2010年07月17日
粽(ちまき)は食べれません
祇園祭のちまきは、食べ物ではありません。通常は、ササの葉をイ草で巻き、束にして作られます。授かったちまきは、家の門口につるしておき、翌年の祇園祭で新しいちまきと取り替えるまでの1年間、厄除け・災難除けとなります。
八坂神社(かつての祇園社)の祭神・牛頭天王は、一夜の宿を求めた際、裕福な兄の巨旦(こたん)には断られましたが、その弟の貧しい蘇民将来には温かなもてなしを受ました。やがて行疫神となった牛頭天王は巨旦の国を疫病で滅ぼしてしまったのです。しかし、蘇民将来の子孫は疫害から免れると約束し、疫病を防ぐ方法として「茅(ち)の輪」を付けさせたのが始まりと言われます。
その後「茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのではとされています。 このため、粽には必ず「蘇民将来之子孫也」との札が添えられているのです。

黒主山の厄除けの粽には桜の造花がついていますが、これは昨年、山と一緒に巡行した桜の花だそうです。この桜を玄関に挿すと悪事除け、泥棒除けになると言われています。
八坂神社(かつての祇園社)の祭神・牛頭天王は、一夜の宿を求めた際、裕福な兄の巨旦(こたん)には断られましたが、その弟の貧しい蘇民将来には温かなもてなしを受ました。やがて行疫神となった牛頭天王は巨旦の国を疫病で滅ぼしてしまったのです。しかし、蘇民将来の子孫は疫害から免れると約束し、疫病を防ぐ方法として「茅(ち)の輪」を付けさせたのが始まりと言われます。
その後「茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのではとされています。 このため、粽には必ず「蘇民将来之子孫也」との札が添えられているのです。
黒主山の厄除けの粽には桜の造花がついていますが、これは昨年、山と一緒に巡行した桜の花だそうです。この桜を玄関に挿すと悪事除け、泥棒除けになると言われています。
2010年07月15日
左甚五郎作のご神体 鯉と鳩
今年も祇園祭の山鉾を見学にぶらりと来てしまいました。結構好きな蜻蛉山ではこんなかわいいかまきりのくじ引きもやっていました。もちろんこれはご神体ではないですよ。

鯉山は中国黄河の難所である龍門の滝を登り切って龍となった鯉が出世開運の神として奉られたという中国の故事(登龍門)にちなんで作られた山です。朱塗鳥居を全面においたたて山で,奥には朱塗の小祠(ほこら)を安置,そこに素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っています。
御神体の鯉は全長1メートル50に及ぶ木彫の見事なもので名工・左甚五郎作と伝えられています。滝を上る鯉の山だけあって、欄縁その他の金具は全て波濤文様です。鯉山では立身出世のお守りが授与されます。


初めて天下統一を果たした太閤秀吉が、入洛の時には常宿としていた新町三条の伊藤道光邸。その伊藤邸は、三條町(当時は伊藤町と呼称)に在りました。その三條町の町衆が、何百年もの間、護り引き継いで来たのが八幡山です。お社(小祠)の中には、運慶の彫り物である、応神(おうじん)天皇騎馬像が拝してあります。
左甚五郎作と伝えられる雌雄一対の鳩は、夫婦和合のしるしとして今日まで信仰を集めてきました。この鳩一対も巡行の時には鳥居の上に載せられます。


鯉山は中国黄河の難所である龍門の滝を登り切って龍となった鯉が出世開運の神として奉られたという中国の故事(登龍門)にちなんで作られた山です。朱塗鳥居を全面においたたて山で,奥には朱塗の小祠(ほこら)を安置,そこに素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っています。
御神体の鯉は全長1メートル50に及ぶ木彫の見事なもので名工・左甚五郎作と伝えられています。滝を上る鯉の山だけあって、欄縁その他の金具は全て波濤文様です。鯉山では立身出世のお守りが授与されます。
初めて天下統一を果たした太閤秀吉が、入洛の時には常宿としていた新町三条の伊藤道光邸。その伊藤邸は、三條町(当時は伊藤町と呼称)に在りました。その三條町の町衆が、何百年もの間、護り引き継いで来たのが八幡山です。お社(小祠)の中には、運慶の彫り物である、応神(おうじん)天皇騎馬像が拝してあります。
左甚五郎作と伝えられる雌雄一対の鳩は、夫婦和合のしるしとして今日まで信仰を集めてきました。この鳩一対も巡行の時には鳥居の上に載せられます。
2008年07月16日
祇園祭の胡瓜絶ち
祇園祭が終わるまで、氏子さんたちは、胡瓜(キュウリ)を食べないと言います。八坂神社の神紋がキュウリの輪切りに似ているからだそうです。お祀りしている神社の紋を食べるのは失礼だということのようでございます。また旬のものを断って、祭典に精進するという意味があるとも言われています。

この木瓜紋(もっこうもん)とよばれる紋、たしかにキュウリの断面に似ております。そういえば、徳川ゆかりの人たちも、葵の紋ににているとのことで、キュウリを食べなかったといいますね。またキュウリといえば厄を封じこめる力があると信じられていたことも関係あるのかも? やはり、当時の人々の神仏に対する信仰は、現代よりもずっと厚かったようでございます。
八坂神社のもう一つの紋章は、渦巻く水をかたどったといわれる三つ巴。八坂神社、かつての祇園社は、やはり水とかかわりがある神社なのが、ここでも分かります。全国各地にある祇園神社は、木瓜紋と三つ巴の二つを掲げているといいます。
特に水源の近くや川筋の集落では、梅雨どきの増水事態が危険でしたし、洪水のあとは、決まって疫病が蔓延していたのでございます。祇園祭は、元々、これらの厄除けの御霊会。この洪水や疫病から、町を救いたいということへの祈りが、かつての祇園社の祭神に反映しているのではないでしょうか。厄を祓い災難を除く神=インドの祇園精舎の守護神の牛頭天王でございます。

さてこの五木瓜(いつつもっこう)は、別名織田木瓜(おだもっこう)とも呼ばれ、織田信長(織田家)の家紋でもございます。五木瓜は何故、織田家の家紋と一緒なのかは、諸説ございます。八坂神社はもともと、比叡山(山門)の末社。元亀二年(1571)、信長が比叡山を焼き討ちした際、時の都に権力の象徴として織田家の家紋を八坂神社の紋として残したのでは? 天正の頃、信長が京都感神院の祇園に神輿を新しく寄進した際、織田家の家紋である木瓜を金で彫刻して神輿に付けたことから、木瓜が祇園の神紋になった?
いずれにしましても、織田信長は、牛頭天王を厚く信心していたと云われています。

この木瓜紋(もっこうもん)とよばれる紋、たしかにキュウリの断面に似ております。そういえば、徳川ゆかりの人たちも、葵の紋ににているとのことで、キュウリを食べなかったといいますね。またキュウリといえば厄を封じこめる力があると信じられていたことも関係あるのかも? やはり、当時の人々の神仏に対する信仰は、現代よりもずっと厚かったようでございます。
八坂神社のもう一つの紋章は、渦巻く水をかたどったといわれる三つ巴。八坂神社、かつての祇園社は、やはり水とかかわりがある神社なのが、ここでも分かります。全国各地にある祇園神社は、木瓜紋と三つ巴の二つを掲げているといいます。
特に水源の近くや川筋の集落では、梅雨どきの増水事態が危険でしたし、洪水のあとは、決まって疫病が蔓延していたのでございます。祇園祭は、元々、これらの厄除けの御霊会。この洪水や疫病から、町を救いたいということへの祈りが、かつての祇園社の祭神に反映しているのではないでしょうか。厄を祓い災難を除く神=インドの祇園精舎の守護神の牛頭天王でございます。

さてこの五木瓜(いつつもっこう)は、別名織田木瓜(おだもっこう)とも呼ばれ、織田信長(織田家)の家紋でもございます。五木瓜は何故、織田家の家紋と一緒なのかは、諸説ございます。八坂神社はもともと、比叡山(山門)の末社。元亀二年(1571)、信長が比叡山を焼き討ちした際、時の都に権力の象徴として織田家の家紋を八坂神社の紋として残したのでは? 天正の頃、信長が京都感神院の祇園に神輿を新しく寄進した際、織田家の家紋である木瓜を金で彫刻して神輿に付けたことから、木瓜が祇園の神紋になった?
いずれにしましても、織田信長は、牛頭天王を厚く信心していたと云われています。
2008年07月15日
祗園の御祭神
祇園祭は、八坂神社をはじめ氏子区域一帯で、7月1日の「吉符入」から31日の「疫神社夏越祭」までの1カ月間、様々な神事や行事が執り行われます。
さてこの祇園祭で行われる神輿渡御、神輿洗式、宵宮祭で 御神霊をうつした神輿が、山鉾巡行のある17日夕刻八坂神社を出発し、鴨川以東や河原町などを巡り、四条寺町の御旅所に入ります。花傘巡行の行われる24日まで鎮座され、今度は寺町通以西の区域をまわり、夜半に八坂神社に戻るのでございます。

ところで、この御祭神、現在は、中御座・素戔嗚尊(スサノヲノミコト) 、東御座 ・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト) 、西御座・八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) となっております。
明治以前の御祭神はというと、中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ) 、東の座 -- 沙竭羅竜王(サガラリュウオウ) 、西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ)でございました。 牛頭天王は仏教の守護神で、日本では素戔嗚尊と同神とされており、頗梨采女はその妻で、沙竭羅竜王は頗梨采女の父。牛頭天王は祇園精舎を守護するとされていたと申します。

何で変わっちゃったの……?
医療技術が極めて乏しかった昔、疫病などは、政争で追われた人などの怨霊の仕業と考えられておりました。それに打ち勝つ強い霊力を持つとされた牛頭天王に対する信仰が、平安時代末期から中世にかけて、爆発的に広まったのでございます。そして、当時の人々にとって、牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれ、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことでした。
京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如と云う僧が、播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政・藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て、祇園社と呼んだのに始まると申します。天禄元年、悪疫を鎮めるために祇園御霊会が始まったのでございます。

京都アスニー陶板より
ところが、近世に入ると、国学者や神道家が現れます。神道こそ絶対で、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、スサノオ神と習合している牛頭天王は困った存在でした。しかも当時は、延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていたのでございます。さらに「てんのう」と称することは「天皇」に対する不敬とされました。
やがて明治になると、明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対し、祭神をスサノオ神に変えるか、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めます。京都の祇園社も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更したのでございます。
これらの変更の際の大儀名分として、当時の国学者たちは「これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、信長が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称したのだ。元から牛頭天王を祀っていたのではない」と「牛頭天王信長対策説」を唱えたのでございます。しかし、明治以前の人々にとって、牛頭天王は最も信仰厚き御祭神だったと申します。
ちなみに、牛頭天王は、七尺五寸(約2m25cm)「頂きに三尺の牛頭があり、三尺の赤角があった」と、祇園牛頭天王縁起は説明しています。
さてこの祇園祭で行われる神輿渡御、神輿洗式、宵宮祭で 御神霊をうつした神輿が、山鉾巡行のある17日夕刻八坂神社を出発し、鴨川以東や河原町などを巡り、四条寺町の御旅所に入ります。花傘巡行の行われる24日まで鎮座され、今度は寺町通以西の区域をまわり、夜半に八坂神社に戻るのでございます。

ところで、この御祭神、現在は、中御座・素戔嗚尊(スサノヲノミコト) 、東御座 ・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト) 、西御座・八柱御子神(ヤハシラノミコガミ) となっております。
明治以前の御祭神はというと、中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ) 、東の座 -- 沙竭羅竜王(サガラリュウオウ) 、西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ)でございました。 牛頭天王は仏教の守護神で、日本では素戔嗚尊と同神とされており、頗梨采女はその妻で、沙竭羅竜王は頗梨采女の父。牛頭天王は祇園精舎を守護するとされていたと申します。

何で変わっちゃったの……?
医療技術が極めて乏しかった昔、疫病などは、政争で追われた人などの怨霊の仕業と考えられておりました。それに打ち勝つ強い霊力を持つとされた牛頭天王に対する信仰が、平安時代末期から中世にかけて、爆発的に広まったのでございます。そして、当時の人々にとって、牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれ、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことでした。
京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如と云う僧が、播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政・藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て、祇園社と呼んだのに始まると申します。天禄元年、悪疫を鎮めるために祇園御霊会が始まったのでございます。

京都アスニー陶板より
ところが、近世に入ると、国学者や神道家が現れます。神道こそ絶対で、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、スサノオ神と習合している牛頭天王は困った存在でした。しかも当時は、延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていたのでございます。さらに「てんのう」と称することは「天皇」に対する不敬とされました。
やがて明治になると、明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対し、祭神をスサノオ神に変えるか、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めます。京都の祇園社も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更したのでございます。
これらの変更の際の大儀名分として、当時の国学者たちは「これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、信長が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称したのだ。元から牛頭天王を祀っていたのではない」と「牛頭天王信長対策説」を唱えたのでございます。しかし、明治以前の人々にとって、牛頭天王は最も信仰厚き御祭神だったと申します。
ちなみに、牛頭天王は、七尺五寸(約2m25cm)「頂きに三尺の牛頭があり、三尺の赤角があった」と、祇園牛頭天王縁起は説明しています。
2008年07月14日
いちばんえらいお稚児さん?
山鉾が出揃いましたね。

上久世の綾戸国中(あやとくなか)神社からやってくる久世駒形稚児は、神幸祭と還幸祭の神輿渡御で、素戔嗚尊を祀る神輿の中御座の行列に伴って廻る稚児でございます。
八坂神社のご祭神が、素戔嗚尊の和御魂(にぎみたま・神の優しい側面)で、遠く離れた上久世の綾戸国中神社の祭神が、八坂神社と同一神の荒御魂(あらみたま・同じ神の荒々しい側面)といわれております。八坂神社の和御魂に綾戸国中神社の荒御魂が来て、両者が合体してはじめて祇園祭が成立するため、実は最も重要な役割を担ってきました。

綾戸国中神社の御神体馬の首の形を模した「駒形」、駒形稚児は胸にその形代をかけますので、稚児は神の化身、神そのものでございます。「皇族下乗」といい、五位の位のある長刀鉾稚児や皇族でも乗り物から降りなければならない八坂神社の境内にも馬に乗ったままで入れ、直接本殿に乗り付けることができたと申します。それほど久世稚児は格式が高い、いちばん偉かったのでございます。

神幸祭、還幸祭では、騎馬で三基の神輿の先導役を務めます。祇園祭はやはり、神事でありました。
ところで、この中御座に奉られる素戔嗚尊、明治以前は、牛頭天王でありました。維新以後の皇国史観、諸般の情勢で、牛頭天皇が切り替えられて参ります。そのお話は、また次回……。

上久世の綾戸国中(あやとくなか)神社からやってくる久世駒形稚児は、神幸祭と還幸祭の神輿渡御で、素戔嗚尊を祀る神輿の中御座の行列に伴って廻る稚児でございます。
八坂神社のご祭神が、素戔嗚尊の和御魂(にぎみたま・神の優しい側面)で、遠く離れた上久世の綾戸国中神社の祭神が、八坂神社と同一神の荒御魂(あらみたま・同じ神の荒々しい側面)といわれております。八坂神社の和御魂に綾戸国中神社の荒御魂が来て、両者が合体してはじめて祇園祭が成立するため、実は最も重要な役割を担ってきました。

綾戸国中神社の御神体馬の首の形を模した「駒形」、駒形稚児は胸にその形代をかけますので、稚児は神の化身、神そのものでございます。「皇族下乗」といい、五位の位のある長刀鉾稚児や皇族でも乗り物から降りなければならない八坂神社の境内にも馬に乗ったままで入れ、直接本殿に乗り付けることができたと申します。それほど久世稚児は格式が高い、いちばん偉かったのでございます。

神幸祭、還幸祭では、騎馬で三基の神輿の先導役を務めます。祇園祭はやはり、神事でありました。
ところで、この中御座に奉られる素戔嗚尊、明治以前は、牛頭天王でありました。維新以後の皇国史観、諸般の情勢で、牛頭天皇が切り替えられて参ります。そのお話は、また次回……。
2008年07月06日
冬の祗園祭
こんこんちきちん、こんちきちん、私にはどうしてもキントンシャン、テットンシャンとしか聞こえないのですが……、京では祗園祭が幕を開け、新町、室町、烏丸あたりでは、二階囃子が聞かれる様になってきましたね。

これから七月の終わりまで、様々な行事が繰り広げられます。さてこの祗園祭、元来は祗園御霊会と呼ばれていました。平安初期の貞観十一(869)年に疫病が流行した時、疫神(御霊)の退散を祈願して、当時の国の数にちなんだ66本の矛を立て、神輿を神泉苑に届け、御霊会という疫病退散の祈願を行ったことが始まりとされています。
旧暦の六月、現在のこの時期に行われるようになったのですが、戦国時代には、式日が安定せず、旧暦の十一月や十二月といった冬に行われることもしばしばあったとか。
大永三年(1523)、五年、天文元年(1532)、四年、七年、十八年、弘治三年(1557)、永禄元年(1558)、三年、十年、元亀二年(1571)と、記録にあるだけでも、これだけの年が、冬の祇園祭でした。
理由はといえば、祗園社(現在の八坂神社)は、実は当時、山門と呼ばれて権威を振るっていた比叡山延暦寺、当時は神仏習合でしたから、山内に日吉大社があり、その末社でした。戦国の状況でさまざまな事由の中、本社の祭が延期されているのに、祗園社の祭が、行われるなどけしからん(山門として申し入る)という、延暦寺からの圧力でした。

当時、延暦寺の三塔(東塔、西塔、横川)による大衆(僧兵)は、時の大名をも凌ぐ軍事力を有しており、武力を背景に、室町幕府に強訴したり、祗園社や京の町衆に圧力をかけることもしばしばでした。元亀二年の秋に、織田信長によって、延暦寺と日吉大社が焼討ちされたことにより、山門の武装も解かれ、冬の祗園祭も、この年で最後となります。以後、今日のように式日が安定していくのです。(河内将芳著・祇園祭と戦国京都)
天文元年の時には、雪の舞う中を、神輿が祗園社から御旅所へ渡ったといいます。それも見てみたかったなあ。

これから七月の終わりまで、様々な行事が繰り広げられます。さてこの祗園祭、元来は祗園御霊会と呼ばれていました。平安初期の貞観十一(869)年に疫病が流行した時、疫神(御霊)の退散を祈願して、当時の国の数にちなんだ66本の矛を立て、神輿を神泉苑に届け、御霊会という疫病退散の祈願を行ったことが始まりとされています。
旧暦の六月、現在のこの時期に行われるようになったのですが、戦国時代には、式日が安定せず、旧暦の十一月や十二月といった冬に行われることもしばしばあったとか。
大永三年(1523)、五年、天文元年(1532)、四年、七年、十八年、弘治三年(1557)、永禄元年(1558)、三年、十年、元亀二年(1571)と、記録にあるだけでも、これだけの年が、冬の祇園祭でした。
理由はといえば、祗園社(現在の八坂神社)は、実は当時、山門と呼ばれて権威を振るっていた比叡山延暦寺、当時は神仏習合でしたから、山内に日吉大社があり、その末社でした。戦国の状況でさまざまな事由の中、本社の祭が延期されているのに、祗園社の祭が、行われるなどけしからん(山門として申し入る)という、延暦寺からの圧力でした。

当時、延暦寺の三塔(東塔、西塔、横川)による大衆(僧兵)は、時の大名をも凌ぐ軍事力を有しており、武力を背景に、室町幕府に強訴したり、祗園社や京の町衆に圧力をかけることもしばしばでした。元亀二年の秋に、織田信長によって、延暦寺と日吉大社が焼討ちされたことにより、山門の武装も解かれ、冬の祗園祭も、この年で最後となります。以後、今日のように式日が安定していくのです。(河内将芳著・祇園祭と戦国京都)
天文元年の時には、雪の舞う中を、神輿が祗園社から御旅所へ渡ったといいます。それも見てみたかったなあ。