2008年01月31日
夜桜の名所
平野神社の歴史は古く、延暦十三年(794年)平安遷都と同時に建立されたと申します。当初境内地は方八町余(平安尺で1.5キロメートル四方)で、現在の京都御所とほぼ同じでしたが、時の変遷と共に現在の200m弱四方となりました。江戸時代の初期にはすでに「平野の夜桜」として全国に知られ、特に珍種が多く現在も約50種約400本の桜が植栽されています。
京都の花見の季節のおとずれをしらせる魁桜花。白色の一重で、葉が茂ると 同時に開花し、目の覚めるような風情の寝覚桜。淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるかのごとき胡蝶桜。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添う平野妹背桜。他にも虎の尾、御衣黄、手弱女、松月と見ごたえがございます。

昔の平野社は今とずいぶんと様子がちがったようで、平野神社社頭絵図には、三重塔の姿もみられます。
京都の花見の季節のおとずれをしらせる魁桜花。白色の一重で、葉が茂ると 同時に開花し、目の覚めるような風情の寝覚桜。淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるかのごとき胡蝶桜。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添う平野妹背桜。他にも虎の尾、御衣黄、手弱女、松月と見ごたえがございます。

昔の平野社は今とずいぶんと様子がちがったようで、平野神社社頭絵図には、三重塔の姿もみられます。

2008年01月29日
旧二条城
十三代・足利義輝の宮殿は、「・・・武衛斯波氏の邸宅跡地に立てられ、北は近衛大路(現在の出水通)、南は椹木町通南、東は烏丸通を越え、西は室町通四方に広がっていた。北に隣接して馬場が造られ、多数のものが競馬見物に集まるほどで、御殿は、堀や石垣に囲まれ、主殿(常御所)をはじめ、対面所、小座敷、御末などがあり、茶湯所、風呂、蔵、雑舎、庭などもあった・・・」(本文 時代編)といいます。その宮殿について、ルイス・フロイスはこう記しています。「・・・公方様が住んでいた宮殿は、上京の二条、すなわち第二の通りという名称の地に建てられていた。・・・それはきわめて清潔で、親しみが持て、また快適なものであった。まどの外には、杉、松、密柑、その他我らヨーロッパ人には知られていない種類の、新鮮な緑色の珍しい樹木が植えられた庭園があったが、それはいとも巧妙に育成され手入れされていて、あるいは鐘、あるいは塔、その他種々形で、多くの百合、バラ、雛菊、および種々の色彩の花もあった。人々はそれらを静養と慰安のために植えているのである。・・・厩はいとも上等な材木で造られ、上等な敷物が置かれていて、身分の高い諸侯をそこへ通すこともできるほどであった。・・・」(完訳フロイス日本史・中公文庫)。永禄の変で焼失するのですが、十五代・義昭を奉じて入洛を果たした織田信長によって、同じ場所に義昭のための二条城が建設をされます。現在その跡地は、平安女学院となっております。


義昭の二条御所建設には、「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、頭に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた。・・・」といいまた、みずから「信長はかんなを手にして作業を指図した・・・」といいます。また建築中「建築を見物しようと望むものは、男も女もすべて草履をぬぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。・・・少なくとも二・三年はかかると思われたものを、彼はほとんど七十日間で完成した・・・」といいます。(完訳・フロイス日本史 中公文庫)京都御所の椹木町口にはその旧二条城の石垣の一部といわれる遺構がございます。



義昭の二条御所建設には、「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、頭に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた。・・・」といいまた、みずから「信長はかんなを手にして作業を指図した・・・」といいます。また建築中「建築を見物しようと望むものは、男も女もすべて草履をぬぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。・・・少なくとも二・三年はかかると思われたものを、彼はほとんど七十日間で完成した・・・」といいます。(完訳・フロイス日本史 中公文庫)京都御所の椹木町口にはその旧二条城の石垣の一部といわれる遺構がございます。

2008年01月27日
雪景色
京も久しぶりに雪に見舞われましたね。 加茂川の上流、北区上賀茂の由緒ある京都最古級の上賀茂神社、正式には山城一ノ宮・賀茂別雷(かもわけいかずち)神社という。本殿・権殿は国宝、ご社殿は世界文化遺産で、伊勢神宮に次ぐ社格をもつといいます。そのご社殿も雪に覆われていました。

・・・寛永十四年(一六三七)の冬、京、「東に比叡山、西に愛宕山、昔、都大路を包むこの山々が高さ比べをしたそうな、怒った比叡山が愛宕山の頭をボコっとなぐってこぶができたんや。そのこぶの分だけ愛宕山が高いいうえ」「ふ~ん、てて様はなんでも知ってはる、ほんに物しりやなあ」と仁右衛門の話す京の言い伝えをうなづきながら聞く、お玉・十歳、その比叡山と愛宕山にも白雪が彩る季節となっていた。その日は、青物売りの父・仁右衛門と一緒に上賀茂や鷹峯といったところから仕入れた野菜を大八車に乗せて、振り売り(行商)のため洛中に向かっていた。このほかにも南は東寺の周辺や大原野あたりなどから今で言う京野菜を仕入れ、西陣や御所の周辺で公家の家人や武家屋敷の台所に売り歩いたり、堀川のほとりの自宅である小さな町家の前の通りに並べて売りさばいたりするのが父、仁右衛門の仕事である。・・・(本文 時代編)

・・・寛永十四年(一六三七)の冬、京、「東に比叡山、西に愛宕山、昔、都大路を包むこの山々が高さ比べをしたそうな、怒った比叡山が愛宕山の頭をボコっとなぐってこぶができたんや。そのこぶの分だけ愛宕山が高いいうえ」「ふ~ん、てて様はなんでも知ってはる、ほんに物しりやなあ」と仁右衛門の話す京の言い伝えをうなづきながら聞く、お玉・十歳、その比叡山と愛宕山にも白雪が彩る季節となっていた。その日は、青物売りの父・仁右衛門と一緒に上賀茂や鷹峯といったところから仕入れた野菜を大八車に乗せて、振り売り(行商)のため洛中に向かっていた。このほかにも南は東寺の周辺や大原野あたりなどから今で言う京野菜を仕入れ、西陣や御所の周辺で公家の家人や武家屋敷の台所に売り歩いたり、堀川のほとりの自宅である小さな町家の前の通りに並べて売りさばいたりするのが父、仁右衛門の仕事である。・・・(本文 時代編)

2008年01月26日
見たことありませんか?
京都御所の北門にあたる今出川御門を北上すると、そこに相国寺があります。臨済宗相国寺派の総本山。かの有名な金閣寺も銀閣寺も実はこの相国寺の山外塔頭(たっちゅう)だって知ってました。禁裏や足利将軍とえにし深き歴史あるお寺でございます。この風景、どこかで見たことありませんか?相国寺境内は電線が地中に埋めてあるので、よく時代劇の撮影に使われます。暴れん坊将軍の松平健さんがちゃんばらをしながら、かけおりたりしたのもここなのです。
さて中世の京都は災害や盗賊などの災難に遭う可能性が高く、朝廷や幕府も土倉のような金融業者や石垣や堀などで防御に優れた寺院に資産を預けてリスクを回避しておりました。室町幕府は花の御所に隣接する足利将軍家の菩提寺・相国寺の倉庫の1つに自前の倉庫を保持していたのでございます。

ガラシャが生誕した頃の京の都の政情は、足利政権の前途に陰りが見え始め、凋落が避けられぬものとなってくるなか、まさに混乱のるつぼと化してございました。細川晴元、細川氏綱、三好長慶ら都を押さえた実力者たちとの抗争で、十二代将軍足利義晴とその子・義輝親子も、何度も近江坂本や朽木あたりへの亡命を余儀なくされるありさまであったと申します。そしてとうとう永禄8年5月19日(1565年6月17日)三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され、将軍暗殺という事態にまで及ぶのでございます。世に言う永禄の変(えいろくのへん)でありました。

義輝について宣教師ルイス・フロイスは、「公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀を手にし、まずそれで戦い始めたが・・・」と当時の様子を語っています。「・・・叛逆者たちは、宮殿が焼けるに先立って、すべての家屋を略奪した。その二時間ほどを経、相国寺という僧院の僧侶たちが訪れ、公方様の遺骸を上京にもたらし、葬儀を催すこととなった。三好殿はあらゆるものを焼き尽くし、宮殿の一部たりとも残すことがないようにと命じた・・・」(完訳・ルイスフロイス日本史 中公文庫)
さて中世の京都は災害や盗賊などの災難に遭う可能性が高く、朝廷や幕府も土倉のような金融業者や石垣や堀などで防御に優れた寺院に資産を預けてリスクを回避しておりました。室町幕府は花の御所に隣接する足利将軍家の菩提寺・相国寺の倉庫の1つに自前の倉庫を保持していたのでございます。

ガラシャが生誕した頃の京の都の政情は、足利政権の前途に陰りが見え始め、凋落が避けられぬものとなってくるなか、まさに混乱のるつぼと化してございました。細川晴元、細川氏綱、三好長慶ら都を押さえた実力者たちとの抗争で、十二代将軍足利義晴とその子・義輝親子も、何度も近江坂本や朽木あたりへの亡命を余儀なくされるありさまであったと申します。そしてとうとう永禄8年5月19日(1565年6月17日)三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され、将軍暗殺という事態にまで及ぶのでございます。世に言う永禄の変(えいろくのへん)でありました。

義輝について宣教師ルイス・フロイスは、「公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀を手にし、まずそれで戦い始めたが・・・」と当時の様子を語っています。「・・・叛逆者たちは、宮殿が焼けるに先立って、すべての家屋を略奪した。その二時間ほどを経、相国寺という僧院の僧侶たちが訪れ、公方様の遺骸を上京にもたらし、葬儀を催すこととなった。三好殿はあらゆるものを焼き尽くし、宮殿の一部たりとも残すことがないようにと命じた・・・」(完訳・ルイスフロイス日本史 中公文庫)
2008年01月23日
謎の大がめ?紋屋図子(紋屋町通り)
西陣紋屋町通り、智恵光院通りを今出川から少しあがって、かつて源義経が奥州への旅立ちの安全を祈願したという首途八幡宮を横目にさらに上がると「やけずの寺」「夜鳴き止めの松」で知られる本隆寺、その向かい側の路地から大宮通りへ抜ける通りがそれでございます。さて三上家路地という昔の職人長屋がありまして、現在は普通の住居となっているのですが、その景観から時代劇やドラマの撮影によく使われます。真ん中の陶芸教室の前にある大がめがこれ。先日放映の京の芸妓を描いたドラマで井上真央ちゃんが出てきたのもこれだし、京都新迷宮案内のスペシャルで橋爪功さんや杉田ひろ子さんがひじをついたりしたのもこの大がめであります。はてさていつの時代のものでしょうか?

西陣は、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)を可能にし、朝廷からも認められ、のちには秀吉などによる保護を受けたと申します。江戸時代になって、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し、大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していたんだそうでございます。・・・・着物パレードの後、二人は紋屋町通りにやってきた。かつては御寮織物司といわれた井関家をはじめとする六家があり、織物業が最も盛んだったという。最近では、機織の音はあまり聞こえない。六家で唯一、職人長屋町家の路地が現存するのが三上家で、現在はそこに若手アーティストたちが住み着いていたり、蜂蜜屋さんがあったりする・・・(本文 現代編)

・・・「とんとんからり、とんからり」と騒がしいほどの機織の音が、町家の立ち並ぶ狭い路地の両側から一定の拍子を刻んでこだまする。「てて様、なんやうるさおすなあ」「このあたりはな、機織の中心やしなあ、ようけの織屋はんがおますやろ」二人は紋屋図子にさしかかる。コ型に並んだ家々、ところどころに革製の御寮織物司とかかれた標識が掲げられている。路地の奥でもっとも立派な町家からでてきた番頭を呼び止める仁右衛門。「あっすんまへん、井関様んとこの番頭はんですなあ」・・・「この通りはなあ、先先代の井関七右衛門宗麟様がこのどんつきの家を買い取って、通りが抜けたゆうえ。そやさかいその屋号から紋屋図子いうんやな。お内裏様やら宮様がたのお召し物をつくってるんえ」(本文 時代編)


西陣は、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)を可能にし、朝廷からも認められ、のちには秀吉などによる保護を受けたと申します。江戸時代になって、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し、大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していたんだそうでございます。・・・・着物パレードの後、二人は紋屋町通りにやってきた。かつては御寮織物司といわれた井関家をはじめとする六家があり、織物業が最も盛んだったという。最近では、機織の音はあまり聞こえない。六家で唯一、職人長屋町家の路地が現存するのが三上家で、現在はそこに若手アーティストたちが住み着いていたり、蜂蜜屋さんがあったりする・・・(本文 現代編)

・・・「とんとんからり、とんからり」と騒がしいほどの機織の音が、町家の立ち並ぶ狭い路地の両側から一定の拍子を刻んでこだまする。「てて様、なんやうるさおすなあ」「このあたりはな、機織の中心やしなあ、ようけの織屋はんがおますやろ」二人は紋屋図子にさしかかる。コ型に並んだ家々、ところどころに革製の御寮織物司とかかれた標識が掲げられている。路地の奥でもっとも立派な町家からでてきた番頭を呼び止める仁右衛門。「あっすんまへん、井関様んとこの番頭はんですなあ」・・・「この通りはなあ、先先代の井関七右衛門宗麟様がこのどんつきの家を買い取って、通りが抜けたゆうえ。そやさかいその屋号から紋屋図子いうんやな。お内裏様やら宮様がたのお召し物をつくってるんえ」(本文 時代編)

2008年01月20日
わたしゃお多福・・・
仁和寺は宇多天皇の退位後の御所として以来、御室(おむろ)と呼ばれております。「わたしゃお多福、御室の桜、鼻が低ても人が好く」と川柳にも詠われたくらい有名な御室桜が桜の季節の最後を彩ります。真言宗御室派の総本山として名高い仁和寺は、応仁の乱で伽藍が全焼し、一時衰退していましたが、寛永期に徳川家光によって、寄進され伽藍が整備されました。かの桂昌院と亮賢の予言伝説が残るのもこの寺でございます。果たして真実はいかに?


2008年01月18日
ほんにほんに優しい味!
前から行きたかった光泉洞さんのお昼ごはん 昼過ぎに近くに行ったのでやっと食すことができました。うれしい~。光泉洞さんはバランスの良い美味しい家庭料理がいただけるお昼処。明治38年にたてられた、本当の京町屋をできるだけ変えずにそのまま使っておられます。この日は、三時頃だったので、空き空きでゆっくり食せました。
最初に出されたお茶の良い香り、日替わり定食は、青じその風味のきいた鳥つくねハンバーグとごぼうを中心とした野菜の和え物、菜っ葉、お漬物に味噌汁。これがもう、うまく表現できないのですが、ほんとに優しい味!美味このうえないとはこのことか。健康にも良さそうだし、やみつきになりそうですよ。自宅に近ければ毎日行くのに。この日は、たまたまでしたが、また時間作って食べに行こうっと!
香り高い一保堂さんのいり番茶、麩嘉さんの生麩、(粟麩、蓬麩2種)など京都らしいものをいろいろご用意されています。

最初に出されたお茶の良い香り、日替わり定食は、青じその風味のきいた鳥つくねハンバーグとごぼうを中心とした野菜の和え物、菜っ葉、お漬物に味噌汁。これがもう、うまく表現できないのですが、ほんとに優しい味!美味このうえないとはこのことか。健康にも良さそうだし、やみつきになりそうですよ。自宅に近ければ毎日行くのに。この日は、たまたまでしたが、また時間作って食べに行こうっと!

香り高い一保堂さんのいり番茶、麩嘉さんの生麩、(粟麩、蓬麩2種)など京都らしいものをいろいろご用意されています。
2008年01月17日
冬に咲く桜
久しぶりに寺の内界隈を散歩してみました。冬に咲く桜・お会式桜ってごぞんじですか。日蓮宗のお寺などで見られます。こちらは妙蓮寺さんのもの。

室町時代の後期、法華宗は、信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため特に山門・比叡山延暦寺からたびたび攻撃を受け,武装するようになっていきました。 法華宗の武装は,町の自治と自衛のために団結する町衆や,松ヶ崎など近郊の法華信者の農民と結びつき,武器を携え戦う「法華一揆」へと発展したのでございます。時には武家の軍勢とともに参戦し,一方で,年貢の減免要求を掲げて抵抗を示したりもいたします。法華宗は他宗派からの迫害や諸事情により,多くの寺院が移転を繰り返しました。洛中二十一本山は,天文法華の乱で焼き討ちされ,堺に逃れました。のち洛中に再興された寺院は,妙顕寺、要法寺、本圀寺、妙覚寺、妙満寺、本禅寺、本満寺、立本寺、妙蓮寺、本能寺、本法寺、頂妙寺、妙泉寺、本隆寺、妙伝寺の15か寺でございます。その後、豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として,法華寺院の大半は寺町または寺之内に集められたのでございます。

室町時代の後期、法華宗は、信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため特に山門・比叡山延暦寺からたびたび攻撃を受け,武装するようになっていきました。 法華宗の武装は,町の自治と自衛のために団結する町衆や,松ヶ崎など近郊の法華信者の農民と結びつき,武器を携え戦う「法華一揆」へと発展したのでございます。時には武家の軍勢とともに参戦し,一方で,年貢の減免要求を掲げて抵抗を示したりもいたします。法華宗は他宗派からの迫害や諸事情により,多くの寺院が移転を繰り返しました。洛中二十一本山は,天文法華の乱で焼き討ちされ,堺に逃れました。のち洛中に再興された寺院は,妙顕寺、要法寺、本圀寺、妙覚寺、妙満寺、本禅寺、本満寺、立本寺、妙蓮寺、本能寺、本法寺、頂妙寺、妙泉寺、本隆寺、妙伝寺の15か寺でございます。その後、豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として,法華寺院の大半は寺町または寺之内に集められたのでございます。
2008年01月15日
京の桜
めっきり寒くなってまいりましたが、1ヶ月とちょっとで早や春の声が聞かれるのでは、ないでしょうか?何回か、私的桜の名所をご案内いたします。
インクライン桜のトンネル
三条通りを東へ向かう。東山三条、かつての東海道や中仙道の入り口にあたる粟田口近くを通り、ホテル・ウエスティン都を横目に九条山のあたりから、工事現場に入るようなひっそりとした細い道がある。鋭角に左折して、舗装もされていないそのじゃり道を登っていくと、激流にも似た流れる水の音。今も立派に稼動する日本で最初の水力発電施設、古式ゆかしいレンガ造りの発電所を横目に少し歩くと、レールの跡を周りから覆うように眼前に桜並木が広がります。
有名な南禅寺の水路閣へ続く道の裏側なんですけどね。こちらから入ると空き空きでいけるんですよ。線路沿いをゆっくりと歩いて降りていく。インクラインっていうんですよ。明治期に、首都機能が東京に移ってしまって京都は衰退の一途をたどろうとしていたんです。その頃、いかに京都の美しい風景を壊さず、新しい産業を興すかにその生命をささげた人達がいたんだそうで、
京都市民のエネルギー源であり、運河、上水道として生まれたのが・琵琶湖疎水・なんです。でも京都って名所旧跡ばかりでしょ、ルートはあっちこっちと迂回せざるを得なかったし、盆地だったからここで運河が三十六メートルの落差を生んで途切れてしまった。
苦肉の策として生まれたのが、ケーブルカーの要領で荷物や客を船ごと台車に乗せて上げ下ろしするという方法だったんです。その名残がインクラインなんですよ。土木技術も未熟な明治期ですから大変だったらしいんですけどね、絶対に通すんだっていう当時の人たちの意気込みを感じますよね。
インクライン桜のトンネル

三条通りを東へ向かう。東山三条、かつての東海道や中仙道の入り口にあたる粟田口近くを通り、ホテル・ウエスティン都を横目に九条山のあたりから、工事現場に入るようなひっそりとした細い道がある。鋭角に左折して、舗装もされていないそのじゃり道を登っていくと、激流にも似た流れる水の音。今も立派に稼動する日本で最初の水力発電施設、古式ゆかしいレンガ造りの発電所を横目に少し歩くと、レールの跡を周りから覆うように眼前に桜並木が広がります。
有名な南禅寺の水路閣へ続く道の裏側なんですけどね。こちらから入ると空き空きでいけるんですよ。線路沿いをゆっくりと歩いて降りていく。インクラインっていうんですよ。明治期に、首都機能が東京に移ってしまって京都は衰退の一途をたどろうとしていたんです。その頃、いかに京都の美しい風景を壊さず、新しい産業を興すかにその生命をささげた人達がいたんだそうで、
京都市民のエネルギー源であり、運河、上水道として生まれたのが・琵琶湖疎水・なんです。でも京都って名所旧跡ばかりでしょ、ルートはあっちこっちと迂回せざるを得なかったし、盆地だったからここで運河が三十六メートルの落差を生んで途切れてしまった。
苦肉の策として生まれたのが、ケーブルカーの要領で荷物や客を船ごと台車に乗せて上げ下ろしするという方法だったんです。その名残がインクラインなんですよ。土木技術も未熟な明治期ですから大変だったらしいんですけどね、絶対に通すんだっていう当時の人たちの意気込みを感じますよね。
2008年01月12日
聚楽第
天正14年(1586)に、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地で聚楽第の建設を開始しました。聚楽第には各地の大名の屋敷を集め、豊臣が京都における政治の中心地にしようとしたことがうかがわれます。天正16年(1588)にはその聚楽第への後陽成天皇の行幸が盛大に行われ、諸大名に天皇と天皇の代理である関白秀吉に忠誠を誓わるという一大イベントが行われたのでございます。その後、関白の座と聚楽第は秀吉から甥の秀次に譲られましたが、豊臣家の後継者とするなら聚楽第に豊臣政権を運営する役所を増築する必要があったはずで、記録にはないことから秀吉は、豊臣家ではなく関白職だけを譲ったと思われます。聚楽第は、豊臣家の後継者・秀頼が誕生し、文禄4年(1595)の豊臣秀次の失脚後、秀吉は次第に政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体され伏見城の資材とされ、聚楽第は廃城となってしまいます。9年間という短い期間でしたが、聚楽第は、京都における豊臣政権の中心として存在したのでございます。
聚楽第は、邸宅ではありますが、天守を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備え、瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったといいます。西本願寺の飛雲閣や、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築された建物という伝承を持つ建造物が今も京にいくつか残されています。また04年に尼崎市の民家で発見されたという洛中洛外図屏風(尼崎本)には、聚楽第と行幸の様子が描かれております。聚楽第は屏風の左側に描かれ、五層の天守や本丸御殿、櫓などあり、行幸は聚楽第の東御門から御所まで続く150人の列を描写し、秀吉が乗っているとみられる牛車や天皇が乗る輿もみられ。行列が通る道は金砂を敷いたような装飾がされている様子が描かれております。

聚楽第の範囲は、いろいろな説があり、まだ確定されるにいたっていません。これまでの遺構の発掘例としては、上京区一条通大宮下ル民家の敷地では、花崗岩の切石9個からなる礎石群が発見され、櫓の存在が推定されました。また平安宮内裏承明門跡の調査では、聚楽第に関連すると思われる四脚門跡・濠跡・整地層などが検出されています。また西陣職業安定所の発掘では大規模な堀の遺構が検出され、多数の金箔瓦が出土しています。
2008年01月10日
西国街道
西国街道は、京都の東寺を出発点とした九州太宰府にいたる街道で、山陽道といわれており、京都東寺(とうじ)から兵庫県西宮えびす神社までのところを「山崎」を通るので山崎道ともいわれてございます。現在は国道171号線とほぼ並行して走っております。この西国街道は、古代から日本の中心であった都と朝鮮半島との玄関口であった九州の大宰府とを結ぶ一番重要な幹線道路として発展してきました。江戸時代には本街道である大阪経由よりも距離が短いので、西国諸大名の参勤交代の道として多く利用されていたと申します。後の細川ガラシャ・明智玉の細川忠興への輿入れ行列ももここを通り、勝竜寺城に入ったといいます。


2008年01月08日
油発祥の地
大山崎は、日本の東西を結ぶ交通の要衝として古代より発展してきました。天下分け目の天王山、秀吉と光秀の戦いの舞台もこの地でありました。JR山崎駅のすぐ下に離宮八幡宮がございます。時の神官が搾油器を発明し「荏胡麻油」(えごま)の製油が起こったことで、日本における製油発祥地とされておりまする。

大山崎には、 社司らが山崎八幡宮に参拝し、12月13日の社座の席で、油売りたちに古来の作法にもとづいて許可状と印券を与える「判紙の会合」と呼ばれる,秘密の神事があったと申します。 この時代,大山崎は,全国の油売りの元締めとしての地位を守り、「油座」の制度で搾油と胡麻油の販売権を独占して大いに栄えたのでございます。諸国から集まった 油売りも,みな大山崎の免許状を受け,印券(許可証)を持ち、諸国の港や渡し場 を通行いたしました。聖域の神人として諸国の関所や湖上関なども通過かってであったといいます。もし秘密に 搾油を行う ものがあれば,大山崎の神人が出向きたちまち搾油の道具をたたき壊したとも申します。中世の『職人歌合』には、“よひごとに都へいづる油うりふけてのみ見る 山崎の月” とあり,山崎の油売りの非常に多忙な様子がうかがえます。

離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると, 大山崎神人が油や雑物 の交易のため,不破関の関料免除の特権を保持し,不破関を越えて,遠く美濃尾張まで行商の旅に出、また,旧社家・疋田種信氏所蔵写本中にある覚書元年(1229年)12月28日付の六波羅探題御教書によれば,既にこの頃,大山崎は播磨国で専売の特権を有し ,翌寛喜2年の御教書では,肥後国まで範囲を拡げております。応長元年(1311年)には,後嵯峨院の院宣が下り,荏胡麻と油の販売 独占を保証。正和3年(1314年)には,六波羅の下知状によって,荏胡麻の運送に関して,淀河尻,神崎,渡辺,兵庫等の関料を免除。文安3年(1446年)に 室町幕府が下した兵庫開制札の中では,山崎神人の買い入れた荏胡麻の運送は,「山崎胡麻船 」 として,大神宮船等とともに,関料の免除が保証。室町幕府においては,歴代の将軍が御教書を下して,大山崎の権益を保証しているのでございます。また京では,神人が居住して店舗を構え,定住の油売商として営業しておりました。大山崎は独占企業として財を成し,同時に諸国を自由に往来できることから, 自然に多くの 情報が集まったのでございます。

大山崎には、 社司らが山崎八幡宮に参拝し、12月13日の社座の席で、油売りたちに古来の作法にもとづいて許可状と印券を与える「判紙の会合」と呼ばれる,秘密の神事があったと申します。 この時代,大山崎は,全国の油売りの元締めとしての地位を守り、「油座」の制度で搾油と胡麻油の販売権を独占して大いに栄えたのでございます。諸国から集まった 油売りも,みな大山崎の免許状を受け,印券(許可証)を持ち、諸国の港や渡し場 を通行いたしました。聖域の神人として諸国の関所や湖上関なども通過かってであったといいます。もし秘密に 搾油を行う ものがあれば,大山崎の神人が出向きたちまち搾油の道具をたたき壊したとも申します。中世の『職人歌合』には、“よひごとに都へいづる油うりふけてのみ見る 山崎の月” とあり,山崎の油売りの非常に多忙な様子がうかがえます。

離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると, 大山崎神人が油や雑物 の交易のため,不破関の関料免除の特権を保持し,不破関を越えて,遠く美濃尾張まで行商の旅に出、また,旧社家・疋田種信氏所蔵写本中にある覚書元年(1229年)12月28日付の六波羅探題御教書によれば,既にこの頃,大山崎は播磨国で専売の特権を有し ,翌寛喜2年の御教書では,肥後国まで範囲を拡げております。応長元年(1311年)には,後嵯峨院の院宣が下り,荏胡麻と油の販売 独占を保証。正和3年(1314年)には,六波羅の下知状によって,荏胡麻の運送に関して,淀河尻,神崎,渡辺,兵庫等の関料を免除。文安3年(1446年)に 室町幕府が下した兵庫開制札の中では,山崎神人の買い入れた荏胡麻の運送は,「山崎胡麻船 」 として,大神宮船等とともに,関料の免除が保証。室町幕府においては,歴代の将軍が御教書を下して,大山崎の権益を保証しているのでございます。また京では,神人が居住して店舗を構え,定住の油売商として営業しておりました。大山崎は独占企業として財を成し,同時に諸国を自由に往来できることから, 自然に多くの 情報が集まったのでございます。
2008年01月05日
古式ゆかしき 蹴鞠はじめ
世界遺産でもある下鴨神社の境内で蹴鞠(けまり)はじめがありました。写真を撮りたくて最前列に行くまでに二時間、やっと最前列になったと思ったら、超逆光にしかも数分で行事が終わってしまいました。今年も私の人生は、前途多難でございましょうか?

さて、蹴鞠は、原則は八人で鞠を一定の高さに蹴り上げて、落とさずに正確な動作で蹴る回数の多いのを優秀とする貴族の遊びでございます。遊びといっても、鞠は鹿革で作られた丈夫なもので、刺繍もほどこされなかなか華麗なものでございました。沓(かもくつ)、烏帽子などの専用装束もあって、蹴鞠の師範の飛鳥井家からは段階ごとの装束着用についての免許状も発行されております。飛鳥井家の格は、摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)、太政大臣を極官とする青華家(三条・徳大寺・西園寺・今出川・花山院・大炊御門・久我)、大臣家((正親町三条(嵯峨)・三条西・中院)に次ぎ、大納言を極官とする羽林家とされておりました。

その頃、摂政・二条康道が、邸宅内に設けられた鞠庭で蹴鞠の会を催していた。「アリ・・」「ヤっ・・」「オウ・・」と鞠蹴りの掛け声が庭内にこだまする。「きゃあ~、」「いやっ」とその度に十二単に身をまとった艶やかな女官たちから拍手やら歓声が飛び交う。競技後には宴の席がもうけられた。
・・・大納言・飛鳥井雅庸「殿下におかれましては、ますますの御上達振りにて、感服の極みでごじゃりまする。後日、金紗・鳳凰をあしらいました鞠水干(上着)をご献上いたしまする」康道「うむ、それは楽しみなことでごじゃるなあ」良尚法親王「これは、先にしてやられ申しました。はっはっは。ときに二条殿、近くにはおりゐの帝のご機嫌うかがいには、お出向きにならしゃりましたか?」「そのことでごじゃりまする。明正帝への譲位より三年、まだまだ気苦労の多いご様子であらしゃりましたなあ。帝もかの紫衣の紛議やら乳母女ごときの参内やら、関東のなされようをお嘆きになられての譲位であったゆえになあ。いまだ心中いかばかりか・・」飛鳥井「御前の譲位はお灸の治療とお伺いいたしておりましたが、そのようなことでごじゃりましたか」良尚「そのようなことは口実でごじゃりまする。せめてものお救いは女院さま(東福門院和子)のご理解良きことにて、関東もおりゐの帝のまつりごと(院政)を・・・(本文 時代編)

さて、蹴鞠は、原則は八人で鞠を一定の高さに蹴り上げて、落とさずに正確な動作で蹴る回数の多いのを優秀とする貴族の遊びでございます。遊びといっても、鞠は鹿革で作られた丈夫なもので、刺繍もほどこされなかなか華麗なものでございました。沓(かもくつ)、烏帽子などの専用装束もあって、蹴鞠の師範の飛鳥井家からは段階ごとの装束着用についての免許状も発行されております。飛鳥井家の格は、摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)、太政大臣を極官とする青華家(三条・徳大寺・西園寺・今出川・花山院・大炊御門・久我)、大臣家((正親町三条(嵯峨)・三条西・中院)に次ぎ、大納言を極官とする羽林家とされておりました。

その頃、摂政・二条康道が、邸宅内に設けられた鞠庭で蹴鞠の会を催していた。「アリ・・」「ヤっ・・」「オウ・・」と鞠蹴りの掛け声が庭内にこだまする。「きゃあ~、」「いやっ」とその度に十二単に身をまとった艶やかな女官たちから拍手やら歓声が飛び交う。競技後には宴の席がもうけられた。
・・・大納言・飛鳥井雅庸「殿下におかれましては、ますますの御上達振りにて、感服の極みでごじゃりまする。後日、金紗・鳳凰をあしらいました鞠水干(上着)をご献上いたしまする」康道「うむ、それは楽しみなことでごじゃるなあ」良尚法親王「これは、先にしてやられ申しました。はっはっは。ときに二条殿、近くにはおりゐの帝のご機嫌うかがいには、お出向きにならしゃりましたか?」「そのことでごじゃりまする。明正帝への譲位より三年、まだまだ気苦労の多いご様子であらしゃりましたなあ。帝もかの紫衣の紛議やら乳母女ごときの参内やら、関東のなされようをお嘆きになられての譲位であったゆえになあ。いまだ心中いかばかりか・・」飛鳥井「御前の譲位はお灸の治療とお伺いいたしておりましたが、そのようなことでごじゃりましたか」良尚「そのようなことは口実でごじゃりまする。せめてものお救いは女院さま(東福門院和子)のご理解良きことにて、関東もおりゐの帝のまつりごと(院政)を・・・(本文 時代編)

2008年01月03日
あけましておめでとうございます
京都の四条通を西にいったどんつきに松尾大社があります。京都最古の神社でございます。五世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し、河川を治めて、農産林業を興したといいます。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、この地に社殿を造営したのでございます。境内は初詣のカップルや家族連れで大賑わいでした。さて、能の世界には「松尾(まつのお)」といわれる宝生流のみに伝承される舞がございます。


・・・元服し、館林宰相となりて十年ほど経ったころであったろうか、綱吉は能楽に興味をしめし、自らも衣装をつけ好んで能を舞うようになった。 「・・・昨日は薄きもみぢ葉の 今日は濃染の色深き 西茜の峰つづき さながら四方の 錦なれども 松の尾の山の梢の秋ならで 唯時雨のみ・・・・・ 落ち葉ばかりは塵の世に 交はる誓い頼もしや・・・」宝生五雲と呼ばれる白地に5つの雲形、緘尻(とじり)が丸く内側へまいた比較的地味な形の扇子を手に「松尾(まつのお)」をおどる。颯爽と京の松尾山から神が降りて来て松尾明神参詣の廷臣たちに神楽を舞ってみせるという題目のこの舞は宝生流のみに伝承されていた。綱吉は繊細で優美な芸風を持つ観世流よりも堅実で重厚な芸風の宝生流を好んで舞った。将軍になりしのち、この影響は全国に広がった。加賀藩五代藩主前田綱紀などは江戸城での宝生友勧進能興行で綱吉に能を進められ、能楽指南役に宝生流九代宗家友春の次男・嘉内を招き、現在の石川の地を宝生流一色にしていく。「加賀宝生」といわれる土壌はこれより始まった。・・・


・・・元服し、館林宰相となりて十年ほど経ったころであったろうか、綱吉は能楽に興味をしめし、自らも衣装をつけ好んで能を舞うようになった。 「・・・昨日は薄きもみぢ葉の 今日は濃染の色深き 西茜の峰つづき さながら四方の 錦なれども 松の尾の山の梢の秋ならで 唯時雨のみ・・・・・ 落ち葉ばかりは塵の世に 交はる誓い頼もしや・・・」宝生五雲と呼ばれる白地に5つの雲形、緘尻(とじり)が丸く内側へまいた比較的地味な形の扇子を手に「松尾(まつのお)」をおどる。颯爽と京の松尾山から神が降りて来て松尾明神参詣の廷臣たちに神楽を舞ってみせるという題目のこの舞は宝生流のみに伝承されていた。綱吉は繊細で優美な芸風を持つ観世流よりも堅実で重厚な芸風の宝生流を好んで舞った。将軍になりしのち、この影響は全国に広がった。加賀藩五代藩主前田綱紀などは江戸城での宝生友勧進能興行で綱吉に能を進められ、能楽指南役に宝生流九代宗家友春の次男・嘉内を招き、現在の石川の地を宝生流一色にしていく。「加賀宝生」といわれる土壌はこれより始まった。・・・
