2009年11月26日
紅葉情報 嵯峨野
紅葉真っ盛り、ここ嵯峨野は何度来ても、やっぱりすばらしい。今週末までは十分見ごたえがありそうです。
さて、常寂光寺、厭離庵、二尊院に祇王寺、直指庵に大河内山荘などなど、数多の紅葉の名所で有名な嵯峨野は、実は、京都盆地の西北方、太秦広隆寺を中心として、北は北嵯峨の丘陵、東は双ケ丘、西は小倉山、南は桂川(大堰川)までの広大な地域をさします。
このあたりは古代、秦氏の生活圏であったといわれ、嵯峨野とこれ以東、現在の京都市北区の白梅町附近までがその範囲であったといわれています。 昭和の初期までは葛野(かどの)郡と呼ばれてていました。

写真の清凉寺は、浄土宗の寺院。山号を五台山と称します。別名・嵯峨釈迦堂とも。。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)は弟子の盛算(じょうさん)です。中世以降は「融通念仏の道場」としても知られています。
もともとここには、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(実はこの人、源氏物語の光源氏のモデルとの説もあるのですが)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったといいます。
十世紀に入って、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいました。
奝然は、宋へ渡航中、台州の開元寺で、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻した釈迦如来像を謹刻させました。釈迦像は、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれて今日に至っています。(現在は霊宝館に安置)
この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。像の胎内からは、奝然の遺品、仏教版画などが発見され、像とともに国宝に指定されています。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目されるのだとか。
奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとしました。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置し、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に南都系の旧仏教の拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたといいます。

「五台山」の額を潜り抜け仁王門を入ると、本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた阿弥陀堂があり、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されているのも特徴的です。また、本堂西側には南向きの薬師寺があります。現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建です。多宝塔、聖徳太子殿、春には京都三大念仏の一つが催される狂言堂、一切経蔵(輪蔵)などがあります。

さてここには、もう一つ興味ある伝承があります。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある小野篁(おのたかむら・小野小町の祖父)。篁は、乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったといいますが、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとされることで有名ですね。
この篁が行き来したという冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」ですが、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝えられています。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が建っています。
さて、常寂光寺、厭離庵、二尊院に祇王寺、直指庵に大河内山荘などなど、数多の紅葉の名所で有名な嵯峨野は、実は、京都盆地の西北方、太秦広隆寺を中心として、北は北嵯峨の丘陵、東は双ケ丘、西は小倉山、南は桂川(大堰川)までの広大な地域をさします。
このあたりは古代、秦氏の生活圏であったといわれ、嵯峨野とこれ以東、現在の京都市北区の白梅町附近までがその範囲であったといわれています。 昭和の初期までは葛野(かどの)郡と呼ばれてていました。

写真の清凉寺は、浄土宗の寺院。山号を五台山と称します。別名・嵯峨釈迦堂とも。。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)は弟子の盛算(じょうさん)です。中世以降は「融通念仏の道場」としても知られています。
もともとここには、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(実はこの人、源氏物語の光源氏のモデルとの説もあるのですが)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったといいます。
十世紀に入って、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいました。
奝然は、宋へ渡航中、台州の開元寺で、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻した釈迦如来像を謹刻させました。釈迦像は、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれて今日に至っています。(現在は霊宝館に安置)
この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。像の胎内からは、奝然の遺品、仏教版画などが発見され、像とともに国宝に指定されています。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目されるのだとか。
奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとしました。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置し、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に南都系の旧仏教の拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたといいます。

「五台山」の額を潜り抜け仁王門を入ると、本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた阿弥陀堂があり、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されているのも特徴的です。また、本堂西側には南向きの薬師寺があります。現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建です。多宝塔、聖徳太子殿、春には京都三大念仏の一つが催される狂言堂、一切経蔵(輪蔵)などがあります。

さてここには、もう一つ興味ある伝承があります。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある小野篁(おのたかむら・小野小町の祖父)。篁は、乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったといいますが、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとされることで有名ですね。
この篁が行き来したという冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」ですが、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝えられています。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が建っています。
2009年11月13日
紅葉情報・大原野
京都市西京区の一地区。京都盆地西縁の小塩山山麓に広がる一帯は、水利に乏しく、竹林に利用され、タケノコの産出が多いことでも知られています。「花の寺」で知られた勝持寺、長岡京遷都の際、藤原氏が奈良の春日大社を勧請した大原野神社のほか、小塩山中腹には金蔵寺、三鈷寺、善峰寺などがあります。
平安以前のいにしえをも伝える土地柄でもあります。今回の史跡勉強会では、花の寺・勝持寺と大原野神社、正法寺、竹林公園などに行きました。とりあえず写真ダイジェストでどうぞ。
勝持寺


大原野神社


竹林公園
平安以前のいにしえをも伝える土地柄でもあります。今回の史跡勉強会では、花の寺・勝持寺と大原野神社、正法寺、竹林公園などに行きました。とりあえず写真ダイジェストでどうぞ。
勝持寺


大原野神社


竹林公園

2009年11月05日
紅葉情報・粟生光明寺
長岡京市西山の麓、粟生広谷にある西山浄土宗の総本山光明寺は、法然上人が43歳の時、日本で最初に念仏の産声をあげた立教開宗の地です。紅葉の名所として知られ、今年はJR東海のCMに取り上げられているのもこのお寺です。
すでに紅葉が色づき始めていました。私も初めて行きましたが、それは見事ですよ!

法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
茂右衛門夫婦は法然の旅の目的が「広く大衆が救われる道を求めての旅」と聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願った。時は流れ承安五年(1175年)3月、浄土宗を開いた法然は20年前の約束通り、粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたのだといいます。

文治元年(1185年)に、かの源平合戦・一の谷の戦いで、源義経の奇襲部隊に所属し、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた弓の名手がおりました。名を熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)といいます。
平家物語の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性や世の無常観を表現する題材として武士の間で好まれ、直実は敦盛とともに主人公として、能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」などにに取り上げられています。
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
その時、法然が説いた「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜した直実は、直ちに弟子となり剃髪したといいます。
法力房蓮生と名付けられた直実は、数年の修行の後、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を得たのだそうです。これが光明寺の発祥といいます。
では光明寺の名の由来はというと……。
「第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人が没しました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとしたので、法然の遺弟達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました」(光明寺縁起より)と伝承されています。
すでに紅葉が色づき始めていました。私も初めて行きましたが、それは見事ですよ!

法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
茂右衛門夫婦は法然の旅の目的が「広く大衆が救われる道を求めての旅」と聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願った。時は流れ承安五年(1175年)3月、浄土宗を開いた法然は20年前の約束通り、粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたのだといいます。

文治元年(1185年)に、かの源平合戦・一の谷の戦いで、源義経の奇襲部隊に所属し、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた弓の名手がおりました。名を熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)といいます。
平家物語の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性や世の無常観を表現する題材として武士の間で好まれ、直実は敦盛とともに主人公として、能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」などにに取り上げられています。
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
その時、法然が説いた「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜した直実は、直ちに弟子となり剃髪したといいます。
法力房蓮生と名付けられた直実は、数年の修行の後、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を得たのだそうです。これが光明寺の発祥といいます。
では光明寺の名の由来はというと……。
「第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人が没しました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとしたので、法然の遺弟達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました」(光明寺縁起より)と伝承されています。