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2011年07月28日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 1994年に世界文化遺産に登録された東寺、正式名称は教王護国寺という。教王とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。山号は八幡山、本尊は薬師如来。 創建からおよそ1200年余、唯一残る平安京の遺構である。鳴くよウグイスの794年に長岡京より遷都された平安京とともに建立された官寺、つまりは国立の寺院である。
 桓武天皇は、権力を持ち過ぎた南都六宗(法相、倶舎、三論、成実、律、華厳・ほっぐ、さんじょう、りつ、けごん)と言われた平城京からの寺院の移転を認めなかった。当初、平安京の南の玄関である羅城門(現在、旧千本九条の北側に公園となり、石碑だけが残る)を挟んで東に東寺、西に西寺が建立された。両寺は左右対称の伽藍配置をとり、東西255m、南北515mの広大な敷地に、金堂、講堂、食堂(じきどう)、五重塔などの諸堂が立ち並んでいた。 その後、西寺は衰退し消滅、東寺だけが今日に引き継がれた。東寺は平安時代と同じ場所に、当時とほぼ変わらない伽藍配置で佇んでいる。
 嵯峨天皇の時代になって東寺は、唐において真言密教の奥義を習得してきた空海・弘法大師に与えられ、教王護国寺となり、五重塔を始め、さらに伽藍が整備され、日本で初めての真言密教根本道場としての道を歩むことになる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

まずは周囲をぐるりと廻ってみよう。
 東寺の西側、壬生通り沿いに「蓮花門」(鎌倉時代)が建つ。境内からこの門を見ることはできない 。東寺の六つの門(南大門、北大門、北総門、東大門、慶賀門、蓮花門)の内、唯一国宝の指定を受けている。天平の様式を残しつつ、内部は組入天井である 。
 何故西大門と言わずに「蓮花門」というか。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 永く東寺に伝わる伝説から来ている。空海59歳の年、高野山の金堂が完成する。空海は自らの死期を悟り、 東寺を弟子の真雅に託し、高野山に入定するために旅立った。 
 空海がまさに門を出ようとしたとき、自らの念持仏として西院にまつっていた不動明王が見送りにきた。不動明王の目からは、いまにも涙がこぼれ落ちそうであった。その時、空海の足元から蓮華の花が咲き誇っていたという。以来、この門は「蓮花門」といわれている。 

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

東寺の一番絵になるスポットは? 
 京阪国道口にかかる歩道橋がある。東西を走る九条通り(九条大路)が平安京の最南端だった。 交差点の北東角にあたる歩道橋の階段を上った踊り場から五重塔と南大門がセットできれいに映える。ここが一番絵になるスポットだ。テレビや映画のロケなどにも良く使われる。
 実は「この踊り場で五重の塔を背景に写真を撮影したカップルは必ず結ばれる」などと言う噂も飛び交っている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

南大門は、東寺に現存する門の中で最大の門。楼門に仁王像が安置された南大門は、明治元年(1868)の廃仏毀釈の際に焼け落ち、東寺創建1100年の明治28年(1895)蓮華王院(三十三間堂)の西門を移築した八脚門である。そういう訳で仁王像はない。東寺の中では珍しく、桃山様式によるきらびやかな装飾をたくさん見ることができる。
 南大門は唯一平安京の地図作成時の定点となっていることでも知られる。この門をくぐると、金堂の正面になるのだが、駐車場が東大門の北側なのでそちらに廻ろう。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 方四町の敷地を有する東寺の外側を延々と囲む「大土塀」は内側に傾いて、どっしりとした重厚感がある。かの司馬遼太郎に「大好きなのは御影堂と大土塀」と言わせた重要文化財である。

 激動の建武の親政から室町時代の始まりの時期。持明院統・北朝の光厳上皇、光明天皇を奉じた足利尊氏が、比叡山に陣する大覚寺統・南朝の後醍醐天皇と対決するために京都に入ったとき、尊氏はこの東寺に本陣を築いた。四方を囲む築地の大土塀は正に城壁であったのだ。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千人の軍兵であふれ返ったと伝わる。
 光厳上皇の御所は境内の西院小子房に、足利尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂(じきどう)に身を置いた。
 また応仁の乱で播磨の赤松勢が京都に入った際、織田信長の入京の折にも、この東寺を城砦としている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

東大門(とうだいもん)を何故
     「不開門(あけずもん)」というか?
 東大門(とうだいもん)は、創建年代は不明だが、現在の東大門は鎌倉時代前期の1198年(建久9年)に文覚上人によって再建された八脚門である。国の重要文化財に指定されている。
 前述の争乱の折り、建武3年(1336年)に南朝方の軍勢が東寺に陣する足利尊氏を攻めた。糺の森、賀茂川、桂川、六条大宮などでの激しい攻防戦の末、尊氏は東寺に退却する。新田義貞率いる二万の軍勢が大宮通りから、名和長年率いる軍勢も猪熊通りから東寺に迫る。痛手を負った足利軍の武者たちが東大門に流れ込む。
 尊氏は最後の軍勢が入った途端にこの門を閉め、危うく難を逃れた。それ以来、この門は「不開門(あけずのもん)」と呼ばれている。東大門には、その時の戦闘の凄まじさを物語る、敵方から打ち込まれた何筋もの矢の痕が、今も残されている。この後、尊氏は形成を逆転、北朝方を勝利に導き、後に室町幕府が開かれるのだ。
 この故事から東大門は「あかずの門」ではなく「あけずの門」なのである。
 1605年(慶長10年)には豊臣秀頼(とよとみ ひでより)が大修理を行ったと伝えられる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

宝物館は春期(3月20日~5月25日)、秋季(9月20日~11月25日)に特別公開される。
 元は食堂の御本尊だった千手観音菩薩。高さ6メートル弱、千本の手が光背のように覆っていた。1930年に食堂が火災に見舞われるまで千年ものあいだ、東寺の観音様として信仰を集めていた。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 四天王の中の北方の護法神である多聞天は、独尊では毘沙門天と呼ばれて信仰される。都を外敵から守る神として羅城門の二階に奉られていたという兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)は、このうち地天女の両手に支えられて立ち、二鬼(尼藍婆・にらんば、毘藍婆・びらんば )を従える姿で表された特殊な像の名称である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 この他に西寺にあったという地蔵菩薩、愛染明王、頬笑みを浮かべる如来三尊、足利尊氏寄進の梵鐘などが展示されている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

鎌倉時代の建立で国の重要文化財の北総門から北大門の間の通りを櫛笥小路(くしげこうじ)というが、平安時代以来そのままの幅で残っている唯一の小路である。
 この通りの東側に観智院がある。観智院は真言宗の観学院、大学の研究室のようなところ。春季などに特別公開される。
 東寺の三宝のうち、杲宝が観智院を創建し、賢宝が智慧(ちえ)の仏である五大虚空蔵菩薩を本尊として安置した。保管されている密教の文書類は一万五千件以上に及ぶ。
 国宝の客殿は、江戸時代初期の建築で、唐破風付の車寄せや押板の床の間などに中世の様式を残しながら、柱の間隔を畳割りで決めるなどの書院造への移行の様子もうかがえる貴重な建造物である。 
 羅城の間、暗の間、使者の間からなり、上段の間には宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれている。五大の庭は、空海が唐からの帰朝の際に、海難を逃れた様子が表され、築山の石は五大虚空蔵菩薩を表現し、各々の凡字が描かれている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 本尊の五大虚空蔵菩薩像(重要文化財)は唐の長安・青龍寺金堂の本尊であったものを平安時代の847年に請来したものだ。
 五体はそれぞれ、蓮の花弁で象られた蓮台の上に結跏趺坐(けっかふざ・跏は足の裏、趺は足の甲の意。釈迦が悟りを開いた時の坐法という。両足の甲をそれぞれ反対のももの上にのせて押さえる形の座り方) し、獅子、象、馬、孔雀、金翅鳥の上に鎮座している。山科の安祥寺より請来して本尊とした。
 金翅鳥(こんじちょう)とは迦楼羅(かるら)の別名である。迦楼羅天(かるらてん)とは、インド神話のガルーダを前身とする。後には二十八部衆となった。 翼は金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う といわれる。本堂の北側に茶室、楓泉観がある。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺  東寺発行絵葉書より

食堂と書いてじきどうと読む。文字通り僧たちが食事をするところだが、仏教では食事もまた修行の一環である。
 東寺の食堂はかつて、高さ六メートルの千手観音菩薩(焼損後、宝物館に安置)が祀られていたことから、観音堂とも呼ばれている。東寺に陣した足利尊氏が生活していたこともある。
 現在は、四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三所観音霊場の納経所ともなっている。建物は、1930年に焼失後の再建である。
 昭和に再建の十一面観音菩薩立像が本尊である。周りを焼損したものの修復された平安期の四天王像が守護している。全身炭化し、顔の表情も定かではない焼け爛れた四天王像であるが凄みがある。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

境内の北西、築地で囲まれた一角が、弘法大師空海の住坊跡であり、国宝の御影堂である。空海は東寺を密教寺院として造り上げるため、ここで、講堂の立体曼陀羅を構想し、伽藍造営の指揮をとったと言われている。
 南北朝時代の入母屋造り、桧皮葺、後堂、前堂、中堂からなり、建具には蔀戸(しとみど)、妻戸、縁には高欄を巡らす落ちつきのある建物である。弘法大師空海の念持物だった不動明王が奉られているが絶対秘仏である。

 毎朝、6時に空海が住していた頃と同じように、一の膳、二の膳、お茶を供える生身供(しょうじんく)が行われている。近隣の人たちが座り、手を合わす姿は生活の中に根ざした信仰の風景だ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

蔀戸(しとみど)は、細かい格子組に板を張ってつくられた。後の格子戸の原型ともいえる。日光を遮り風雨を防ぐためのもので、常時は建て込まれ、閉じていて、開けるためには内部、または外部にはね上げを吊金具に引っかけて固定する。 下1枚を欠き壁とし、上1枚のみのものを半蔀(はじとみ)という。

 また妻戸とは、寝殿造りで、殿舎の四隅に設けた両開きの板扉のことである。

 高欄とは、宮殿,寺院などの回り縁,橋の両側,須弥(しゅみ)壇の周囲など,人が落ちないよう,また意匠的美観から設ける手すり。三段の横木からなり,柱頭に擬宝珠(ぎぼし)をつけたものを擬宝珠高欄,すみに擬宝珠がなく端部の先端をはね出したのを刎(はね)高欄と呼ぶ。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

境内の大伽藍が建っているエリアは、東西南北255メートルで、ほぼ正方形になっている。その中心が講堂である。そして講堂の中心、寺域のちょうど中心に位置する大日如来、それは、宇宙の中心とされた。密教の教えを分かりやすく伝えるため、空海が生涯をかけて建立した講堂は空海入定の年に完成した。空海は講堂の完成をみることはなかった。焼失後、今の建物は室町時代の再建である。

 仏教の教え、宇宙観を分かりやすく絵にしたらどうなるか、密教では、「曼陀羅(まんだら)」として表現する。講堂には、普通は絵画として表現される曼荼羅を、より体感できるよう立体表現した世界が広がっている。曼陀羅から飛び出した仏たち、これを「立体曼荼羅」or「羯磨(かつま)曼荼羅」という。曼陀羅は梵語(ぼんご)で「本質を有するもの」という意味がある。空海は密教教学を駆使して、東寺講堂の須弥壇に二十一尊の仏を配置し、日本で初めて羯摩曼陀羅を誕生させた。 そして、寺域の中心に大日如来を安置し、境内全体を曼陀羅にレイアウトしたのだ。
 
 大日如来を中心に五智如来。五智如来に対面して右側に、金剛波羅密多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に日本に初めて紹介された不動明王を中心にした五大明王。須弥壇の四方には四天王、梵天、帝釈天と六尊の守護神が如来、菩薩、明王たちを警護するように配されている。火災消失・地震倒壊などにより、中央の五仏(重要文化財)及び、菩薩の中心である金剛波羅蜜多菩薩の計六体は後補されたが、他十五体は全て平安前期を代表する国宝である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

仏教では、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、如来の十界と解釈される。
「天」は人間と仏の間に存在する。帝釈天、梵天、四天王、この天たちは、居並ぶ仏たちがつくりだす仏法の世界を守護しているのだ。 会社でいえば係長クラスといったところだろうか?
 東方の 持国天(じこくてん)、西方の 広目天(こうもくてん)、南方の 増長天(ぞうちょうてん)、北方の 多聞天(たもんてん)の四天王はインド古代の神であったものが、仏教に取り込まれたとされている。(とんなんしゃぺ・持増広多)
 これに、インド古代神話の創造主ブラフマンが元になったとされる 梵天(ぼんてん)と、 戦闘の神インドラが元になったとされる 帝釈天(たいしゃくてん)を加えた六尊で天部が構成され、密教世界の守りを固めているという。平安時代の像で国宝である。
 「天」はサンスクリット語(梵語)で「超人的な力を持つ神」を意味する。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 明王は、忿怒(ふんぬ)の形相、右手に宝剣、左手に羂索(けんさく・縄)、下唇を上歯でかみ、真っ赤な火焔を背負う。何本もの手や足、いくつもの目を向いた四尊の明王が、我が国最古の不動明王を囲む。平安時代の像ですべて国宝である。
 不動明王は大日如来の化身とされ、 悪魔を降伏するために恐ろしい姿ですべての障害を打ち砕き、 おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を 持つという。 常に火焔の中にあって、その燃えさかる炎であらゆる障害と一切の悪を焼き尽くすのだ。 会社でいえば課長さんクラスといったところだろうか?
 梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である
 明王の剣は諸刃の剣、刃が外に向き、内に向いている。命がけで人を救おうとしているとされる。
 
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 菩薩の話
 おだやかな表情をした、仏の教えを実践し、悟りを求める(如来に成ろうとする)修業者の姿が菩薩である。母親が子供に対して無償の愛情を注ぐ、見返りのない、その心が菩薩の心だと言われる。
 修業中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となっていった 。
 東寺では、金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩である。会社でいえば部長クラスといったところだ。

 金剛波羅蜜多菩薩、金剛薩埵菩薩、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩の組み合わせを五大菩薩として安置した例は他になく、金剛頂経(密教の根本経典の1つ)、仁王経(仏教による国家鎮護を説いた経)などをもとに空海が独自に発案したものとも言われる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

如来の話
 講堂の中心に位置するのが、大日如来である。いっさいのものを大日如来の智慧で包み込む智拳印を結ぶ。大日如来は、密教において宇宙そのものと一体と考えられる。胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅の中心におかれ、そこから全ての仏が生まれていくという。

 東寺では、周りを阿閦(あしゅく)如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が囲む。これが五智如来だ。

 如来は悟りを得た状態を表す、そのため服装は簡素である。しかし、大日如来だけ、菩薩のように宝冠をかぶり着飾っている。ある時は、菩薩となり人々を導き、ある時は不動明王となり命がけで救う、積極的な姿である。菩薩も明王もすべての仏は大日如来の化身とされる。
 如来たちは会社でいえば、会長、社長と役員会といったところだろうか。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 金堂は東寺の本堂である。平安時代の始め、東寺が創建され、初めに工事が始まったのが金堂だった。室町期に焼失し、現在の建物は関ヶ原の合戦以後の建立である。
 本尊は薬師如来、脇侍は、左が月光菩薩、右が日光菩薩である。これを薬師三尊という。
 薬師如来は、来世の西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、人々にとっては出生を司った過去の東方浄瑠璃世界の教主である。その名の通り医薬を司る仏で、あらゆる病から人々をすくい、安楽を与える仏とされる。このため仏像もしばしば薬壷を持ち、 瑠璃光を以て衆生の病気を治すとされている。

 薬師如来がお医者さんなら日光菩薩は昼勤の看護師さん、月光菩薩は夜勤の看護師さんといったところだろうか。
 但し、東寺の薬師如来は薬壺(やっこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に七体の化仏を配する七仏薬師如来である。

 薬師如来の台座には、如来を守り、如来の願いを叶える十二神将がぐるりと取り巻いている。この様式は奈良時代のものと言われる。焼失後の現在の薬師三尊は桃山時代を代表する大仏師・康正により復興された。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 空海は国によって計画された伽藍配置をほぼ踏襲しながら、それを使って、密教の教えを映し出す巨大な空間を描いていった。
 子院を除いた境内は、東西二百五十五m、南北二百八十五mのほぼ正方形である。その中心に講堂、さらに中心に大日如来が設置されている。

 さらに、南大門から北へ金堂、講堂、食堂が一直線に並ぶ。
 これは三宝(さんぽう)を表すとされる。三宝とは、仏教における三つの宝物を指し、具体的には仏・法・僧(僧伽)のこと。この三宝に帰依することで仏教徒とされる。仏を求め、真理を知り、実践していく過程を表しているのだ。
 
 金堂本尊の薬師如来もこの線上に配置される。南東の隅に仏舎利塔としての五重塔、南西の隅に密教寺院にとって最重要の潅頂院(かんじょういん)を配す。空海は、密教教学を駆使して、東寺を、曼荼羅に描かれたような宇宙空間として造り上げたのだ。
 心身の病を持つ人間が最初に出会うのが金堂の薬師如来、そして病苦を縁として講堂で普遍的な真理、立体曼陀羅と出会う。さらに生活の場でそれを生かすために食堂が置かれている。食堂までの距離が離れているのは、仏の教えを生活の場に生かすまでにかかる時間の経過を表しているという。

 国宝五重塔は京都のランドマークタワー的存在になっている。高さ54.8メートルで木造の塔としては日本一の高さを誇る。

 826年、空海により、創建着手にはじまるが、勧進が進まず、また御神木事件に揺れ、完成には五十年の歳月を要した。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。

 五重塔は仏陀の遺骨を安置するストゥーパーが起源とされ、東寺のものも、空海が唐より持ち帰った仏舎利を安置する。
 初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を大日如来に見立て中心とする。だからここに大日如来の姿は無い。周りに金剛界四如来と八大菩薩像を安置する。

 「真言八祖像」とは、真言密教の開祖龍猛から龍智・善無畏・一行・金剛智・丈空・恵果と我が国に真言密教を伝えた空海までの八祖を八幅(8枚)一組の画像としたもの。真言の教えが空海に伝わるまでの歴史を表している。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺

 軒下に目をやると尾垂木の上に邪鬼(じゃき)の彫刻がある。
 初重の四隅に、ちょうど尾垂木の上で軒を支えるような格好で置かれている。
 邪鬼とは仏教では押さえ込まれる存在としてあらわされる。よく四天王が踏みつけているのも邪鬼である。身近な邪鬼では天邪鬼(あまのじゃく)がある。「人に反発する、反対のことをする」といった意味で使われる。
 大工たちは邪鬼のこの性格を利用して、屋根を支える束の代わりにこれを置いた。反発する邪鬼の力を利用して屋根を支えようとしたのだ。邪鬼達は必死の形相で軒を支えている。

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この記事へのコメント
胎蔵界曼荼羅 金剛界曼荼羅 を数の言葉ヒフミヨ(1234)の創生過程として、十進法の基における西洋数学の成果の【π】と【e】に対応させたい・・・

 この風景は、3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつるぎ」
Posted by 〇△▢乃庭 at 2022年08月16日 03:57
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