2007年11月28日
京の紅葉三昧 西国一の名所 善峯寺
京都市内からは小一時間、数十キロしか離れていないのに、あたりはまるでずいぶんと山奥に来たように感じられる澄み切った空気と静寂が広がる。かつて王侯貴族たちが宴や鷹狩りをして遊興をせし山里・大原野。一車線の曲がりくねった細い道を走り、うっそうとした木立の中をぬけると、その頂上に位置するところに気高くそびえ立つのが、西国三十三所第二十番札所の「善峯寺」でございます。平安の頃、源算上人が開基されて、長元七年(1034年)に後一条天皇から良峯寺の号をたまわってよりの古い歴史があり、歴代天皇の崇敬あつく、代々、青蓮院宮が住職を務められた「西山宮」という門跡寺院であった。
儒医で歴史家の黒川道祐のまとめた山城国の地誌である雍州府志には善峯寺のこととして「・・・斯の山を開くとき、三尾四谷を分けて寺院五十余箇所を建つ。応仁の兵火に悉く(ことごとく)炎上し、寺産も亦、分散す。今、僅かに七坊、存するのみ。・・・」とございます。お玉・桂昌院は、母と一緒に二年半ここで奉仕したといいます。まずは2007紅葉三昧!この日は少し曇天だったのが残念・・・




・・・山並みを埋め尽くす紅葉のトンネル、かなり急な勾配の九十九折りの石段を息をきらしながら上がると荘厳な仁王門が出迎えてくれた。玉枝「うわあ、ほんとに広いんねえ。そしてほんとにきれい、この赤、紅、赤、燃えるような深紅って、こんな色のことをいうんやねえ」文寿「約三万坪といわれているこの善峯寺はね、境内全体が回遊式の庭園となっていて、年中、四季折々の花々が楽しめます。紅葉は境内南側の中腹から約一千本の木々があるんですよ」二人は山門でもらえる順路案内図にそって散策していく。桂昌院が綱吉の厄除けのために寄進した釣鐘堂を・・・(本文 現代編)
儒医で歴史家の黒川道祐のまとめた山城国の地誌である雍州府志には善峯寺のこととして「・・・斯の山を開くとき、三尾四谷を分けて寺院五十余箇所を建つ。応仁の兵火に悉く(ことごとく)炎上し、寺産も亦、分散す。今、僅かに七坊、存するのみ。・・・」とございます。お玉・桂昌院は、母と一緒に二年半ここで奉仕したといいます。まずは2007紅葉三昧!この日は少し曇天だったのが残念・・・




・・・山並みを埋め尽くす紅葉のトンネル、かなり急な勾配の九十九折りの石段を息をきらしながら上がると荘厳な仁王門が出迎えてくれた。玉枝「うわあ、ほんとに広いんねえ。そしてほんとにきれい、この赤、紅、赤、燃えるような深紅って、こんな色のことをいうんやねえ」文寿「約三万坪といわれているこの善峯寺はね、境内全体が回遊式の庭園となっていて、年中、四季折々の花々が楽しめます。紅葉は境内南側の中腹から約一千本の木々があるんですよ」二人は山門でもらえる順路案内図にそって散策していく。桂昌院が綱吉の厄除けのために寄進した釣鐘堂を・・・(本文 現代編)
2007年11月25日
京野菜 おいでやす森田農園
洛北には、北山通りより北に賀茂とまとや賀茂なすはじめ、有数の京野菜の産地群があります。深泥が池を下がったところに位置する森田農園さんもその一つ。下鴨中通り沿いには毎日の新鮮な取立て野菜を販売する直販店もあります。今日も水菜や聖護院かぶらといった冬野菜がずらり!50年にわたってリヤカーをひき、振り売り(行商)を続けてきたというご隠居が留守番をされています。


・・・このあたりは賀茂なす、賀茂とまとはじめ、有名な京野菜の産地郡だ。賢亮の自然農園、森尾農園はここにある。数日前から玉枝はここで働きだしていた。
「あ~、もう、汗びっしょり、もうそろそろ冷え込む季節なのになあ、でも何かすがすがしくって気持ちいい!」熊のプーさんの刺繍要り、薄ピンクの農作業用のレディースツナギで作業する玉枝のほっぺは泥で真っ黒だ。賢亮「ふふっ」「なんかおかしい?」「うう~ん、土のにおいも悪くないだろ、玉枝ちゃん、少し休憩しておっ昼にしようっか?」その時だ「お~い、た・ま・え~」田んぼのあぜ道を隔てた土手の上から聞きなれた・・・(本文 現代編)

・・・玉枝「賢亮はほんとに京野菜のことになると一生懸命なんやなあ!ふふっ・・・」
賢亮「俺さあ、昔ね祈ればなんでもかなえられると思ってたことがあったんだ。だから念仏となえて、護摩焚いて、祈祷ばかりしてた。でも今、生きてるってのは現実なんだよな。食べることってほんとに人が生きることの基本だと思うんだよ。だから皆が安心して食べれるし、それでいて気持ちを豊かにしてくれるような食卓のためのいい食材を提供したいんだ」玉枝「ふふっ、そっか。でも賢亮って昔っからときどき何か不思議な事いうよね・・・(本文 現代編)


・・・このあたりは賀茂なす、賀茂とまとはじめ、有名な京野菜の産地郡だ。賢亮の自然農園、森尾農園はここにある。数日前から玉枝はここで働きだしていた。
「あ~、もう、汗びっしょり、もうそろそろ冷え込む季節なのになあ、でも何かすがすがしくって気持ちいい!」熊のプーさんの刺繍要り、薄ピンクの農作業用のレディースツナギで作業する玉枝のほっぺは泥で真っ黒だ。賢亮「ふふっ」「なんかおかしい?」「うう~ん、土のにおいも悪くないだろ、玉枝ちゃん、少し休憩しておっ昼にしようっか?」その時だ「お~い、た・ま・え~」田んぼのあぜ道を隔てた土手の上から聞きなれた・・・(本文 現代編)

・・・玉枝「賢亮はほんとに京野菜のことになると一生懸命なんやなあ!ふふっ・・・」
賢亮「俺さあ、昔ね祈ればなんでもかなえられると思ってたことがあったんだ。だから念仏となえて、護摩焚いて、祈祷ばかりしてた。でも今、生きてるってのは現実なんだよな。食べることってほんとに人が生きることの基本だと思うんだよ。だから皆が安心して食べれるし、それでいて気持ちを豊かにしてくれるような食卓のためのいい食材を提供したいんだ」玉枝「ふふっ、そっか。でも賢亮って昔っからときどき何か不思議な事いうよね・・・(本文 現代編)
2007年11月23日
京の紅葉 賀茂の社家 奈良の小川
・・・加茂川の上流、北区上賀茂の由緒ある京都最古級の上賀茂神社、正式には山城一ノ宮・賀茂別雷(かもわけいかずち)神社という。本殿・権殿は国宝、ご社殿は世界文化遺産で、伊勢神宮に次ぐ社格をもつ。境内を流れる賀茂川の源流からの水・奈良の小川が一の鳥居より出でて明神川となり、神社から深泥が池に続く道に整備された水路に流れ込み、その奥に賀茂の社家と呼ばれる神社の神官たちの邸宅群がある。西村家別邸など公開のものもあるが、この水を邸宅内に引き入れ、禊に使い、浄化してまたもとに返すという実にエコな昔ながらの工夫が今も続いている貴重な邸宅郡である・・・(本文 現代編)
西村家別邸

奈良の小川

賀茂の社家

・・・寛永十四年(一六三七)の冬、京、「東に比叡山、西に愛宕山、昔、都大路を包むこの山々が高さ比べをしたそうな、怒った比叡山が愛宕山の頭をボコっとなぐってこぶができたんや。そのこぶの分だけ愛宕山が高いいうえ」「ふ~ん、てて様はなんでも知ってはる、ほんに物しりやなあ」と仁右衛門の話す京の言い伝えをうなづきながら聞く、お玉・十歳、その比叡山と愛宕山にも白雪が彩る季節となっていた。その日は、青物売りの父・仁右衛門と一緒に上賀茂や鷹峯といったところから仕入れた野菜を大八車に乗せて、振り売り(行商)のため洛中に向かっていた・・・(本文 時代編)
西村家別邸

奈良の小川

賀茂の社家

・・・寛永十四年(一六三七)の冬、京、「東に比叡山、西に愛宕山、昔、都大路を包むこの山々が高さ比べをしたそうな、怒った比叡山が愛宕山の頭をボコっとなぐってこぶができたんや。そのこぶの分だけ愛宕山が高いいうえ」「ふ~ん、てて様はなんでも知ってはる、ほんに物しりやなあ」と仁右衛門の話す京の言い伝えをうなづきながら聞く、お玉・十歳、その比叡山と愛宕山にも白雪が彩る季節となっていた。その日は、青物売りの父・仁右衛門と一緒に上賀茂や鷹峯といったところから仕入れた野菜を大八車に乗せて、振り売り(行商)のため洛中に向かっていた・・・(本文 時代編)
2007年11月22日
織豊時代より続く、羊羹の老舗
羊羹(ようかん)は、一般には小豆を主体とした餡を寒天で固めた和菓子でございます。羊羹とは、本来「羊の羹 (あつもの)」、つまり羊肉入りのとろみのある汁物でした。鎌倉~室町時代、禅僧が点心 (食間に食べる小食) の一つとして中国から日本に伝えました。しかし、禅僧は肉食を禁じられていたため、日本では小豆や葛、小麦粉を用いた見立て料理に変化し、そのうち現在でいう蒸羊羹に近いものになっていったと考えられています。寒天の添加量により、煉羊羹と水羊羹の二種類がある初期の羊羹は、小豆を小麦粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。蒸し羊羹からは、ういろうが派生しています。江戸時代になって寒天が発見され、1589年(天正17年)、和歌山の駿河屋岡本善右衛門によって寒天に餡を加え、さお状に固めた「煉羊羹」がつくられ、今に至っています。
古文書などの資料で虎屋の存在がたしかめられるのは、1500年代後期の後陽成 天皇の御世であるといいます。虎屋の羊羹は、小豆を煮る作業から完成までに3日を要すのだとか。炊き上がった羊羹の煉り具合の見極めなど、熟練した職人の目で一つ一つ確かめながらの手間ひまを惜しまない工程により、虎屋の味が生まれるといいます。烏丸一条西入る

・・・朝比奈は、お茶請けとして出された・とらや・の羊羹を食す。この頃はまだ蒸し羊羹であった。練り羊羹が登場するのは寛政年間以降となる。(これが話題のとらやのものか、なんという美味!)そう思いながらもすべては食べ切れなかった朝比奈は作法にのっとり、懐から和紙を取り出し、それに包んでまた懐にそっと返した。織部の茶器に入れられた抹茶を飲み干し、「結構なお手前にて、痛み入りまする。中宮さま、いえ、女院様には、お久しゅう、ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする」と深々とこうべをたれた。東福門院は水辺の杜若(かきつばた)に彩られた豪華な西陣織の小袖を着ていた。のちに流行となる寛文文様のはしりである。大坂落城の折、・・・(本文 時代編)
古文書などの資料で虎屋の存在がたしかめられるのは、1500年代後期の後陽成 天皇の御世であるといいます。虎屋の羊羹は、小豆を煮る作業から完成までに3日を要すのだとか。炊き上がった羊羹の煉り具合の見極めなど、熟練した職人の目で一つ一つ確かめながらの手間ひまを惜しまない工程により、虎屋の味が生まれるといいます。烏丸一条西入る
・・・朝比奈は、お茶請けとして出された・とらや・の羊羹を食す。この頃はまだ蒸し羊羹であった。練り羊羹が登場するのは寛政年間以降となる。(これが話題のとらやのものか、なんという美味!)そう思いながらもすべては食べ切れなかった朝比奈は作法にのっとり、懐から和紙を取り出し、それに包んでまた懐にそっと返した。織部の茶器に入れられた抹茶を飲み干し、「結構なお手前にて、痛み入りまする。中宮さま、いえ、女院様には、お久しゅう、ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする」と深々とこうべをたれた。東福門院は水辺の杜若(かきつばた)に彩られた豪華な西陣織の小袖を着ていた。のちに流行となる寛文文様のはしりである。大坂落城の折、・・・(本文 時代編)
2007年11月20日
一条札ノ辻の高札にてまかり知る・・・
京都のあちこちで見られる札ノ辻の地名は、街道に高札場があったことから来たといいます。平安京の一条大路は当時から様々な祭の行列を見るための桟敷がよく作られていました。道幅は十丈から十二丈(約30メートル~36メートル)という記録がございます。中世、室町期に二条通を境に上京と下京にわかれるようになると、一条通室町周辺は「札の辻」と呼ばれ、高札や町触れが掲げられるようになる。 里程の起点が三条大橋となる江戸中期まで、この一条通室町周辺が道路の起点となったほどであったといい、貞享三年(1686)と元禄四年(1691)版の「都大絵図」には「一条札の辻より方々への道之程」と記されてございます。 御所の周辺とあって御所の西側には、烏丸通の北は一条通りから南は中立売通あたりまでに「禁裏六丁町」が形成されました。 成立時期は不明ですが、天文三年(1534)頃の記録(『言継卿記』)にすでにみえている。 禁裏への労力奉仕や掃除、警護ばかりでなく、医師など御用をつかさどった人々が住んでいた町組みだといいます。
現在は、こんな感じです。

・・・仁右衛門は町組そしきの一つである下西陣組の寄り合いに出かけていた。髪結いの二階に設けられた町会所の寄り合い(何故かその頃の町会所は髪結いが多かったという)では京都所司代・板倉周防守重宗の配下の与力が出向き、お触書を読み上げている。傍らには町代の古久保与平が控えていた。「諸商売之事、右、諸国商人交易自由の便、諸人の要用也・・ばてれん門徒は露顕次第死罪に処す・・」ずいぶんと以前に発布されしものらしいが、なんどとなく寄り合いの場で引用され、周知徹底のことが呼びかけられた。「なお、こののちの細かき事は、一条札の辻(現在の室町通り一条付近)の高札にて罷り知るべし・・」寄り合いの後、いつも親切に目をかけてくれている町代に・・・(本文 時代編)
現在は、こんな感じです。
・・・仁右衛門は町組そしきの一つである下西陣組の寄り合いに出かけていた。髪結いの二階に設けられた町会所の寄り合い(何故かその頃の町会所は髪結いが多かったという)では京都所司代・板倉周防守重宗の配下の与力が出向き、お触書を読み上げている。傍らには町代の古久保与平が控えていた。「諸商売之事、右、諸国商人交易自由の便、諸人の要用也・・ばてれん門徒は露顕次第死罪に処す・・」ずいぶんと以前に発布されしものらしいが、なんどとなく寄り合いの場で引用され、周知徹底のことが呼びかけられた。「なお、こののちの細かき事は、一条札の辻(現在の室町通り一条付近)の高札にて罷り知るべし・・」寄り合いの後、いつも親切に目をかけてくれている町代に・・・(本文 時代編)
2007年11月18日
京の紅葉 大徳寺塔頭 高桐院 細川家菩提寺
大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山です。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう)・院、庵、軒などで呼ばれ、会社で言えば支店のようなものでしょうか・があります。信長亡き後、秀吉がその後継者たらんことを天下に知らしめた葬儀を執り行ったことでも知られ、信長の菩提・総見院があります。
高桐院はその塔頭の一つで、智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山として慶長7年(1602年)に創建。正保2年(1645年)に83歳で没した三斎は遺言により高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護されています。紅葉の名所としても名高いのですが、今年は、まだ色づきが遅いようですね。

本堂庭園には三斎公とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠があります。この燈籠は三斎が生前こよなく愛し,自ら墓標に指定したといわれます。また、本堂裏手には非公開の墓地があり、三斎公とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎の墓。 千利休の邸宅を移築したといわれる意北軒(いほくけん)、利休の茶を忠実に継承したといわれる三斎好みの茶室で、豊臣秀吉が催した北野大茶会の際につくった茶室を移築したといわれる松向軒(しょうこうけん)などもあります。

高桐院はその塔頭の一つで、智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山として慶長7年(1602年)に創建。正保2年(1645年)に83歳で没した三斎は遺言により高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護されています。紅葉の名所としても名高いのですが、今年は、まだ色づきが遅いようですね。
本堂庭園には三斎公とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠があります。この燈籠は三斎が生前こよなく愛し,自ら墓標に指定したといわれます。また、本堂裏手には非公開の墓地があり、三斎公とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎の墓。 千利休の邸宅を移築したといわれる意北軒(いほくけん)、利休の茶を忠実に継承したといわれる三斎好みの茶室で、豊臣秀吉が催した北野大茶会の際につくった茶室を移築したといわれる松向軒(しょうこうけん)などもあります。

2007年11月17日
生簀料理(いけす)の発祥も京都から?

1780年発行の都名所図会には、高瀬川の三条から二条の間の両岸に、江戸中期から栄えた生簀料理店が描かれています。鯉、鮒、うなぎなどの川魚や鴨などを生簀や庭に飼っておいて、生鮮な料理を京人や観光の者に出し栄えていたといいます。酒は出しましたが、女人禁制、三味線などの音曲も禁止であったといいます。現在でもこの地は飲食店が軒を連ねています。さて発祥はいつごろからでしょうか?
さて綱吉の生類憐れみの令では、生簀料理の禁や野犬保護に関して、事細かな法令もあったようですが、全体としてしっかりとした道徳を背景にした動物愛護令であると同時に、社会的弱者救済の先駆的内容も多々あったようです。
・・・上様、生類の次なる新しき令にございますが、魚類、鳥類をも憐れむことでございますか?」「そうである。むろん漁師のとった魚を食べることまで禁ずるものではない。それでは食すものがなくなってしまうではないか。但し、活魚料理は、これはいかん、ちと残酷過ぎる。良いか、老人や年老いたり病気になった牛馬を山に捨てる、あるいは生まれたばかりの赤子を他人の軒先に置く捨て子などは、日常茶飯と聞く。しかも野犬が捨て子を食い殺すことも頻繁にあるというではないか。もっとも憐れむべきは人の命じゃ、このようなことがなきよう厳重に監視せよ。そうじゃ、妊婦と七つより下の子の名を登録させよ。旅の途中で病気になった時、旅人を宿屋から追い出すようなことはまかりならん。治療せよ」
「うっ上様、恐れながら少々お待ちください。手がついてまいりませぬ。まことまめやかにございまするなあ。吉保、感服いたしまする」「世辞は良い、ささとせぬか。親が子を育てる力なき時は、役人が子らのの世話をせよ。乞食、流人なども保護せよ。また町人も病気の時には、幕府の許可なしに辻かごに乗っても良いこととする・・・道中において荷馬が苦しまぬよう、重量を加減せよ・・・この頃、獄中で死ぬものが多いと聞く。獄中にも風通しを良くするために、ところどころに格子を設けるようにせよ。獄中のものにも毎月五度づつ入浴させよ・・・綿衣を今年からは二つずつ与えよ。囚人とて獄中で死なせてはならぬ、よいか」「はっ早々に手配いたしまする」・・・(本文 時代編)
2007年11月15日
私塾の始まりも京都から
お玉が幼少期を過ごした寛永期の頃より、・・・京都では儒学や医学を中心とした私塾(民間の有識者によって開設された教育機関)が出来始めます。この松永尺五様の講習堂をかわきりに、のちに伊藤仁斎様の古義堂や山崎闇斎様の私塾、浅見絅斎様の金陌講堂、淵岡山様の京都学館といった具合に次々と私塾が開設されております。寺子屋が子供向けの読み書きそろばんといったことであったのに対し、私塾では儒学を中心に高度な学問がおしえられました。のち幕府の儒官に挙げられた木下順庵様の門下に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祗園南海様らの大儒が輩出しておりまする・・・(本文 時代編)
・・・講義する尺五の上方には・講習堂・の扁額がかけられていた。
「(講習堂)、てて様、あれはなんて読むん?」漢字のよめない仁右衛門がこまっていると、貞幹が助け舟を出した。「仁右衛門はんの娘御ですか?ほんにかいらしいお子やなあ。かしそうやし、こうしゅうどうと読むんです。おりゐのみかど(後水尾上皇)が御自らお書きになって賜りし、ありがたい扁額ですさかいに」「ふ~ん、みかど?」仁右衛門「おまはんはほんに何でも聞きたがるお子やなあ。お玉、青物売りに学問などいらんよってになあ」貞幹「いいえ、お玉はん、これからわなあ、世の中の人、みなが学問をする時代がやってきます、よう覚えときやあ、あっそや、いただきもんのいいふろや紙あるよってに持っておいきなあ、能く面の脂を取って、しかも浴したるごとくになると言います。かいらしい娘御にはようあいますえ」有名な現在の・あぶら取り紙・のことである。
「てて様、今のがお武家はん?」「そうやなあ、えらい学問の先生やいいますえ」太平の世が築かれようとしていたこの頃から国学は理想社会の実現を、個人の精神的向上に求めていくようになる。のちに綱吉の教育ママになっていくお玉は、はじめて学問というものの存在を知った。そして貞幹はのちに綱吉の儒学の師となる木下順庵その人であった・・・(本文 時代編)
講習堂跡は現在は全日空ホテルとなっております。

古義堂跡は、東堀川沿いの下立売上がるに残されています。
・・・講義する尺五の上方には・講習堂・の扁額がかけられていた。
「(講習堂)、てて様、あれはなんて読むん?」漢字のよめない仁右衛門がこまっていると、貞幹が助け舟を出した。「仁右衛門はんの娘御ですか?ほんにかいらしいお子やなあ。かしそうやし、こうしゅうどうと読むんです。おりゐのみかど(後水尾上皇)が御自らお書きになって賜りし、ありがたい扁額ですさかいに」「ふ~ん、みかど?」仁右衛門「おまはんはほんに何でも聞きたがるお子やなあ。お玉、青物売りに学問などいらんよってになあ」貞幹「いいえ、お玉はん、これからわなあ、世の中の人、みなが学問をする時代がやってきます、よう覚えときやあ、あっそや、いただきもんのいいふろや紙あるよってに持っておいきなあ、能く面の脂を取って、しかも浴したるごとくになると言います。かいらしい娘御にはようあいますえ」有名な現在の・あぶら取り紙・のことである。
「てて様、今のがお武家はん?」「そうやなあ、えらい学問の先生やいいますえ」太平の世が築かれようとしていたこの頃から国学は理想社会の実現を、個人の精神的向上に求めていくようになる。のちに綱吉の教育ママになっていくお玉は、はじめて学問というものの存在を知った。そして貞幹はのちに綱吉の儒学の師となる木下順庵その人であった・・・(本文 時代編)
講習堂跡は現在は全日空ホテルとなっております。
古義堂跡は、東堀川沿いの下立売上がるに残されています。
2007年11月14日
長岡京の旧家にガラシャ輿入れの図
JR長岡京から少し歩いたところに、神足(こうたり)ふれあい町家があります。この旧石田家住宅のある西国街道は、京都の東寺を起点に九州太宰府へ向かう重要な交通路で、奈良時代に整備され、住宅は江戸時代末期の建物で街道筋に店を構え、「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたといいます。表に出格子を並べ、白壁・虫籠窓(むしこまど)が特徴的。中にはお玉(ガラシャ)輿入れの図が飾られてあります。


2007年11月13日
絶世の美女と出会う!
明智玉・後の細川ガラシャが生まれたのは永禄六年(1563年)のことであったといいます。玉は「生まれつき非常に探究心に富み、また優れた才媛」(ルイス・フロイスの書簡)「非常な理解力と聡明をそなえた人」(アントニオ・プレネスティノの書簡)「天性の国色、容貌の美麗比倫なく、精神活発、頴敏、果決、心情高尚にして才智卓越せり」(日本西教史)であったとどの文献も絶賛しておりますが、ヨイショの部分を差し引いても大変魅力的であったようです。また夫となった忠興も信長が「器量秀れ、その志は群を抜いている、今後は武門の統率者になるにちがいない」(綿考輯録)と光秀への書簡で語ったとあります。今年のガラシャ祭りのお玉役は今里にお住まいの山田嬢が申請者の中から抽選でゲットしたそうです。

2007年11月12日
明智玉(ガラシャ)の輿入れ先 勝竜寺城
二作目のガラシャの巻の取材もあって、11日に長岡京市で開かれていたガラシャ祭りに行ってまいりました。天正六年(1578年)、世は戦国時代、織田信長によって畿内がほぼ制圧され、明智光秀らは播磨・丹波攻略に紛争していました。そのさなか、信長の媒酌により、光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)は勝竜寺城主・細川忠興のもとに嫁ぎます。現在は資料をもとに復元され、公園として整備されているこの勝竜寺城は、かつて空堀と土塁に囲まれ、鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術にもとづいて建てられていたと申します。石垣でつくる近世の城への移行間際のものとして、わが国の築城史上においても貴重なものであったといいます。


2007年11月10日
京都御所一般公開
お玉の生きた時代、朝廷は後水尾上皇が院政を敷き、実質の指導者でした。そのおりゐの帝に入台していたのが、お江の方と二代将軍秀忠の最後の姫君、徳川和子・東福門院和子でございました。ほんとは仙洞御所の州浜が見たかったのですが、公開してませんでした。


御所内御池の庭
・・・後水尾上皇の住まう仙洞御所の東北に位置する女院御所(東福門院和子の屋敷)にて、ある密会が行われた。茶室・醒花亭のまえに広がるおよそ十一万個もの丸石を敷き詰めた州浜が開放感にあふれている。新緑香る初夏の庭園・・・州浜の丸石は、小田原藩主が献上するために海岸の石を領民に集めさせたもので、石一つを米一升と交換したことから「一升石」と呼ばれているものだ。そこで家光の御台所・鷹司孝子名代として、養源院への参詣におとづれた大奥中年寄・朝比奈が秘密裏に女院・東福門院和子に拝謁していた。参詣はもちろん表向き、朝比奈は実は、かつて二代将軍・秀忠依頼の忍びのもの、当時の幕府のCIA長官といったところだろうか、中根壱岐守正盛の廻国者から和子が譲り受け、孝子付きの侍女として大奥に送り込んだ手のものであった・・・(本文時代編より)
御所内御池の庭
・・・後水尾上皇の住まう仙洞御所の東北に位置する女院御所(東福門院和子の屋敷)にて、ある密会が行われた。茶室・醒花亭のまえに広がるおよそ十一万個もの丸石を敷き詰めた州浜が開放感にあふれている。新緑香る初夏の庭園・・・州浜の丸石は、小田原藩主が献上するために海岸の石を領民に集めさせたもので、石一つを米一升と交換したことから「一升石」と呼ばれているものだ。そこで家光の御台所・鷹司孝子名代として、養源院への参詣におとづれた大奥中年寄・朝比奈が秘密裏に女院・東福門院和子に拝謁していた。参詣はもちろん表向き、朝比奈は実は、かつて二代将軍・秀忠依頼の忍びのもの、当時の幕府のCIA長官といったところだろうか、中根壱岐守正盛の廻国者から和子が譲り受け、孝子付きの侍女として大奥に送り込んだ手のものであった・・・(本文時代編より)
2007年11月08日
公家の家
お玉と母親のおなあは、当時、従一位摂政の二条家に使えることとなりました。邸宅は現在の同志社女子大学キャンパス内にあったといわれています。明治時代になって、ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、公家町は消滅、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備されました。留守居役を預かった冷泉家は京に残り、近世公家住宅の唯一の遺構となっています。年に一度の特別公開に行ってまいりました。



・・・いつもは気軽に乗り越えていたこの塀も、正面から入るとずいぶんと敷居の高いことであった。魔よけのしゃぐまの飾られた土間を通り、内玄関までに座敷が一つあって、それを横目に、なにやら大きなあひるだろうか(実は孔雀)が描かれた金屏風の飾られた内玄関を上がる。大玄関から奥を覗くといくつもの襖があり、その奥に広く整備された中庭が垣間見れる。その大玄関の東隣りの使者の間(身分の低いものを通す間)にお玉は通された。小庭には橘の木と紅梅の木が植えてある。
待っていると、案内とは別の女官が現われ、さらに奥へ案内される。いくつかのふすまを隔てて、そこは上客を迎える「上の間」であった。よくは分からぬがお玉は、不思議に思った。「あては罪人やのに、こんなに奥へ行ってええのかえ?」・・・(時代編本文より)
・・・いつもは気軽に乗り越えていたこの塀も、正面から入るとずいぶんと敷居の高いことであった。魔よけのしゃぐまの飾られた土間を通り、内玄関までに座敷が一つあって、それを横目に、なにやら大きなあひるだろうか(実は孔雀)が描かれた金屏風の飾られた内玄関を上がる。大玄関から奥を覗くといくつもの襖があり、その奥に広く整備された中庭が垣間見れる。その大玄関の東隣りの使者の間(身分の低いものを通す間)にお玉は通された。小庭には橘の木と紅梅の木が植えてある。
待っていると、案内とは別の女官が現われ、さらに奥へ案内される。いくつかのふすまを隔てて、そこは上客を迎える「上の間」であった。よくは分からぬがお玉は、不思議に思った。「あては罪人やのに、こんなに奥へ行ってええのかえ?」・・・(時代編本文より)
2007年11月06日
豪商 角倉了以、素庵 その遺産は今!
さて、大八車を引いて野菜の仕入れにやってきたお玉と仁右衛門。その高瀬川の一の舟入あたり、角倉邸はその後、山形有朋の別荘となり、現在は割烹のがんこ二条苑となっております。


・・・木屋町通りにはいると米屋、材木屋、酒屋、炭屋などの倉庫や土蔵が立ち並んでいる。店先にはこの頃から普及しだしたといわれる日よけ暖簾や太鼓暖簾もそこかしこに見られた。
その西側、二条河原町あたりに、一段と立派な豪邸が構えられていた。
「てて様、でっついお屋敷やなあ。どこのええしだす?」
「角倉様いうてな、この高瀬川をつくりはった京で一番のあきんどはんのお屋敷やなあ。今では代官様になられて、 このあたりの水運の御支配役をしてはるんえ」
しばらくすると、下のほうから船団がのぼってきた、紺色のはんてんをきた船頭の合図に合わせて、丘の上の曳き子たちが、「ホーイシ、ホーイ、ホーイ」の掛け声を上げて、綱を引き、船を引っ張り上げてくるのである。
お玉はその迫力に思わず息を呑んでその様子をながめていた・・・



・・・木屋町通りにはいると米屋、材木屋、酒屋、炭屋などの倉庫や土蔵が立ち並んでいる。店先にはこの頃から普及しだしたといわれる日よけ暖簾や太鼓暖簾もそこかしこに見られた。
その西側、二条河原町あたりに、一段と立派な豪邸が構えられていた。
「てて様、でっついお屋敷やなあ。どこのええしだす?」
「角倉様いうてな、この高瀬川をつくりはった京で一番のあきんどはんのお屋敷やなあ。今では代官様になられて、 このあたりの水運の御支配役をしてはるんえ」
しばらくすると、下のほうから船団がのぼってきた、紺色のはんてんをきた船頭の合図に合わせて、丘の上の曳き子たちが、「ホーイシ、ホーイ、ホーイ」の掛け声を上げて、綱を引き、船を引っ張り上げてくるのである。
お玉はその迫力に思わず息を呑んでその様子をながめていた・・・

2007年11月05日
西陣の商店街で!
玉枝は西陣の商店街で暮らしています。(物語の中では架空の商店街ですが・・)。映画発祥の地、西陣・千本商店街付近にはかつて13もの映画館があったといいます。いよいよ今秋に全国東映系で公開される宮沢りえ主演「オリヲン座からの招待状」の映画の舞台となっている「オリヲン座」は、千本通一条の西陣千本商店街事務所の道路を挟んだ向かい側、現在は無印良品千本店ですが、その昔「千本座」という日本で最初の映画館が物語のモデルになっているそうです。昨年から西陣界隈を中心にロケ撮影も行なわれていて、きっと知っている風景場面も出てくるかな。映画のストーリー自体が西陣中心になっています。是非ご覧になって下さい。がんばっているこの商店街の各店舗には昔の映画をモチーフにしたこんな看板もあちこちに見られます。ラピュタボーイズなるバンドもありますよ!
http://nishijin-senbon.com



・・・さあ安くて新鮮、小浜漁港から産地直送の魚たちだ。はいそこのきれいなお嬢さんって、玉枝ちゃんやな」と魚屋・魚隆の光隆がいつもの口上をのべる。いつもの世辞と分かってはいてもきれいの一言で、玉枝は、旬のはたはたとはまぐりを少し多めに買ってしまった。「まあいいかっ、近所付き合い大事やし、お互いもちつもたれつやもんなあ」・・・(本文より)
・・・玉枝が少しうらみ節の口調で続ける「うちのお母さんなあ、ナスカが来てからというもの、家計のやりくりで苦労して大変やったん。無理しすぎて、それがたたって去年なくなったわ。うちは、どうしてもあんたらみたいな大手が許せへん。商店街つぶす気か?」・・(本文より)
http://nishijin-senbon.com
・・・さあ安くて新鮮、小浜漁港から産地直送の魚たちだ。はいそこのきれいなお嬢さんって、玉枝ちゃんやな」と魚屋・魚隆の光隆がいつもの口上をのべる。いつもの世辞と分かってはいてもきれいの一言で、玉枝は、旬のはたはたとはまぐりを少し多めに買ってしまった。「まあいいかっ、近所付き合い大事やし、お互いもちつもたれつやもんなあ」・・・(本文より)
・・・玉枝が少しうらみ節の口調で続ける「うちのお母さんなあ、ナスカが来てからというもの、家計のやりくりで苦労して大変やったん。無理しすぎて、それがたたって去年なくなったわ。うちは、どうしてもあんたらみたいな大手が許せへん。商店街つぶす気か?」・・(本文より)
2007年11月03日
やっぱり祇園!
さて、八百玉の娘・玉枝とコスモグループの御曹司・吉綱が交際して数ヶ月、その春にデートにやってきたのが祇園界隈でした。また時代編でお玉と二条家の順子姫がおとづれたのも寛永期の祇園村でした。この日は、少し遅かったので舞妓さんショットは難しかった。夕暮れになると「しゃなり、しゃなり」と歩いておられますよ。舞妓さんは十五歳から二十歳で、振袖に「だらりの帯」、足もとは「おこぼ」で、京風のまげを自分の毛だけで結っている。一方、二十歳以上が芸鼓さんで、襟が短い着物に帯は二十太鼓、頭はかつら、舞妓から芸鼓に昇格することを「襟替え」というのだそうです。
「・・・周辺にはお団子屋さんやらお土産屋さん、蕎麦屋、トンカツ屋さんなどの店がづらりとならび賑わいを見せている。大和大路通り、切通しなどの繁華街の通りを過ぎ、東へ少し行くと有名な一力茶屋、その前を南へ四条花見小路を下がると、紅柄(べんがら)格子が連なる花街が華やかにひろがる。その日は、お茶屋さんの提灯に灯が入り「都おどり」の文字が浮かび上がっていた。春になると京都では、五花街(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)の踊りが繰り広げられる・・・」(本文現代編より)

「・・・四条大橋は、八坂神社の「社家記録」によりますと、永治二年(一一四二)に架橋されたのでございますが、祇園社への参詣道のため、この当時は「祇園橋」と呼ばれたと申します。 三条や五条が町橋なのに対して、四条大橋は江戸幕府直営の公儀橋でございました。 】
東海道につながる三条通りや伏見街道にいたる五条通の賑わいにくらべて祇園村はまだひっそりとして旅籠や茶屋など点々としていた。それでも、どんつきの祇園社・・・」(本文時代編より)
「・・・周辺にはお団子屋さんやらお土産屋さん、蕎麦屋、トンカツ屋さんなどの店がづらりとならび賑わいを見せている。大和大路通り、切通しなどの繁華街の通りを過ぎ、東へ少し行くと有名な一力茶屋、その前を南へ四条花見小路を下がると、紅柄(べんがら)格子が連なる花街が華やかにひろがる。その日は、お茶屋さんの提灯に灯が入り「都おどり」の文字が浮かび上がっていた。春になると京都では、五花街(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)の踊りが繰り広げられる・・・」(本文現代編より)
「・・・四条大橋は、八坂神社の「社家記録」によりますと、永治二年(一一四二)に架橋されたのでございますが、祇園社への参詣道のため、この当時は「祇園橋」と呼ばれたと申します。 三条や五条が町橋なのに対して、四条大橋は江戸幕府直営の公儀橋でございました。 】
東海道につながる三条通りや伏見街道にいたる五条通の賑わいにくらべて祇園村はまだひっそりとして旅籠や茶屋など点々としていた。それでも、どんつきの祇園社・・・」(本文時代編より)

2007年11月02日
阿蘭陀宿 海老屋
さて、お玉と二条家の姫様がやってきた高瀬川沿い、木屋町筋。当時、江戸参府の阿蘭陀通商使節カピタンの一行を迎えたオランダ宿の海老屋のあったのはおそらく五の舟入だったといいますから、現在の立誠小学校あたりでしょうか?実際に行ってみると、偶然、「まなびや芸祭」期間中で京都市立芸大の学生らのモニュメントが高瀬川に展示されていました。


・・・「江戸からの帰りやなあ」「村上の旦那(阿蘭陀宿の海老屋主人・村上文蔵)もようもうけておいでやよって」「使節が来ると京と大坂を行ったり来たり、何かと気苦労は多いこっちゃ」その頃、高瀬川の五の舟入に到着した沢山の船載(蛮品)が海老屋の土蔵に運び込まれていた。・・・(本文より)


・・・「江戸からの帰りやなあ」「村上の旦那(阿蘭陀宿の海老屋主人・村上文蔵)もようもうけておいでやよって」「使節が来ると京と大坂を行ったり来たり、何かと気苦労は多いこっちゃ」その頃、高瀬川の五の舟入に到着した沢山の船載(蛮品)が海老屋の土蔵に運び込まれていた。・・・(本文より)