寺名はまさにここに由来する。古来「黄金水」「延命水」とよばれ「清め」の水として尊ばれてきた。開祖行叡居士、開山延鎮上人の滝行を伝統して水垢離(みずごり)の行場となり、古くは弁慶や義経も飲んだと伝承される。またお茶の水汲み場となってきた。界隈に住む人は実際にお茶の水に使用しているのだ。
 今日、日本十大名水の筆頭にあげられ、参詣者が列をつくって柄杓に清水を汲み、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意) 清浄(洗い清める)、所願成就を祈る。
 ちなみに、 この三つの筋から流れる音羽の滝だが、よく観光用にそれぞれに御利益があり、三つすべて飲むとその効き目が無くなるとか、健康・学業・縁結びと言われるが 根拠はない。
「どちらにしても水源は一つなので同じ水なんですよ!」





音羽の滝を横目に進むと、舞台が下から見上げれ、舞台造の構造が伺える。
 錦雲渓の急崖に約190平方メートル、総桧板張りの「舞台」を懸造りにして張り出し、最高12メートル強の巨大な欅の柱を立て並べて支えている。
 日本は山だらけ、しかし面の平地化ほど危険なものはない。清水寺のような急斜面では、城郭の石垣でもつくる気にならないと、地面の安定は保てなかった。

 このような場合、日本の建物で使われたのが、清水寺に代表される束石の上に柱を立て、束柱相互を貫で縫うつくりかたである。床下が弾力性のあるラーメン状の架構となり、きわめて強固になるのだ。
 これが「懸造(かけづくり)」と呼ばれる工法である。清水寺の場合、すでに350年以上経過しているが、今なお健在だ。もっとも、束柱の点検・修理は年中行われ、舞台床も頻繁に替えられている。



 アテルイ、モレの碑
 アテルイ、モレは、平安時代朝廷の東北征服戦争に対して頑強に抵抗した「蝦夷(えみし)」の首長と副将である。征夷大将軍の坂ノ上田村麻呂の軍に帰順、将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、朝廷に助命嘆願したが、許容されず両雄は河内の国で処刑されたと伝承される。
 平安建都1200年を期し、鎮魂・顕彰の碑が建立された。



北総門(きたそうもん)江戸時代初期、重要文化財。
 元来は塔頭(たっちゅう)(旧本坊)成就院の正門であった。寛永8~16年(1631~39)間に再建された一間(間口4.12メートル)潜りつきの 薬医門である。
 屋根は切妻造り、本瓦葺きで、鉄製の飾り金具や鉄帯を取り付けた大きな扉を二枚釣りこんでいる。
 東隣に弁天堂が建ち、北裏側に月照・信海兄弟上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が並ぶ。





大河ドラマ「篤姫」では西郷隆盛が清水寺成就院の勤皇派の月照上人と幕府の手を逃れて薩摩に逃げます。
 二人は薩摩藩に逃れたのですが、藩の庇護を受けられませんでした。西郷は薩摩藩で月照をかばいきれぬと悟り、舟で海へ逃れ、錦江湾へ二人して入水します。ところが西郷隆盛は助かりますが、月照上人は亡くなってしまいます。

 この月照上人が西郷隆盛と薩摩に逃れるとき 後のことを清水寺の寺男近藤正慎に託したそうです。正慎は安政の大獄で捉えられ、両人の居所を尋問されました。京都西町奉行所に捕われ厳しい拷問を受けましたが答えず、獄舎の壁に頭を打ちつけ、舌をかみ切って壮絶な獄死。その正慎の妻子に清水寺では永代門前での営業を許したのです。それが「舌切茶屋」です。
 ちなみに正慎は、大河ドラマ「竜馬伝」で山内容堂役でもあった俳優の近藤正臣さんの曾祖父です。近藤正慎の孫、近藤悠三は人間国宝の陶芸家で茶わん坂には記念館があります。

 また月照上人の下僕だった大槻重助と言う人が 月照上人の供をして薩摩へいき、西郷と月照を救助しましたが、西郷は蘇生したのに、月照は助からず、重助は捕らえられ、遺品を携えて帰京しました。半年獄舎につながれましたが放免となりました。
 清水寺では、その忠僕ぶりに感銘し、永代にわたり茶店を営むことを許したのです。重助は「忠僕茶屋」を営みながら、月照上人の墓守をしてきました。

清水坂と高台寺を結ぶ道が産寧坂、二寧坂だ。いわれは諸説あるが、土産物店、陶磁器店、料亭などの観光に欠かせない楽しみがぎっしりと詰まる。 時間があれば、ゆっくり散策したいもの。おみやげなどはほとんど何でも揃う。






















  

2011年01月22日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・金閣寺



 左大文字
 西大路通りを南から上がってくると、左前方に左大文字が見える。金閣寺には左大文字、銀閣寺には大文字がある。五山の送り火の話なども話題のひとつ。
 西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらかな山なみは、北山(ほくざん)の名で一般に親しまれている。衣笠山はかつて「宇多天皇が真夏に雪が見たいといいだして、山に大きな白絹をかぶせた」との伝承が残り、きぬかけ山とも呼ばれる。これも話題のひとつ。



 黒門では北山(ほくざん)殿 鹿苑寺の説明をしよう。「これはなんと読みますか?」
金閣寺の正式名称は、鹿苑寺「ろくおんじ」という。金閣寺は室町幕府三代将軍・足利義満の北山殿という別荘(北山文化の中心となった)を後に寺院としたもの。義満の諡号(しごう・死後に贈られた名前、戒名)が鹿苑院といったことに由来する。
 また、金閣寺は銀閣寺とともに京都五山の一、臨済宗の禅寺・相国寺の塔頭(たっちゅう)である。塔頭とは会社でいえば本社にあたる本山に属する支店みたいなもの。通常は院、庵、軒などで呼ばれることが多い。



 もみじのトンネルを通り参道を進む。西園寺家に由来し、鎌倉期に作られたと伝えられる鐘楼を左に眺め、世界文化遺産の記念碑と金色の案内板を横目に拝観券売り場へ。すでに右上方に金閣寺の天辺、鳳凰が垣間見える。 右手には唐門と方丈がある。時々特別公開している。
 左手の巨木は樹齢700年と言われる櫟樫(イチイガシ)だ。京都府指定の天然記念物に指定されている。櫟(いちい)は一位に通じて、立身出世を願い、公卿たちはこの木で笏(しゃく)を造って常に携えていたという縁起のよい木である



  金閣寺の拝観券は金閣舎利殿と書かれたお札になっている。「ご飯粒のことを銀シャリといったりしますね。これは舎利に似ているところからきています」
 舎利とは釈迦の遺骨のこと。仏舎利とも言い、釈迦(ゴータマシダルダ)入滅の折に何千にも砕かれ、弟子たちによって世界中にもたらされた。金閣寺はその仏舎利を供養する舎利殿である。
 お札は旧家の木造建築では、魔よけに柱などに貼っているのを見かけるが、近代住宅では見かけなくなりましたね。



 いよいよ、衣笠山を借景にした金箔の三層楼閣の舎利殿である金閣とその庭園が眼前に広がってくる。入ってすぐは通路で込み合うので、すぐにも西に移動しよう。
 金閣の建築様式が、伝統的な貴族の寝殿造風と武家が帰依した禅宗寺院の禅宗様を折衷したもので、室町時代における貴族と武士の折衷文化が北山文化だといわれる。
 晴天であれば、鏡湖池(きょうこち)に金閣がきれいに投影される。鏡湖池はその名の通り、金閣を映すためにつくられている。金閣内にいながらにして、楼閣から金閣を眺めることができるように造られた。
 本物と池面に映った二つの金閣を背景に記念撮影をしよう。「二十四割る十二は?」「にっ」といった具合にね。



 この池には、蓬莱山をイメージして、葦原島(あしわらじま)といわれる中島や鶴島、亀島が造られ、幾つもの岩島があり,これらの岩には畠山石、細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられている。 中国・明から運ばせた庭湖石で名石中の名石のため、豊臣秀吉の聚楽第建設の時の名石狩りからも逃れたといわれる九山八海石の名石が配される。
 この配置は西方極楽浄土の様子を表わした「浄土曼荼羅」に描かれた七宝池を模している。義満は蓬莱神仙思想に基づき、自らが船出する西方浄土を築いたのだ。
 ちなみに、浄土(清らかな国土)とは、それぞれの仏が住している聖域、理想的な国土のことである。蓬莱山とはその極楽浄土にある不老不死の仙人たちが住む処であり、理想郷なのだ。



金閣の天辺に据えられた鳳凰(ほうおう)は、西方浄土に住むとされる中国の伝説上の霊鳥で、羽ある生物の王であり、不老不死、再生の象徴とされている。 陰陽道では朱雀(すざく)と同一とされる。 手塚治虫さんの漫画「火の鳥」そのものだ。



順路に沿って、陸舟(おかぶね)の松へ……。
 方丈庭園には、義満が盆栽にしていたという松がある。船の帆と先端を表している。極楽浄土の金閣と鏡湖池に向くこの船は、まさに義満が西方浄土へ旅立つ船であったのだ。
 天竜船の交易で明文化に造詣の深かった義満が、船尾を反らせている中国のジャンクを模倣したといわれる。船尾には舵を模った枝を垂らし、深く沈ませ入船(目的を達した)を現している。
 ちなみに、鹿苑寺の陸舟の松は、善峰寺の游竜の松・大原宝泉院の五葉の松(近江富士)とともに、京都三松と呼ばれている。若い世代には「アニメのワンピースに出てくる海賊船みたいでしょ」と話してあげてもいいかも。



金閣寺に参詣するには、明治初期までは、金一両を払って講の一員になる必要があった。その頃までは、渡り廊下があり、金閣(舎利殿)に渡り廊下より登る事ができた。
 金閣の側面に回りこむと、よりまじかに建築様式がうかがえる。
 鹿苑寺は、応仁の乱の西軍の陣所となったため諸堂を焼失。唯一「金閣」だけが北山文化の遺構であったが、惜しくも昭和25年の夏、学僧の放火によって炎上した。
 この有様は、三島由紀夫の小説「金閣寺」・水上勉の「金閣炎上」によって描かれている。
 昭和30年復元・再建したが、金箔が剥離したため、昭和62年、5倍箔の金箔で漆箔修理完了。10.8㎝四方の金箔が20万枚使われたという。
「だからこんなに金ぴかなんだ」「当時の建築でないのは残念だが、再建されたことによって美しい姿を見れるというメリットもありますよ」
 ちなみに、箔合金1グラムで約3300平方センチの金箔になる。仮に1ミリの幅で延ばし続けたとすると、330メートル、0.1ミリの糸状に延ばしたとするとなんと3.3キロメートルにも延びるのです!
 ちなみに京都五閣とは、金閣、銀閣、西本願寺の飛雲閣、大徳寺塔頭芳春院の呑湖(どんこ)閣、東福寺の伝衣(でんね)閣である。

 現在、殿内に入れないので、内部の写真が掲示されている。

初層 法水院といい藤原時代の寝殿造風 、阿弥陀仏堂として造られた。(法水→仏法が衆生の煩悩を洗い浄(きよ)めることを水に擬して云う)
二層 潮音洞といい鎌倉時代の武家造り仏間風。観音堂(岩屋観音を四天王が護持・天井には飛天が描かれています)。
三層 究竟頂(くっきょうちょう)と呼び禅宗様仏殿風 。唐様の仏間(桟唐戸・花頭窓)。ここに仏舎利(釈尊の遺骨)が安置されている。
 初層の寝殿造の上に二層 の武家造がきている。貴族より武家が上ということだろうか、当時の力関係を表していておもしろい。



 さて、順路に沿って散策しながら金閣をぐるりとまわっていく。こういった庭園を池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)という。江戸時代から流行した。金閣寺の現在の景観は江戸時代における住職・鳳林章承の修復、復興整備によるものである。
 西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい・釣殿)が伺える。貴族や武家の統領たちは舟を浮かべて、四季折々の風景を楽しむ。曲水の宴などの雅を楽しんだ。



ぐるりとまわるとお守りの販売所がある。但し、出口付近の朱印所でも買えるので、混雑しているときは後にまわそう。

 左手に、義満がお茶に使った銀河水、手洗いの厳下水、金閣寺垣を見ながら、鯉魚石、龍門の滝に至る。金閣寺垣は垣根の上部に半割りの竹(玉縁)を掛けているのが特徴で、造形的に格調が高いとされている。
 鯉魚石(りぎょうせき)は、鯉が滝を登ると龍になるといわれる中国黄河の故事「登竜門」にちなんだもの。
 若い世代であれば「ポケットモンスターのコイキングは進化すると何になる?」と聞いてやれば良い。ほとんどが「ギャラドス(龍の化身)」と合唱するはずだ。



 さらに丘を登ると衣笠山を背景にした「安眠沢(あんみんたく)」と呼ばれる池となる。奥に白蛇塚と呼ばれる五輪の石塔がある。実は、鏡湖池や北の一段高い山腹に静かに水を湛える池の安民澤、そこから落ちる滝「龍門瀑」などは、発掘調査から、鎌倉時代の北山第の遺構とみられている。
 元来このあたりは、藤原北家一門で、摂関家に次ぐ精華家の西園寺家の別荘・北山第だった。かつては歴代の上皇・天皇が何度も行幸し盛大な宴遊が催されたという。
 動乱の南北朝時代、西園寺家が衰退し荒廃の一途を辿っていた北山第を河内国の領地と交換する形で譲り受けたのが室町幕府だった。時の権力者、足利義満が譲渡させたものと言っていいだろう。このあたりも当時の公家と武家の力関係を表していておもしろい。
 また、鏡湖池の貯水池となっているが、安民沢の周りは樹林に囲まれ、旱(ひでり)が続いても涸れないため、雨乞いの場となっていたと言われる。
 弁財天(印度の女神)と・白蛇(宇賀神・うがしん・日本の衣食の神)が合体した。白蛇は弁財天をも現している。
 西園寺時代には妙音弁財天(空海直筆画像・現在出町柳にあり)と木像(御苑にあり)を金閣辺に在った妙音堂に安置していた。
 西園寺 家は琵琶(楽器)の総家でもあって、天皇から公家衆に妙音弁財天の前で秘曲を伝授していた。



 安眠沢を少し登ると開けたところから、方丈の大きな屋根越しに金閣が見下ろせる高台に出る。このあたりが金閣の見納めだ。「見返り金閣」とも呼ばれている人気のビュースポットでもある。 
 金閣と対角線上に見上げると茶室・夕佳亭(せっかてい)がある。今は木々が生長してしまって、間を妨げてしまっているのだが、この夕佳亭から、夕日に映える金閣が見下ろせるように造られていたのだ。紅葉や雪のときなどは特にすばらしい光景となる。





 夕佳亭の前に貴人橸(とう)という石の腰掛がある。昔、高貴な人が座られたということで、室町幕府が移設したものだそうだ。いったい誰? 「希望するお嬢さんは記念写真をどうぞ」

 夕佳亭(せっかてい)は、江戸時代,後水尾天皇(ごみずのおてんのう)を迎えるために鹿苑寺住職の鳳林承章が茶人・金森宗和(かなもりそうわ)につくらせた数寄屋造の茶室で「夕」日にはえる金閣が「佳(よ)」いという意味から「夕佳亭」と名付けられた。明治のはじめに焼失し,現在の建物は明治27(1894)年に再建されたものだ。

 茶室の南天の床柱や萩の違棚が有名で,亭の前にある石燈籠と富士形の手水鉢は,室町幕府八代将軍足利義政が愛用したものと伝えられている。茶室の降り口に南天の木が植えられているので参考にするといい。
 ちなみに南天は難転(なんを逃れる)のごろあわせだと言われる。



 不動堂は、安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)が再建したもので、金閣寺の境内に現存する最も古い建物である。本尊の石不動明王は弘法大使作と伝わり、首から上の病に効くと言われている。現在は秘仏だが,2月の節分と,大文字の送り火が行われる8月16日には開扉法要(かいひほうよう)が営まれている。



 境内を出たら、「よーじや」にもよってみよう。もちろん哲学の道(かくれや的で割烹も併設)や清水の二年坂、麩屋町三条(よーじやカフェ)、祇園花見小路にもあるので工程の中で一ヶ所考えればいいだろう。

 舞妓さんたちが愛用しているという「あぶらとり紙」は、金閣を初め、寺社仏閣で使われる金箔製造の副産物である。金地金を叩き広げる際、地金を挟むために用いられる箔打ち紙が、皮脂もよく吸収することから転用されるようになったのだ。
 ちなみに「よーじや」さんのユニークなマークは手鏡をモチーフにしている。