2010年04月06日
2010年04月05日
2010年04月04日
哲学の道の最南端 若王子神社

哲学の道の終点・若王子(にゃくおうじ)橋のすぐ近くに佇む神社。後白河法王が永暦元年(1160)に熊野権現を勧請したのが始まりで、熊野神社・新熊野(いまくまの)神社とともに京都三熊野のひとつに数えられています。八咫烏(やたがらす)が梛の葉を加えている神紋を有し、道中安全祈願や進学、縁結びの神様として若い人にも人気です。辺りは、室町時代に足利尊氏・義政が花を愛でる宴を開いたといわれる桜の名所。また秋には一面鮮やかな朱に染まる紅葉の名所でもあります。境内はすでに満開となっていました。

2010年03月21日
2009年04月14日
2009年04月10日
2009年04月08日
2009年04月05日
2009年03月31日
街中のオアシス
少し冷え込みが続き、さくらの開花も少し遅れているかな。昼間は強い陽射しが差し込みだしました。
京都市役所を東に行って木屋町通を上ると高瀬川の流れる音がここちよい涼しげな場所があります。一の舟入といいます。いい感じで桜が咲きだしていました。

高瀬川は江戸時代に京都と伏見を結ぶ運河として商人の角倉了以によって開かれました。当時、鴨川を船で上って伏見に着いた物資は陸路京都の中心に運ばれていましたが、この運河によって大阪と京都の物資と人の輸送が出きるようになり商業の発達に大いに貢献しました。
その船だまりとして港の役割をしたのが「舟入」(ふないり)その一番上流に位置するのが「一の舟入」です。北側には島津創業記念館、西側には廣誠院などもあります。街中のオアシスで足をとめて見てはいかがでしょう。
吉田家は、室町幕府のお抱え医師として財を成しました。角倉了以の父・吉田宗桂は、嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がっていきました。戦国期には、洛中帯座の座頭職(西陣織の帯専売組織の代官)でもありました。吉田・角倉一族の拠点、嵯峨野、葛野は、秦氏ゆかりの地。遠い縁を感じます。
室町幕府の政所代であり、のちに京を追われ、四国土佐の長宗我部元親に仕える蜷川親長や西岡の土豪・革嶋一宣、吉田神社の神官・吉田兼見とも縁戚であったと言われています。本能寺の変の前後、秦氏の流れを組むとも言われる、これら一族の暗躍があったように思えてなりません。
室町幕府の外交は、五山の僧が担ってきました。貿易や財務は僧侶に不向きだと、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配したのが、土倉や酒屋と呼ばれた商人たち。吉田宗桂は、天龍寺の塔頭・妙智院住持の策彦周良と二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。
哲学の道もまだ二分咲き程度でしょうか。

京都市役所を東に行って木屋町通を上ると高瀬川の流れる音がここちよい涼しげな場所があります。一の舟入といいます。いい感じで桜が咲きだしていました。

高瀬川は江戸時代に京都と伏見を結ぶ運河として商人の角倉了以によって開かれました。当時、鴨川を船で上って伏見に着いた物資は陸路京都の中心に運ばれていましたが、この運河によって大阪と京都の物資と人の輸送が出きるようになり商業の発達に大いに貢献しました。
その船だまりとして港の役割をしたのが「舟入」(ふないり)その一番上流に位置するのが「一の舟入」です。北側には島津創業記念館、西側には廣誠院などもあります。街中のオアシスで足をとめて見てはいかがでしょう。
吉田家は、室町幕府のお抱え医師として財を成しました。角倉了以の父・吉田宗桂は、嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がっていきました。戦国期には、洛中帯座の座頭職(西陣織の帯専売組織の代官)でもありました。吉田・角倉一族の拠点、嵯峨野、葛野は、秦氏ゆかりの地。遠い縁を感じます。
室町幕府の政所代であり、のちに京を追われ、四国土佐の長宗我部元親に仕える蜷川親長や西岡の土豪・革嶋一宣、吉田神社の神官・吉田兼見とも縁戚であったと言われています。本能寺の変の前後、秦氏の流れを組むとも言われる、これら一族の暗躍があったように思えてなりません。
室町幕府の外交は、五山の僧が担ってきました。貿易や財務は僧侶に不向きだと、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配したのが、土倉や酒屋と呼ばれた商人たち。吉田宗桂は、天龍寺の塔頭・妙智院住持の策彦周良と二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。
哲学の道もまだ二分咲き程度でしょうか。

2009年03月26日
2008年04月05日
背割堤の桜 八幡市

京阪八幡市駅をおりて京阪電車踏み切りを北へ行くこと徒歩5分、東高野街道の起点に当り、木津川に架かるのが御幸橋。京からの旅人は桂川・宇治川を下り、この御幸橋を起点に、高野山へと向ったと申します。木津川、宇治川、桂川の三川合流地にあり、男山の山裾から木津川と宇治川を渡って京都市の南端、淀に通じておりまする。御幸橋は男山に鎮座する石清水八幡宮への参道で、朝廷からの使者がこの橋を渡り、御幸道などと呼ばれていたことに由来するのだとか。

京都と大阪の境、天王山と男山に挟まれた地で宇治・木津・桂というそれぞれ大きな川が合わさり、淀川となるのですが、宇治・木津の二川は背割堤という1km以上もある長大な堤を隔てて流れていて、この堤は大きな川の合流をスムーズにし出水時の危険を減らすためのもので、二川の堤を兼ねているのでございます。その背割堤の桜は今では名所となってまいりました。

かつて淀の地には秀吉が愛妾・淀君のために築いた城と、江戸期の淀藩の城がございました。城には巨大な水車によって水が入れられ、永らく名物であったと申します。堤からは豊臣秀吉軍と明智光秀軍との山崎合戦が行われたあの天下分け目の「天王山」が望めたり、その時、・日和見・を決め込んだとされる筒井順慶の洞ヶ峠なども。西国から京都に物資を運ぶ場合、瀬戸内の海を海洋船で縦断し、いったん摂津兵庫の港に入り、ここで川舟に物資を移し変えてから、淀川を遡ったと申します。この淀川水運や木津川水運は、河川水運として国内最大の規模を誇っていたのでございます。水の要衝であり京・大阪間の交通の要衝でもある三川合流地点は、歴史ロマンを今に伝える地でもございます。

2008年04月02日
夜の木屋町通り
木屋町通は二条通から七条通に至るまでの高瀬川の東側に平行している通り。なぜ木屋町と呼ぶのかと言うと、高瀬舟が運ぶ、材木、薪炭を商いとする店が建ち並んでいたことに由来するのだとか。木屋町通には桜の隣に所々柳が植えてあります。これはかつてなさぬ仲の男女の心中が多かったことから魔よけに植えられているとも申します。 「見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」(古今和歌集・素性法師)

豊臣秀吉が東山の方広寺の大仏殿と大仏建立のさい、建築に必要な資材を運ぶために角倉了以につくらせた運河が高瀬川でございます。その名は、京都・伏見間の物資の輸送に使われた高瀬舟に由来しています。高瀬川には、舟の積荷の上げ下ろしのための「舟入」(ふないり・船たまり所)がところどころに設けられておりました。


豊臣秀吉が東山の方広寺の大仏殿と大仏建立のさい、建築に必要な資材を運ぶために角倉了以につくらせた運河が高瀬川でございます。その名は、京都・伏見間の物資の輸送に使われた高瀬舟に由来しています。高瀬川には、舟の積荷の上げ下ろしのための「舟入」(ふないり・船たまり所)がところどころに設けられておりました。

2008年03月30日
伏見桃山・お城の桜!
2003年に伏見桃山城キャッスルランドが、経営母体である近鉄のリストラの一環として閉園となって以降同所は、市営の運動公園となり、07にオープンしましたが、模擬天守閣は( 昭和に鉄筋コンクリートで建てられたもの)、老朽化で内部非公開となっております。29日、30日にはイベントのため久しぶりに城門が開かれました。天守閣の前の桜が咲き始めておりました。満開の時期に見れないのは残念ですね。

はじめ伏見城は豊臣秀吉によって、指月山に造られましたが、その後、震災のため木幡山に移されました。関ヶ原の戦いの際、家康の家臣鳥居元忠らが守っていたのですが、石田方に攻められ焼失(伏見城の戦い)。徳川期に同所に再建されましたが、その後廃城となりました。廃城後はその建造物及び部材が各地に移築されております。廃城後、城郭の一帯は桃畑として開墾されたため桃山と呼ばれ、「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称はこの通称から取られたものと申します。また、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家だそうです。

伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は通常、立入を禁じられております。廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築されました。有名なものでは二条城や常寂光寺などがあり、石垣 淀城(伏見区) 、大阪城(大阪府大阪市) 、城門 御香宮神社(伏見区)表門(大手門を移築) 西本願寺(下京区)唐門 二尊院(右京区)総門 観音寺(上京区)山門 などがあります。


はじめ伏見城は豊臣秀吉によって、指月山に造られましたが、その後、震災のため木幡山に移されました。関ヶ原の戦いの際、家康の家臣鳥居元忠らが守っていたのですが、石田方に攻められ焼失(伏見城の戦い)。徳川期に同所に再建されましたが、その後廃城となりました。廃城後はその建造物及び部材が各地に移築されております。廃城後、城郭の一帯は桃畑として開墾されたため桃山と呼ばれ、「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称はこの通称から取られたものと申します。また、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家だそうです。

伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は通常、立入を禁じられております。廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築されました。有名なものでは二条城や常寂光寺などがあり、石垣 淀城(伏見区) 、大阪城(大阪府大阪市) 、城門 御香宮神社(伏見区)表門(大手門を移築) 西本願寺(下京区)唐門 二尊院(右京区)総門 観音寺(上京区)山門 などがあります。

2008年02月27日
近衛邸前のしだれ桜
京都御苑で最も早咲きの桜が近衛邸前にある約30本の枝垂れ桜でございます。近衛家は摂政・関白を輩出する家柄である五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)の筆頭の位置にありました。応仁の乱までの邸宅跡が御苑内の最北にございます。


応仁の乱で屋敷が焼失したのちは、約1㎞北(現在は同志社大新町キャンパスの一部)に近衛殿を再建いたしますが、その規模は、敷地が南北約50mと意外と小さかったことが2004年の発掘調査で分かり、戦国期に荘園収入の減少など公家の財力は衰え、大邸宅を維持できなかった様子がうかがえるといいます。

さて朝廷最高の官職の家柄に生まれ、戦国時代から安土桃山時代を生きた近衛前久卿(このえ・さきひさ、1536~1612)は、京都において織田信長のために「朝廷工作」をおこなったり、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献するなど、天下取りに力を貸します。秀吉が近衛家の養子となって、「藤原(近衛)秀吉」となり、さらに「豊臣姓」を朝廷から秀吉に送った影にも前久卿の暗躍があったと申します。家康とは叙任、徳川改称について朝廷に斡旋するなどの役割を果たしたのでございます。


応仁の乱で屋敷が焼失したのちは、約1㎞北(現在は同志社大新町キャンパスの一部)に近衛殿を再建いたしますが、その規模は、敷地が南北約50mと意外と小さかったことが2004年の発掘調査で分かり、戦国期に荘園収入の減少など公家の財力は衰え、大邸宅を維持できなかった様子がうかがえるといいます。

さて朝廷最高の官職の家柄に生まれ、戦国時代から安土桃山時代を生きた近衛前久卿(このえ・さきひさ、1536~1612)は、京都において織田信長のために「朝廷工作」をおこなったり、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献するなど、天下取りに力を貸します。秀吉が近衛家の養子となって、「藤原(近衛)秀吉」となり、さらに「豊臣姓」を朝廷から秀吉に送った影にも前久卿の暗躍があったと申します。家康とは叙任、徳川改称について朝廷に斡旋するなどの役割を果たしたのでございます。
2008年02月20日
戦国時代のお風呂!革堂、京都のおへそ?六角堂
烏丸六角を東に入るとオフィスビルの谷間に六角堂はあります。正しくは紫雲山頂法寺といい、聖徳太子開基のお寺と申しますが、ここの御幸桜は見事です。やはり和傘のような六角形でございます。ここは京都の真ん中といわれており、それをあらわす「おへその石」もございます。

さて、この六角堂は室町時代から戦国期にかけては、下京の町衆の連帯の町堂となっていたようでございます。それに対して上京町衆の集結の場は当時一条小川にあったとされる革堂・行願寺(現在は寺町二条上がる)でございました。これらの二つの町堂では、必要に応じて合議がなされ、兵乱や一揆、天災などの有事の際には鐘を鳴らして町中へ有事を知らせたと申します。天文元年(1532)の天文法華一揆では、革堂や六角堂の鐘が鳴らされ、法華衆や町衆の軍勢が山崎の一向衆を焼き討ちに出陣しており、その鐘の音は「終夜終日耳に針する」ようであった(「二水記」天文元年九月二十六日条)とも伝えられております。
洛中洛外図屏風上杉本・京都アスニー陶板より
「室町幕府がきちんとしているときには、治安維持は幕府の役人がやるべき仕事ですが、洛中を戦場にしてしまった応仁の乱以降は、自分たちの生活や経営、そして祇園まつりをはじめとした文化でさえも自分たちの手で守らねばならなくなりました。それは町、町組から惣町という自治共同体として発展し、各町に木戸や番屋惣町を囲う矢倉・惣木戸なども構築され、夜にはそれが閉ざされ不審者を入れないようにした」(洛中洛外の光と影・横田冬彦氏)と申します。六角堂や革堂はその惣町の町衆の結集拠点となっていたのでございます。下京には中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・巽組(たつみぐみ)・艮組(うしとらぐみ)・七町半組(しちちょうはんぐみ)。上京にも立売組(たちうりぐみ)、一条組(いちじょうぐみ)・中筋組(なかすじぐみ)・小川組(おがわぐみ)・川より西組(かわよりにしぐみ)の五つの町組がございました。 町組の運営は,十名の総代が担当し、総代には富裕な経済力をもつ酒屋・土倉(どそう)などの有力町衆が就任したと申します。
一条革堂 ふろ 京都アスニー陶板より
さてその革堂に隣接したところには風呂屋があったようで、洛中洛外図屏風・上杉本や町田本にその様子がうかがえます。山科言継のしるした言継卿記にも「正親町・烏丸弁来らる、同道し、河(革)堂へ風呂へ入らる、予、誘引せらるの間、罷り了・永禄十一年四月二十三日条」とあり、公家たちも誘い合って行っていたようで、町衆たちとともに入浴習慣がこの頃からできていったようでございます。はてさて公家衆と町衆の裸のつきあいがあったのでしょうか?

さて、この六角堂は室町時代から戦国期にかけては、下京の町衆の連帯の町堂となっていたようでございます。それに対して上京町衆の集結の場は当時一条小川にあったとされる革堂・行願寺(現在は寺町二条上がる)でございました。これらの二つの町堂では、必要に応じて合議がなされ、兵乱や一揆、天災などの有事の際には鐘を鳴らして町中へ有事を知らせたと申します。天文元年(1532)の天文法華一揆では、革堂や六角堂の鐘が鳴らされ、法華衆や町衆の軍勢が山崎の一向衆を焼き討ちに出陣しており、その鐘の音は「終夜終日耳に針する」ようであった(「二水記」天文元年九月二十六日条)とも伝えられております。

「室町幕府がきちんとしているときには、治安維持は幕府の役人がやるべき仕事ですが、洛中を戦場にしてしまった応仁の乱以降は、自分たちの生活や経営、そして祇園まつりをはじめとした文化でさえも自分たちの手で守らねばならなくなりました。それは町、町組から惣町という自治共同体として発展し、各町に木戸や番屋惣町を囲う矢倉・惣木戸なども構築され、夜にはそれが閉ざされ不審者を入れないようにした」(洛中洛外の光と影・横田冬彦氏)と申します。六角堂や革堂はその惣町の町衆の結集拠点となっていたのでございます。下京には中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・巽組(たつみぐみ)・艮組(うしとらぐみ)・七町半組(しちちょうはんぐみ)。上京にも立売組(たちうりぐみ)、一条組(いちじょうぐみ)・中筋組(なかすじぐみ)・小川組(おがわぐみ)・川より西組(かわよりにしぐみ)の五つの町組がございました。 町組の運営は,十名の総代が担当し、総代には富裕な経済力をもつ酒屋・土倉(どそう)などの有力町衆が就任したと申します。

さてその革堂に隣接したところには風呂屋があったようで、洛中洛外図屏風・上杉本や町田本にその様子がうかがえます。山科言継のしるした言継卿記にも「正親町・烏丸弁来らる、同道し、河(革)堂へ風呂へ入らる、予、誘引せらるの間、罷り了・永禄十一年四月二十三日条」とあり、公家たちも誘い合って行っていたようで、町衆たちとともに入浴習慣がこの頃からできていったようでございます。はてさて公家衆と町衆の裸のつきあいがあったのでしょうか?
2008年02月08日
いちおし「疎水の桜」
観光の方より、どちらかというと京都市民によって愛されてきたのが、市内各所で見られる「疎水の桜」です。高野川の西岸にある松ヶ崎浄水場と植物園の南で賀茂川と結ぶ白川疎水通りに沿い流れる松ヶ崎疎水。また大正時代、京都帝国大学の哲学者・河上肇・田辺元・西田幾多郎などが思索にふけりながら散策したということから名づけられたという銀閣寺と若王子神社をつなぐ水路沿いの遊歩道、それが哲学の道。画家・橋本関雪の夫人が植えた500本の染井吉野が、疎水を覆うように咲き乱れます。その道沿いに北上、高野川を経て加茂川に至る疎水分線。岡崎と十石舟が運航する南禅寺船溜り近辺。琵琶湖疎水はトンネルで東山の下を流れ、そこを抜けると山科の北部に出ますが、山科の疎水べりの桜も見事です。

琵琶湖疎水は、琵琶湖の湖水を、京都市へ運ぶために作られた水路でございます。営業発電として日本で初めての水力発電も行われ、日本初の路面電車が京都に開業したのもこの琵琶湖疏水の電力によるものでございました。明治期に、首都機能が東京に移ってしまって京都は衰退の一途をたどろうとしていたその頃、田辺朔朗はじめ、いかに京都の美しい風景を壊さず、新しい産業を興すかにその生命をささげた人達がいたと申します。京都市民のエネルギー源であり、運河、上水道として生まれたのが・琵琶湖疎水・でございます。

さて、その昔、鴨川を有し、地下水も豊富な京都ですが、日照りが続くと、農業用水はもとより飲水にも事欠くことがしばしばであったと申します。また、北陸や近江からの貨物運搬は、大津から途中、東海道の急な逢坂山や日ノ岡峠の山越えを要しました。荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰も京の町衆を苦しめます。琵琶湖から京の都に水を引き、その水路を利用して船運を起こすとともに、田畑を潤すことは、長年の悲願。古くは、平清盛・織田信長・豊臣秀吉といった、ときの覇者も構想していたとも申しますが、しかし、いずれも実現されなかったのでございます。太閤・秀吉が伏見に城を築き拠点としたのも、伏見なら宇治川のたっぷりした水利があるからで、もし鴨川に豊富な流量があれば、この風光明媚の地に拠点を構えたのではないかといわれており、当時から鴨川は水源からして水枯れだったのでございます。


琵琶湖疎水は、琵琶湖の湖水を、京都市へ運ぶために作られた水路でございます。営業発電として日本で初めての水力発電も行われ、日本初の路面電車が京都に開業したのもこの琵琶湖疏水の電力によるものでございました。明治期に、首都機能が東京に移ってしまって京都は衰退の一途をたどろうとしていたその頃、田辺朔朗はじめ、いかに京都の美しい風景を壊さず、新しい産業を興すかにその生命をささげた人達がいたと申します。京都市民のエネルギー源であり、運河、上水道として生まれたのが・琵琶湖疎水・でございます。

さて、その昔、鴨川を有し、地下水も豊富な京都ですが、日照りが続くと、農業用水はもとより飲水にも事欠くことがしばしばであったと申します。また、北陸や近江からの貨物運搬は、大津から途中、東海道の急な逢坂山や日ノ岡峠の山越えを要しました。荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰も京の町衆を苦しめます。琵琶湖から京の都に水を引き、その水路を利用して船運を起こすとともに、田畑を潤すことは、長年の悲願。古くは、平清盛・織田信長・豊臣秀吉といった、ときの覇者も構想していたとも申しますが、しかし、いずれも実現されなかったのでございます。太閤・秀吉が伏見に城を築き拠点としたのも、伏見なら宇治川のたっぷりした水利があるからで、もし鴨川に豊富な流量があれば、この風光明媚の地に拠点を構えたのではないかといわれており、当時から鴨川は水源からして水枯れだったのでございます。

2008年02月04日
2008年02月03日
府庁の中庭
創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものといわれる、重要文化財指定の京都府庁の旧本館。現在も府の施設として利用されていますが、ここの中庭には、大きなシダレザクラが毎年、美しく花開きます。昔の欧風建築とマッチしてなかなか見事ですよ!


2008年01月31日
夜桜の名所
平野神社の歴史は古く、延暦十三年(794年)平安遷都と同時に建立されたと申します。当初境内地は方八町余(平安尺で1.5キロメートル四方)で、現在の京都御所とほぼ同じでしたが、時の変遷と共に現在の200m弱四方となりました。江戸時代の初期にはすでに「平野の夜桜」として全国に知られ、特に珍種が多く現在も約50種約400本の桜が植栽されています。
京都の花見の季節のおとずれをしらせる魁桜花。白色の一重で、葉が茂ると 同時に開花し、目の覚めるような風情の寝覚桜。淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるかのごとき胡蝶桜。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添う平野妹背桜。他にも虎の尾、御衣黄、手弱女、松月と見ごたえがございます。

昔の平野社は今とずいぶんと様子がちがったようで、平野神社社頭絵図には、三重塔の姿もみられます。
京都の花見の季節のおとずれをしらせる魁桜花。白色の一重で、葉が茂ると 同時に開花し、目の覚めるような風情の寝覚桜。淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるかのごとき胡蝶桜。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添う平野妹背桜。他にも虎の尾、御衣黄、手弱女、松月と見ごたえがございます。

昔の平野社は今とずいぶんと様子がちがったようで、平野神社社頭絵図には、三重塔の姿もみられます。

2008年01月20日
わたしゃお多福・・・
仁和寺は宇多天皇の退位後の御所として以来、御室(おむろ)と呼ばれております。「わたしゃお多福、御室の桜、鼻が低ても人が好く」と川柳にも詠われたくらい有名な御室桜が桜の季節の最後を彩ります。真言宗御室派の総本山として名高い仁和寺は、応仁の乱で伽藍が全焼し、一時衰退していましたが、寛永期に徳川家光によって、寄進され伽藍が整備されました。かの桂昌院と亮賢の予言伝説が残るのもこの寺でございます。果たして真実はいかに?

