2011年02月14日
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂
平安後期、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行った。約30年の間、院政を行った後白河上皇が、法住寺殿(ほうじゅうじどの)と呼ばれる院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛に命じて創建させたのが三十三間堂である。
当時は、他に五重塔、不動堂などの諸堂を整備し、北は七条通、南は泉湧寺通り、西は大和大路通り、東は東山山麓付近までの広大な地域をしめていた。
その後、焼失、再建、修復を繰り返され、桃山時代には、天下人となった豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたことから、再び歴史の舞台へと引きずり出されることとなった。秀吉没後は、天台宗妙法院の管理下に置かれている。
現在、周辺には、妙法院、智積院、養源院、豊国神社、方広寺、耳塚、七条仏所跡、正面通りと貴重な文化遺産や当時の歴史を物語る曰くのある寺社などがあり、一大観光スポットとなっている。

国宝 三十三間堂
開門時間 8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)
駐車場は、東門から警備員の誘導に従って入場する。拝観券売り場の前が無料駐車場となっている。
妙法院を本坊とする蓮華王院の本堂が通称「三十三間堂」と呼ばれる。南北にのびる内陣の柱間が三十三あるからである。
ちなみに三十三という数字は、観音菩薩は、苦難に遭遇している数多の衆生を救うために、相手に応じて 三十三の姿に変化するからだ。柱間の数もこれにあわせたもので、また観音霊場が三十三所となっているのもこれによる。
奥行き22m、地上16m、南北120m、入母屋造り本瓦葺き。

基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する「版築・はんちく」を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁・にじゅうこうりょう」とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固に造られている。
構架材の柱や長押、梁は地震や災害などの「揺れ」を予測しており、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む「羽目板・はめいた」がなされ、本堂は波に揺れて浮ぶ筏のごとく揺れを吸収する免震工法が施こされている。

三十三間堂発行絵葉書より
重文 千体千手観音立像 (せんたいせんじゅかんのんりゅうぞう)
前後10列の階段状の壇上に、等身大の1000体の観音立像が整然と並ぶ。各像は、頭上に十一の顔と両脇に四十手をもつ通形で、中尊の千手千眼観音坐像と同様の造像法で作られている。
124体は平安期の尊像で本堂焼失の際にも難を逃れた。その他が、鎌倉期にかけて再興された像である。
約500体には作者名が残され、運慶、快慶を輩出した慶派をはじめ、院派、円派も含め、国家的規模で70人もの、仏所の仏師たちが名を連ねる。166㎝前後の寄木造である。
観音像の中には、すでにこの世にいない人のうち、会いたい人に似た像が必ずあるとも伝えられている。

三十三間堂発行絵葉書より

三十三間堂発行絵葉書より
風神・雷神
観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の尊像が千体観音像の前に安置されている。
古代インドに起源をもつ神々で千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされる。天衣の女神や甲冑をつけた神将、動物や楽器を神格化したものなど変化に富む。
これらは、檜材の寄木造り、玉眼を用いた彩色像で、鎌倉彫刻の傑作である。
風神と雷神は インド最古の聖典とされる「リグ・ヴェーダ」に登場する神々である。その名が示すように風と雷を神格化したもの。風の袋を両肩に回し担いだ風神は、「ヴァーユ」と呼ばれ、馬車で天を駆け、悪神を追い払い、人々に富と名誉を授ける神とされている。後背に小太鼓の輪を担いだ雷神は、「ヴァルナ」という水の神である。
仏教では、仏法を守り、悪をこらしめ、善を勧めて風雨を調(ととのえる)神だと信じられているのだとか。俵屋宗達が描いた風神雷神図屏風はこれがモデルと言われる。



三十三間堂発行絵葉書より
国宝 千手観音坐像(こくほう せんじゅかんのんざぞう)
左右の千手観音立像や二十八部衆の中央に安置されているのが、中尊と呼ばれる丈六の坐像、千手観音坐像である。
像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。
十一面四十二臂 (手)の通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師・湛慶(たんけい)が、84歳で没する2年前に慶派の弟子たちを率いて完成させたものだ。鎌倉後期の代表的作品である。
温雅な表情 像の均整が保たれ、重厚感ののある尊顔は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現するという。
42本の手の内2本は胸前で合掌し、他の2本は腹前で組み合わせて宝鉢(ほうはつ)を持つ(宝鉢手)。他の38本の脇手にはそれぞれ法輪、錫杖(しゃくじょう)、水瓶(すいびょう)など様々な持物(じもつ)を持つ。
千手観音のはなし
「十一面千手観音」「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」「千手千臂(せんぴ)観音)」など様々な呼び方がある。観音菩薩の変化身である。
観音とは 「遠くの音を聞く」 という意味であり、遠くというのは、物理的距離を指すのではなく、ありとあらゆる次元、人の心の奥や、物事の真実を観るという意味である。 したがって「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされ、千本の手は、すべてを見通し、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
密教の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮華王院(京都の三十三間堂の正式名称)の名はこれに由来する。
坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂(手)にて千手を表現するものが一般的である 。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。「25の世界」とは、天上界から地獄まで25の世界があるという仏教の「三界二十五有(う)」のこと。
ちなみに俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指すという。

四天王のはなし
三十三間堂の千手観音を始め、釈迦三尊像など本尊の尊名に関係なく 、メインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。
須弥山の頂上の宮殿に住む帝釈天の部下として、自身も龍神、夜叉、羅刹を始めとする多数の眷属 (けんぞく・配下)を従えて四方の門を守っている。
東・持国天、南・増長天、西・広目天、北・多聞天(毘沙門天)を固める方位の守護神 である。(とんなんしゃぺじぞうこうたと覚えよう)持物は様々であり剣・鉾・戟・宝塔・宝棒等を持つが広目天は巻子と筆を、多聞天は宝塔を持つ場合が多い 。
太閤秀吉と三十三間堂

当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため(諸説ある・注1)奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、本堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重要文化財)が残る。
本堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続いた。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたという。 秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、三十三間堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営された。
注1、惣無事令(そうぶじれい)において大名間の私闘を禁じ、刀狩と太閤検地、海賊禁止令などで農村部他の武装を解き、統制を敷いた秀吉は天下支配の手段として宗教統制にものりだした。当時、奈良の大仏は再建されておらず、秀吉は京の都に諸宗の中枢となるべき大仏殿を築き、その千僧供養においては、主たる宗派からは百人ずつ、千人の僧を出仕させ、忠節の値踏みとしたのである。
これにより比叡山や本願寺を徹底的に攻撃し武装解除した信長を引き継ぎ、金剛峯寺(木食応其の斡旋)、根来寺(攻撃)を武装解除した秀吉がさらに宗教勢力の牙を抜いて、天下人秀吉の前に屈伏させたと言われる。

通し矢と矢数帳
いつごろから始まったのかは分かっていない。桃山時代には、すでに行なわれたと伝えられる。
「通し矢・とおしや」は、本堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射」「千射」等があった。今でも、当時の矢傷を庇や柱に見ることができる。
江戸時代になると、殊に町衆に人気を博したのが、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競う「大矢数・おおやかず」で、御三家の尾張藩と紀州藩による功名争いは、さらに人気に拍車をかけ、京都の名物行事となった。
「矢数帳」には、通し矢法を伝承した〈日置六流・へきろくりゅう〉の江戸期の試技者氏名、月日、矢数などが編年で書き留められており、最高記録は、貞享3年(1686)4月、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳という)の総矢13,053本、通し矢8,133本であったという。仏像群の裏側の通路には、大きな扁額が展示されている。
現在、毎年の成人の日には、全国の新成人によって弓道大会が行われている。

方広寺大仏殿跡公園 方広寺の裏側
天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良の東大寺にならって大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。現在その場所は公園となっている。
文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。しかし、慶長元年(1596年)に起きた大地震により、開眼前の大仏は倒壊した。 慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。
境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂を含む、広大なものであったという。

正面通の分断
豊臣秀吉は、没後、神格化されるために、阿弥陀が峰に西向きに豊国廟(秀吉の墓)を建てさせ、そこから真西に向かって、ふもとに豊国神社、その西に、淀君との最初の子で早世した 鶴松を祀った祥雲寺、その西に、方広寺大仏殿、さらに真西に向かったところに、本願寺に土地を与えて、西向きに阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置した。正面通は、方広寺から、鴨川の正面橋を渡り、本願寺まで続いていた。
徳川家康は、豊臣秀吉の神格化をふせぐために、豊国廟、豊国神社を壊滅させ、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせ、祥雲寺を、秀吉が壊滅した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は妙法院の管理とした。さらに、方広寺と本願寺の間には、かつて秀吉が隠居させた教如に東本願寺を創建させ、本願寺を分裂し、東向きに阿弥陀堂を建てさせた。さらにその間に、東本願寺に土地を与え、渉成苑を建てさせたのである。
秀吉が神となって西方浄土へ赴く、また衆生が秀吉を参拝するとされた、豊国廟から本願寺の直線を、ことごとく分断したのはやはり家康であった。
しかし、江戸時代中期頃になってから、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面通」と称されるようになった。

方広寺銘鐘事件
慶長19年(1614年)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、梵鐘も完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。
家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させる。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。
この後、大坂夏の陣にて豊臣家は滅亡する。この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。


智 積 院
真言宗智山派の総本山である。阿弥陀ヶ峰を背景にして、諸堂伽藍立ち並ぶ 。
智積院には、桃山時代に長谷川等伯とその弟子達によって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残され「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」は国宝である。
また、大書院東側の名勝庭園は、桃山時代に造られた庭園で、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭である。豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺(智積院の前身の寺)時代に原形が造られた。
大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいる。その大書院より眺める庭園は、四季折々の美しさ特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぐ。
智積院は、鎌倉時代の中頃に、高野山から分かれた根来寺の塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院であった。
織豊時代、豊臣秀吉と対立することとなり、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰す。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都洛北に逃れた。
慶長6年(1601)、今度は徳川家康の命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、智積院が再興された。その後、秀吉が夭折した鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、境内伽藍が拡充された。再興された智積院の正式の名称は「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」という。

耳塚 豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)戦功の証として討ち取った、2万人分の朝鮮・明国兵の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であった。

七条仏所跡 河原町七条西入南側
平安時代中期の仏師(仏像彫刻家)定朝(じょうちょう)をはじめ、その一族・子孫(慶派)が居住して仏像製作をした「仏所」のあったところ。鎌倉時代に入って、この仏所から運慶、湛慶(たんけい)快慶ら相ついであらわれ、戦国時代には信長木像(大徳寺総見院)を造った康清などがいた。しかし、この仏所も21代康正のとき、豊臣秀吉の命で四条烏丸に移転した。その後、幕末の兵乱に火災にあい仏所の遺構は完全に失われた。
養源院
淀殿が創建して、江が再建した、豊臣ゆかりで徳川の菩提所である。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。
寺名は浅井長政の院号から採られた。秀吉の側室・淀殿が長政の供養のために成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建。その後、火災により焼失するが、今度は、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川家の菩提所となった。 本堂は伏見城の移築、鳥居元忠以下の血天井もある。
当時は、他に五重塔、不動堂などの諸堂を整備し、北は七条通、南は泉湧寺通り、西は大和大路通り、東は東山山麓付近までの広大な地域をしめていた。
その後、焼失、再建、修復を繰り返され、桃山時代には、天下人となった豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたことから、再び歴史の舞台へと引きずり出されることとなった。秀吉没後は、天台宗妙法院の管理下に置かれている。
現在、周辺には、妙法院、智積院、養源院、豊国神社、方広寺、耳塚、七条仏所跡、正面通りと貴重な文化遺産や当時の歴史を物語る曰くのある寺社などがあり、一大観光スポットとなっている。

国宝 三十三間堂
開門時間 8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)
駐車場は、東門から警備員の誘導に従って入場する。拝観券売り場の前が無料駐車場となっている。
妙法院を本坊とする蓮華王院の本堂が通称「三十三間堂」と呼ばれる。南北にのびる内陣の柱間が三十三あるからである。
ちなみに三十三という数字は、観音菩薩は、苦難に遭遇している数多の衆生を救うために、相手に応じて 三十三の姿に変化するからだ。柱間の数もこれにあわせたもので、また観音霊場が三十三所となっているのもこれによる。
奥行き22m、地上16m、南北120m、入母屋造り本瓦葺き。
基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する「版築・はんちく」を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁・にじゅうこうりょう」とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固に造られている。
構架材の柱や長押、梁は地震や災害などの「揺れ」を予測しており、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む「羽目板・はめいた」がなされ、本堂は波に揺れて浮ぶ筏のごとく揺れを吸収する免震工法が施こされている。

三十三間堂発行絵葉書より
重文 千体千手観音立像 (せんたいせんじゅかんのんりゅうぞう)
前後10列の階段状の壇上に、等身大の1000体の観音立像が整然と並ぶ。各像は、頭上に十一の顔と両脇に四十手をもつ通形で、中尊の千手千眼観音坐像と同様の造像法で作られている。
124体は平安期の尊像で本堂焼失の際にも難を逃れた。その他が、鎌倉期にかけて再興された像である。
約500体には作者名が残され、運慶、快慶を輩出した慶派をはじめ、院派、円派も含め、国家的規模で70人もの、仏所の仏師たちが名を連ねる。166㎝前後の寄木造である。
観音像の中には、すでにこの世にいない人のうち、会いたい人に似た像が必ずあるとも伝えられている。

三十三間堂発行絵葉書より
三十三間堂発行絵葉書より
風神・雷神
観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の尊像が千体観音像の前に安置されている。
古代インドに起源をもつ神々で千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされる。天衣の女神や甲冑をつけた神将、動物や楽器を神格化したものなど変化に富む。
これらは、檜材の寄木造り、玉眼を用いた彩色像で、鎌倉彫刻の傑作である。
風神と雷神は インド最古の聖典とされる「リグ・ヴェーダ」に登場する神々である。その名が示すように風と雷を神格化したもの。風の袋を両肩に回し担いだ風神は、「ヴァーユ」と呼ばれ、馬車で天を駆け、悪神を追い払い、人々に富と名誉を授ける神とされている。後背に小太鼓の輪を担いだ雷神は、「ヴァルナ」という水の神である。
仏教では、仏法を守り、悪をこらしめ、善を勧めて風雨を調(ととのえる)神だと信じられているのだとか。俵屋宗達が描いた風神雷神図屏風はこれがモデルと言われる。


三十三間堂発行絵葉書より
国宝 千手観音坐像(こくほう せんじゅかんのんざぞう)
左右の千手観音立像や二十八部衆の中央に安置されているのが、中尊と呼ばれる丈六の坐像、千手観音坐像である。
像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。
十一面四十二臂 (手)の通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師・湛慶(たんけい)が、84歳で没する2年前に慶派の弟子たちを率いて完成させたものだ。鎌倉後期の代表的作品である。
温雅な表情 像の均整が保たれ、重厚感ののある尊顔は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現するという。
42本の手の内2本は胸前で合掌し、他の2本は腹前で組み合わせて宝鉢(ほうはつ)を持つ(宝鉢手)。他の38本の脇手にはそれぞれ法輪、錫杖(しゃくじょう)、水瓶(すいびょう)など様々な持物(じもつ)を持つ。
千手観音のはなし
「十一面千手観音」「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」「千手千臂(せんぴ)観音)」など様々な呼び方がある。観音菩薩の変化身である。
観音とは 「遠くの音を聞く」 という意味であり、遠くというのは、物理的距離を指すのではなく、ありとあらゆる次元、人の心の奥や、物事の真実を観るという意味である。 したがって「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされ、千本の手は、すべてを見通し、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
密教の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮華王院(京都の三十三間堂の正式名称)の名はこれに由来する。
坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂(手)にて千手を表現するものが一般的である 。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。「25の世界」とは、天上界から地獄まで25の世界があるという仏教の「三界二十五有(う)」のこと。
ちなみに俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指すという。

四天王のはなし
三十三間堂の千手観音を始め、釈迦三尊像など本尊の尊名に関係なく 、メインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。
須弥山の頂上の宮殿に住む帝釈天の部下として、自身も龍神、夜叉、羅刹を始めとする多数の眷属 (けんぞく・配下)を従えて四方の門を守っている。
東・持国天、南・増長天、西・広目天、北・多聞天(毘沙門天)を固める方位の守護神 である。(とんなんしゃぺじぞうこうたと覚えよう)持物は様々であり剣・鉾・戟・宝塔・宝棒等を持つが広目天は巻子と筆を、多聞天は宝塔を持つ場合が多い 。
太閤秀吉と三十三間堂
当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため(諸説ある・注1)奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、本堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重要文化財)が残る。
本堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続いた。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたという。 秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、三十三間堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営された。
注1、惣無事令(そうぶじれい)において大名間の私闘を禁じ、刀狩と太閤検地、海賊禁止令などで農村部他の武装を解き、統制を敷いた秀吉は天下支配の手段として宗教統制にものりだした。当時、奈良の大仏は再建されておらず、秀吉は京の都に諸宗の中枢となるべき大仏殿を築き、その千僧供養においては、主たる宗派からは百人ずつ、千人の僧を出仕させ、忠節の値踏みとしたのである。
これにより比叡山や本願寺を徹底的に攻撃し武装解除した信長を引き継ぎ、金剛峯寺(木食応其の斡旋)、根来寺(攻撃)を武装解除した秀吉がさらに宗教勢力の牙を抜いて、天下人秀吉の前に屈伏させたと言われる。
通し矢と矢数帳
いつごろから始まったのかは分かっていない。桃山時代には、すでに行なわれたと伝えられる。
「通し矢・とおしや」は、本堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射」「千射」等があった。今でも、当時の矢傷を庇や柱に見ることができる。
江戸時代になると、殊に町衆に人気を博したのが、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競う「大矢数・おおやかず」で、御三家の尾張藩と紀州藩による功名争いは、さらに人気に拍車をかけ、京都の名物行事となった。
「矢数帳」には、通し矢法を伝承した〈日置六流・へきろくりゅう〉の江戸期の試技者氏名、月日、矢数などが編年で書き留められており、最高記録は、貞享3年(1686)4月、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳という)の総矢13,053本、通し矢8,133本であったという。仏像群の裏側の通路には、大きな扁額が展示されている。
現在、毎年の成人の日には、全国の新成人によって弓道大会が行われている。
方広寺大仏殿跡公園 方広寺の裏側
天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良の東大寺にならって大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。現在その場所は公園となっている。
文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。しかし、慶長元年(1596年)に起きた大地震により、開眼前の大仏は倒壊した。 慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。
境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂を含む、広大なものであったという。
正面通の分断
豊臣秀吉は、没後、神格化されるために、阿弥陀が峰に西向きに豊国廟(秀吉の墓)を建てさせ、そこから真西に向かって、ふもとに豊国神社、その西に、淀君との最初の子で早世した 鶴松を祀った祥雲寺、その西に、方広寺大仏殿、さらに真西に向かったところに、本願寺に土地を与えて、西向きに阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置した。正面通は、方広寺から、鴨川の正面橋を渡り、本願寺まで続いていた。
徳川家康は、豊臣秀吉の神格化をふせぐために、豊国廟、豊国神社を壊滅させ、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせ、祥雲寺を、秀吉が壊滅した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は妙法院の管理とした。さらに、方広寺と本願寺の間には、かつて秀吉が隠居させた教如に東本願寺を創建させ、本願寺を分裂し、東向きに阿弥陀堂を建てさせた。さらにその間に、東本願寺に土地を与え、渉成苑を建てさせたのである。
秀吉が神となって西方浄土へ赴く、また衆生が秀吉を参拝するとされた、豊国廟から本願寺の直線を、ことごとく分断したのはやはり家康であった。
しかし、江戸時代中期頃になってから、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面通」と称されるようになった。

方広寺銘鐘事件
慶長19年(1614年)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、梵鐘も完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。
家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させる。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。
この後、大坂夏の陣にて豊臣家は滅亡する。この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。

智 積 院
真言宗智山派の総本山である。阿弥陀ヶ峰を背景にして、諸堂伽藍立ち並ぶ 。
智積院には、桃山時代に長谷川等伯とその弟子達によって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残され「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」は国宝である。
また、大書院東側の名勝庭園は、桃山時代に造られた庭園で、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭である。豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺(智積院の前身の寺)時代に原形が造られた。
大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいる。その大書院より眺める庭園は、四季折々の美しさ特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぐ。
智積院は、鎌倉時代の中頃に、高野山から分かれた根来寺の塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院であった。
織豊時代、豊臣秀吉と対立することとなり、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰す。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都洛北に逃れた。
慶長6年(1601)、今度は徳川家康の命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、智積院が再興された。その後、秀吉が夭折した鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、境内伽藍が拡充された。再興された智積院の正式の名称は「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」という。
耳塚 豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)戦功の証として討ち取った、2万人分の朝鮮・明国兵の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であった。
七条仏所跡 河原町七条西入南側
平安時代中期の仏師(仏像彫刻家)定朝(じょうちょう)をはじめ、その一族・子孫(慶派)が居住して仏像製作をした「仏所」のあったところ。鎌倉時代に入って、この仏所から運慶、湛慶(たんけい)快慶ら相ついであらわれ、戦国時代には信長木像(大徳寺総見院)を造った康清などがいた。しかし、この仏所も21代康正のとき、豊臣秀吉の命で四条烏丸に移転した。その後、幕末の兵乱に火災にあい仏所の遺構は完全に失われた。
養源院
淀殿が創建して、江が再建した、豊臣ゆかりで徳川の菩提所である。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。
寺名は浅井長政の院号から採られた。秀吉の側室・淀殿が長政の供養のために成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建。その後、火災により焼失するが、今度は、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川家の菩提所となった。 本堂は伏見城の移築、鳥居元忠以下の血天井もある。
2011年02月01日
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・伏見稲荷大社
東山三十六峰の最南端に位置する稲荷山に鎮座するのが、伏見稲荷大社である。全国に四万社近くある稲荷社の総本宮だ。「病弘法、欲稲荷」ということわざがある。病気のことなら弘法大師、金儲けのことならお稲荷さんにという意味 だ。
奈良時代に、秦氏が稲荷山に奉った神が始まりとされ、稲荷山の山上山下の一帯が稲荷信仰の原域 、御神体である。伏見稲荷の祭神は宇迦之御魂神、五穀豊穣の穀物の神である。五柱を奉る。
稲荷の語源は稲が成る(稲成)から来ており、元々は五穀豊穣を願う農耕の神。今でも田植え神事などが引き継がれている。後に米が商取り引きの中心になり、石高で流通価値を表すようになっていった経過から、商売繁盛の神としても崇められていくようになる。
深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができる。ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばしていったと考えられている。
駐車場は師団街道稲荷新道から東に、京阪伏見稲荷駅を越えて、稲荷大社の総門をくぐった社務所前、参集殿あたりに数箇所隣接している。参集殿は宿泊、食事なども行える。
「『山城国風土記』の逸文によると、古くからこの地域に住んで、一族が繁栄を極めていた秦氏の長者・伊呂具(いろぐ)は、和銅四年(711)2月初午の日、驕富(きょうふ)におごって餅を的にして矢を射たところ、的はたちまち白鳥と化して飛びたち、後ろの山の三ヶ峯の頂上にとどまった。するとそこにたちまち「稲が奈利生(なりお)う」という奇瑞がおこり、その後は、秦氏の家運が傾きはじめたので、伊呂具は驕慢(きょうまん)の心を悔いて杉を神木として稲の精霊を祀り、再び家運を挽回することが出来た。
この霊験のあらたかさに感じて、この精霊を「稲成(いなり)の神」と崇め、山を神山(こうやま)として崇め、元明天皇の和銅4年(711)に、その麓に社殿を営むことになった。そして伊呂具の後裔にあたる秦忌寸(はたのいみき)の一統が代々祖神祭祀の聖地として祭祀にたずさわってきたのである。」
http://www.fusimi-inari.com/store/map01.asp
「伏見稲荷参道商店街」のウェブガイド」

京阪電車の伏見稲荷駅からして稲荷色だ。駅のイメージが、あの鳥居の朱色なのである。朱(あか)は魔よけの色である。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。ちなみにJR稲荷から続くのが表参道、京阪から続くのが裏参道である。参道には稲荷らしいお土産物店が並ぶ。伏見人形、稲荷寿司、キツネの煎餅、びっくりするのはスズメ、ウズラの姿焼き。

深草は、良土を産出し、古くから土人形のふるさとと言われる。(5世紀中ごろから7世紀前半)土器が造られ、土師部(はじべ‐埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原(西大寺の南)から移住した記録があり、遺跡も発掘された。さらに、豊臣秀吉の伏見城建造時(1594年)、播州(今の兵庫県)などから瓦を造る人々が深草に移り住んだ。
これらの人々から伏見人形が起こった。伏見人形(稲荷人形・深草人形)は、日本各地の土人形・郷土玩具の原型となった。
「饅頭食い人形」は、ある人が幼児に「お父さんとお母さんどちらが大切か」と問うたところ、幼児は手に持った饅頭を二つに割って「おじさんこれどっちがおいしいか」と当意即妙に答えたという民話を人形化したもの。部屋に飾っておくと「子供たちが賢くなる」と言われる。文化・文政時代からあったと伝わる伏見人形の代表作だ。

伏見稲荷大社の参道で名物の「すずめの焼き鳥」は、穀物を食い荒らすスズメ退治のために始まったとされ、大正時代から販売されてきた。穀物を食べる野鳥を追い払うために食べるのは「鳥追い」と呼ばれる文化の一つ。
ただ、その名物「スズメの焼き鳥」を売る店も現在では2店だけになっている。スズメを捕る猟師の高齢化やワシントン条約などもあり、禁輸による中国産の在庫切れが原因だ。
国産で販売を続けている食事処「稲福」は京都、兵庫、香川県などの猟師から仕入れているが、確保できる量はピーク時の3分の1にすぎない。国産すずめの解禁時季に限って姿焼きを販売している。値段も1本500円と中国産の約2倍。スズメ猟の後継者も少なくなっているという。

狐の面のような、甘さ控えめ、味噌の香ばしい
「いなり煎餅」。手焼きするための煎餅の型がだんだん、製造されなくなってきているのだとか。

朱塗りの楼門
表参道に面して厳然として建つ朱塗りの楼門は、安土桃山時代に豊臣秀吉により寄進されたもの。3間1戸、屋根は入母屋造り、桧皮葺で屋根の軒反りが大きく荘重な威厳がある。
天正18年(1589)、豊臣秀吉が母大政所の病気回復を願って、こと成就のあかつきには1万石を寄進するとの「命乞いの願文」が残されている。
昭和49年の解体修理の際、垂木に同年号の墨書銘が発見され、秀吉書状の正しさが証明された。

お茶屋
参集殿の東にある「お茶屋」はもともと仙洞御所にあったものを、慶長11年(1608) 禁中非蔵人として出仕していた、伏見稲荷大社の神主であった羽倉延次が、後水尾院から拝領したものである。
天皇家が使用していた茶室ということで、普通の茶室のようなにじり口はなく、貴人口とも呼ばれる大きな出入り口となっている。書院造りが数寄屋造り化していく過程を示す数少ない貴重な遺構だ。
重要文化財。非公開

楼門を潜るとすぐの外拝殿が現れる。外拝殿の背後の石段の上に内拝殿、本殿となる。
外拝殿の金色の手すりには、天保11年とある。江戸時代の末ごろ、11代将軍徳川家斉の末期に当たる。外拝殿は天正年間、1589年頃に作られたものが、この天保11年(1840年)に改築され、そのときに刻まれた文字だという。
内拝殿は外拝殿の斜め後ろにあり、その奥に稲荷造という屋根続きで重要文化財の本殿がある。


本殿 (重文・室町)
社殿は明応3年(1494)の建造で、5間社、流造り、屋根は桧皮葺とした稀にみる大建築で、これを「稲荷造り」という。社記には、「御本殿、五社相殿、ウチコシナガレ作、四方ニ高欄アリ、ケタ行五間五尺、ハリ行五間五尺」とある。
打越流造りとは、浅い背面の流れが棟を打越して、雄大な曲線を描きながら、長々とゆるやかに流れており、側面から眺めると、棟へ向かって盛り上がるように妻がそびえている形をいう。
現在は本殿と拝所の間がきわめて狭くなっている。これは昭和38年の本堂修理の際に、内拝殿(祈祷所)を増築したためであり、このとき本殿を創建当初にもどし、向拝を内拝殿の正面に取り付けた。この唐破風の向拝は、秀吉が本殿修理後に付け足したもので「懸魚」の金覆輪や「垂木鼻」の飾金具、前拝の「蟇股(かえるまた)」の意匠に安土桃山時代の気風がみなぎる。

荷田春満邸宅跡と東丸神社
伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が荷田春満を奉る東丸神社 。学問の神様である。隣接して邸宅跡も残る。
荷田春満(かだのあずままろ)は、江戸時代中期の国学者で歌人。古典・国史を研究して復古神道を提唱。『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人に数えられた 。
元禄赤穂事件で有名な大石内蔵助とは旧知の友人であったといい、大石は『源氏物語』などの進講や歌の指導をしに、よく吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出し、この日を討ち入り決行の日と定めている 。といった逸話も伝えられる。

本殿の参拝後、本殿背後の稲荷山の三つの峰を順拝(お山めぐり)する。いわゆる稲荷詣である。社殿も元は三つの峰に上、中、下の三社に分かれていたが、応仁の乱の兵火で焼けて現在の地に遷った。本殿修築などの際に神様が遷座する仮殿の役割を持つ「権殿」よこの石段がお山めぐりのスタート。

初めが玉山稲荷社、右の石段をのぼり奥宮、その横が白狐社。なだらかな登りの石段を登り始める。稲荷社の聖地でもある御膳谷奉拝所、かつての祭祀遺跡と云われる御饌石(みけいし)があったり、三条小鍛治宗近の話が残る御剣社、枕草子に記された清少納言が登ったと伝わる春繁社など、逸話には事欠かない。
枕草子「2月午の日の暁に、稲荷の社に詣で、中ノ社のあたりにさしかかるともう苦しくて、なんとか上ノ社までお参りしたいものだと念じながら登っていく……誠にうらやましく思ったもの」

ここから「千本鳥居」が始まる。千本とは無限のごとく多いという意味。実際には数多の人たちから寄進された、5千本にも及ぶ鳥居が今もその数を増やし続けている。
この鳥居を潜り30分ほどで三ツ辻に着く。この辺りには休憩のための茶店などもある。元気ならそのまま歩くと四ツ辻へ。眼下の深草の町を展望できる。続けて一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰と歩く。

稲荷神社の守り神は何故、おキツネさん?
楼門の両脇に宝珠と倉の鍵を持つ、眷属(けんぞく・神の使い)としてのきつねがいる。境内のあちこちで見られる。
山からおりて田の近くで食物をあさり(実る稲穂をねらう害獣:ネズミ等が獲物)、子キツネを養う。それは,稲の稔った晩秋から冬にかけての季節。そして,秋の田園でたわわに実る稲穂の色と,キツネの体毛は同色。
豊かな実りを迎えた田園風景に,稲穂と同色のキツネの親子。農村に生きる当時の日本人の目には,繁殖=豊作のイメージとして結びついた。

民俗学者の柳田國男は「田の神の祭場として残した未開地にキツネが住み着き,人々の前で目につく挙動をしたため」と説明する。キツネの習性が神秘性と結びつき「キツネは神の使い」とイメージされ,やがて「稲荷信仰」と結びついたと考えられているという。
一方でキツネが,穀物の神である宇迦之御魂神の使いになったのは,一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津(みけつ)神」であったことから,ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され,誤って「三狐神」と書かれたため。そして,先に触れたようなキツネの習性(穀物を食べる野ネズミをキツネが食べてくれるなど)が,田の神の先触れ,田の守り神と見られ,キツネを通さなければ穀物あるいは豊かな実り・農耕の神の神霊をうかがい知ることはできないと考えられたとの説もある。

千本鳥居をぬけたところ通称「命婦谷」にあり、一般には「奥の院」の名で知られる。この奥社奉拝所はお山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はこの社殿の背後に位置している。
奥社には「おもかる石」と云われる一種の神占石がある。この灯篭の前で願い事の叶うことを念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石である。

初午(2月に初めて廻ってくる午・うまの日)の「初午大祭」で、参詣者に授与される「しるしの杉」は歴史も古く、和歌においては、稲荷の歌枕にもなっている。御礼、御守りの代わりであった。
秦氏が先祖の罪を悔い改めて神様に祈願し、社の杉を庭に植えると、立派に育ち福を得たという縁起による。初午のお参りは福が授かる「福参り」といわれる所以である。
伏見稲荷大社は、東寺の鎮守社でもある
平安時代には、稲荷信仰は真言密教と結びつく。淳和天皇が病気になった原因は、弘法大師空海が東寺の建立に当たって稲荷山の木々を伐り出したことによると云う宣託を受けて、天皇は稲荷神に従五位下の位を贈り謝罪することで、その非を認めた一件から、東寺と稲荷大社の結びつきは強固になっていった。
また、東寺は西寺と共に国家鎮護の寺として建立されるが、稲荷社の位置関係も京の都から見て東南の方角に当たるため、これも王城鎮護の役割とも合いまったもののようだ。
藤森神社とは犬猿の仲?
もともとこの地域は紀氏の領土であったという。紀氏の神を奉る藤森神社の氏子が今でも多い。軒先を貸した秦氏の勢力が台頭し、母屋も…………との伝承もある。真実はいかに。

御近所散策 ぬりこべ地蔵
稲荷大社の大鳥居をくぐって、社殿の右横にある東丸神社の横に続く細い路地を南に行き、石峰寺に行く道の途中。お墓の立ち並ぶ一角にこのぬりこべ地蔵尊はあります。 本来は『塗り壁地蔵』と呼ばれていた土壁に塗り込められたお堂に祀られたお地蔵さんは、京都でも屈指の名地蔵といわれ、病気を塗り込める、とりわけ歯痛に効き目があるということで人々の崇拝をうけている。
この「ぬりこべ地蔵さん」は歯痛が治るよう祈願したハガキを出すだけでも願いを聞いてくださるとか。 6月4日(虫歯予防デー) には「歯痛封じ法要」が行われます。
周辺の悪い箇所を千本通りの『釘抜き地蔵』で抜いた跡を修復し再発を封じてくれるやさしい地蔵でもある。『釘抜き地蔵』に御参りした後、なるべく早く参拝するのが良いという。

御近所散策 石峰寺
百丈山石峰寺は、江戸中期の正徳3年(1713)に黄檗宗萬福寺(宇治市五ヶ庄)の第六世千呆性侒(せんかんせいあん)禅師により創建された禅道場が始まりである。七面山西麓 にある。
石段を登りきると竜宮造りの赤い門(総門)があり、「高着眼(こうちゃくがん)」の扁額が架かる。本尊は薬師如来。平安中期の武将の多田(源)満仲の念持仏で恵心僧都の作 。
本堂裏の竹林に五百羅漢と呼ばれる石仏群が風情をかもしだす。表情豊かな石仏の下絵は、江戸中期の画家、伊藤若冲がここに庵を結び、十年あまりの歳月をかけて描き上げたものだ。
奈良時代に、秦氏が稲荷山に奉った神が始まりとされ、稲荷山の山上山下の一帯が稲荷信仰の原域 、御神体である。伏見稲荷の祭神は宇迦之御魂神、五穀豊穣の穀物の神である。五柱を奉る。
稲荷の語源は稲が成る(稲成)から来ており、元々は五穀豊穣を願う農耕の神。今でも田植え神事などが引き継がれている。後に米が商取り引きの中心になり、石高で流通価値を表すようになっていった経過から、商売繁盛の神としても崇められていくようになる。
深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができる。ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばしていったと考えられている。
駐車場は師団街道稲荷新道から東に、京阪伏見稲荷駅を越えて、稲荷大社の総門をくぐった社務所前、参集殿あたりに数箇所隣接している。参集殿は宿泊、食事なども行える。
「『山城国風土記』の逸文によると、古くからこの地域に住んで、一族が繁栄を極めていた秦氏の長者・伊呂具(いろぐ)は、和銅四年(711)2月初午の日、驕富(きょうふ)におごって餅を的にして矢を射たところ、的はたちまち白鳥と化して飛びたち、後ろの山の三ヶ峯の頂上にとどまった。するとそこにたちまち「稲が奈利生(なりお)う」という奇瑞がおこり、その後は、秦氏の家運が傾きはじめたので、伊呂具は驕慢(きょうまん)の心を悔いて杉を神木として稲の精霊を祀り、再び家運を挽回することが出来た。
この霊験のあらたかさに感じて、この精霊を「稲成(いなり)の神」と崇め、山を神山(こうやま)として崇め、元明天皇の和銅4年(711)に、その麓に社殿を営むことになった。そして伊呂具の後裔にあたる秦忌寸(はたのいみき)の一統が代々祖神祭祀の聖地として祭祀にたずさわってきたのである。」
http://www.fusimi-inari.com/store/map01.asp
「伏見稲荷参道商店街」のウェブガイド」

京阪電車の伏見稲荷駅からして稲荷色だ。駅のイメージが、あの鳥居の朱色なのである。朱(あか)は魔よけの色である。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。ちなみにJR稲荷から続くのが表参道、京阪から続くのが裏参道である。参道には稲荷らしいお土産物店が並ぶ。伏見人形、稲荷寿司、キツネの煎餅、びっくりするのはスズメ、ウズラの姿焼き。

深草は、良土を産出し、古くから土人形のふるさとと言われる。(5世紀中ごろから7世紀前半)土器が造られ、土師部(はじべ‐埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原(西大寺の南)から移住した記録があり、遺跡も発掘された。さらに、豊臣秀吉の伏見城建造時(1594年)、播州(今の兵庫県)などから瓦を造る人々が深草に移り住んだ。
これらの人々から伏見人形が起こった。伏見人形(稲荷人形・深草人形)は、日本各地の土人形・郷土玩具の原型となった。
「饅頭食い人形」は、ある人が幼児に「お父さんとお母さんどちらが大切か」と問うたところ、幼児は手に持った饅頭を二つに割って「おじさんこれどっちがおいしいか」と当意即妙に答えたという民話を人形化したもの。部屋に飾っておくと「子供たちが賢くなる」と言われる。文化・文政時代からあったと伝わる伏見人形の代表作だ。

伏見稲荷大社の参道で名物の「すずめの焼き鳥」は、穀物を食い荒らすスズメ退治のために始まったとされ、大正時代から販売されてきた。穀物を食べる野鳥を追い払うために食べるのは「鳥追い」と呼ばれる文化の一つ。
ただ、その名物「スズメの焼き鳥」を売る店も現在では2店だけになっている。スズメを捕る猟師の高齢化やワシントン条約などもあり、禁輸による中国産の在庫切れが原因だ。
国産で販売を続けている食事処「稲福」は京都、兵庫、香川県などの猟師から仕入れているが、確保できる量はピーク時の3分の1にすぎない。国産すずめの解禁時季に限って姿焼きを販売している。値段も1本500円と中国産の約2倍。スズメ猟の後継者も少なくなっているという。

狐の面のような、甘さ控えめ、味噌の香ばしい
「いなり煎餅」。手焼きするための煎餅の型がだんだん、製造されなくなってきているのだとか。

朱塗りの楼門
表参道に面して厳然として建つ朱塗りの楼門は、安土桃山時代に豊臣秀吉により寄進されたもの。3間1戸、屋根は入母屋造り、桧皮葺で屋根の軒反りが大きく荘重な威厳がある。
天正18年(1589)、豊臣秀吉が母大政所の病気回復を願って、こと成就のあかつきには1万石を寄進するとの「命乞いの願文」が残されている。
昭和49年の解体修理の際、垂木に同年号の墨書銘が発見され、秀吉書状の正しさが証明された。

お茶屋
参集殿の東にある「お茶屋」はもともと仙洞御所にあったものを、慶長11年(1608) 禁中非蔵人として出仕していた、伏見稲荷大社の神主であった羽倉延次が、後水尾院から拝領したものである。
天皇家が使用していた茶室ということで、普通の茶室のようなにじり口はなく、貴人口とも呼ばれる大きな出入り口となっている。書院造りが数寄屋造り化していく過程を示す数少ない貴重な遺構だ。
重要文化財。非公開

楼門を潜るとすぐの外拝殿が現れる。外拝殿の背後の石段の上に内拝殿、本殿となる。
外拝殿の金色の手すりには、天保11年とある。江戸時代の末ごろ、11代将軍徳川家斉の末期に当たる。外拝殿は天正年間、1589年頃に作られたものが、この天保11年(1840年)に改築され、そのときに刻まれた文字だという。
内拝殿は外拝殿の斜め後ろにあり、その奥に稲荷造という屋根続きで重要文化財の本殿がある。


本殿 (重文・室町)
社殿は明応3年(1494)の建造で、5間社、流造り、屋根は桧皮葺とした稀にみる大建築で、これを「稲荷造り」という。社記には、「御本殿、五社相殿、ウチコシナガレ作、四方ニ高欄アリ、ケタ行五間五尺、ハリ行五間五尺」とある。
打越流造りとは、浅い背面の流れが棟を打越して、雄大な曲線を描きながら、長々とゆるやかに流れており、側面から眺めると、棟へ向かって盛り上がるように妻がそびえている形をいう。
現在は本殿と拝所の間がきわめて狭くなっている。これは昭和38年の本堂修理の際に、内拝殿(祈祷所)を増築したためであり、このとき本殿を創建当初にもどし、向拝を内拝殿の正面に取り付けた。この唐破風の向拝は、秀吉が本殿修理後に付け足したもので「懸魚」の金覆輪や「垂木鼻」の飾金具、前拝の「蟇股(かえるまた)」の意匠に安土桃山時代の気風がみなぎる。

荷田春満邸宅跡と東丸神社
伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が荷田春満を奉る東丸神社 。学問の神様である。隣接して邸宅跡も残る。
荷田春満(かだのあずままろ)は、江戸時代中期の国学者で歌人。古典・国史を研究して復古神道を提唱。『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人に数えられた 。
元禄赤穂事件で有名な大石内蔵助とは旧知の友人であったといい、大石は『源氏物語』などの進講や歌の指導をしに、よく吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出し、この日を討ち入り決行の日と定めている 。といった逸話も伝えられる。

本殿の参拝後、本殿背後の稲荷山の三つの峰を順拝(お山めぐり)する。いわゆる稲荷詣である。社殿も元は三つの峰に上、中、下の三社に分かれていたが、応仁の乱の兵火で焼けて現在の地に遷った。本殿修築などの際に神様が遷座する仮殿の役割を持つ「権殿」よこの石段がお山めぐりのスタート。

初めが玉山稲荷社、右の石段をのぼり奥宮、その横が白狐社。なだらかな登りの石段を登り始める。稲荷社の聖地でもある御膳谷奉拝所、かつての祭祀遺跡と云われる御饌石(みけいし)があったり、三条小鍛治宗近の話が残る御剣社、枕草子に記された清少納言が登ったと伝わる春繁社など、逸話には事欠かない。
枕草子「2月午の日の暁に、稲荷の社に詣で、中ノ社のあたりにさしかかるともう苦しくて、なんとか上ノ社までお参りしたいものだと念じながら登っていく……誠にうらやましく思ったもの」

ここから「千本鳥居」が始まる。千本とは無限のごとく多いという意味。実際には数多の人たちから寄進された、5千本にも及ぶ鳥居が今もその数を増やし続けている。
この鳥居を潜り30分ほどで三ツ辻に着く。この辺りには休憩のための茶店などもある。元気ならそのまま歩くと四ツ辻へ。眼下の深草の町を展望できる。続けて一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰と歩く。

稲荷神社の守り神は何故、おキツネさん?
楼門の両脇に宝珠と倉の鍵を持つ、眷属(けんぞく・神の使い)としてのきつねがいる。境内のあちこちで見られる。
山からおりて田の近くで食物をあさり(実る稲穂をねらう害獣:ネズミ等が獲物)、子キツネを養う。それは,稲の稔った晩秋から冬にかけての季節。そして,秋の田園でたわわに実る稲穂の色と,キツネの体毛は同色。
豊かな実りを迎えた田園風景に,稲穂と同色のキツネの親子。農村に生きる当時の日本人の目には,繁殖=豊作のイメージとして結びついた。

民俗学者の柳田國男は「田の神の祭場として残した未開地にキツネが住み着き,人々の前で目につく挙動をしたため」と説明する。キツネの習性が神秘性と結びつき「キツネは神の使い」とイメージされ,やがて「稲荷信仰」と結びついたと考えられているという。
一方でキツネが,穀物の神である宇迦之御魂神の使いになったのは,一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津(みけつ)神」であったことから,ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され,誤って「三狐神」と書かれたため。そして,先に触れたようなキツネの習性(穀物を食べる野ネズミをキツネが食べてくれるなど)が,田の神の先触れ,田の守り神と見られ,キツネを通さなければ穀物あるいは豊かな実り・農耕の神の神霊をうかがい知ることはできないと考えられたとの説もある。

千本鳥居をぬけたところ通称「命婦谷」にあり、一般には「奥の院」の名で知られる。この奥社奉拝所はお山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はこの社殿の背後に位置している。
奥社には「おもかる石」と云われる一種の神占石がある。この灯篭の前で願い事の叶うことを念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石である。

初午(2月に初めて廻ってくる午・うまの日)の「初午大祭」で、参詣者に授与される「しるしの杉」は歴史も古く、和歌においては、稲荷の歌枕にもなっている。御礼、御守りの代わりであった。
秦氏が先祖の罪を悔い改めて神様に祈願し、社の杉を庭に植えると、立派に育ち福を得たという縁起による。初午のお参りは福が授かる「福参り」といわれる所以である。
伏見稲荷大社は、東寺の鎮守社でもある
平安時代には、稲荷信仰は真言密教と結びつく。淳和天皇が病気になった原因は、弘法大師空海が東寺の建立に当たって稲荷山の木々を伐り出したことによると云う宣託を受けて、天皇は稲荷神に従五位下の位を贈り謝罪することで、その非を認めた一件から、東寺と稲荷大社の結びつきは強固になっていった。
また、東寺は西寺と共に国家鎮護の寺として建立されるが、稲荷社の位置関係も京の都から見て東南の方角に当たるため、これも王城鎮護の役割とも合いまったもののようだ。
藤森神社とは犬猿の仲?
もともとこの地域は紀氏の領土であったという。紀氏の神を奉る藤森神社の氏子が今でも多い。軒先を貸した秦氏の勢力が台頭し、母屋も…………との伝承もある。真実はいかに。

御近所散策 ぬりこべ地蔵
稲荷大社の大鳥居をくぐって、社殿の右横にある東丸神社の横に続く細い路地を南に行き、石峰寺に行く道の途中。お墓の立ち並ぶ一角にこのぬりこべ地蔵尊はあります。 本来は『塗り壁地蔵』と呼ばれていた土壁に塗り込められたお堂に祀られたお地蔵さんは、京都でも屈指の名地蔵といわれ、病気を塗り込める、とりわけ歯痛に効き目があるということで人々の崇拝をうけている。
この「ぬりこべ地蔵さん」は歯痛が治るよう祈願したハガキを出すだけでも願いを聞いてくださるとか。 6月4日(虫歯予防デー) には「歯痛封じ法要」が行われます。
周辺の悪い箇所を千本通りの『釘抜き地蔵』で抜いた跡を修復し再発を封じてくれるやさしい地蔵でもある。『釘抜き地蔵』に御参りした後、なるべく早く参拝するのが良いという。

御近所散策 石峰寺
百丈山石峰寺は、江戸中期の正徳3年(1713)に黄檗宗萬福寺(宇治市五ヶ庄)の第六世千呆性侒(せんかんせいあん)禅師により創建された禅道場が始まりである。七面山西麓 にある。
石段を登りきると竜宮造りの赤い門(総門)があり、「高着眼(こうちゃくがん)」の扁額が架かる。本尊は薬師如来。平安中期の武将の多田(源)満仲の念持仏で恵心僧都の作 。
本堂裏の竹林に五百羅漢と呼ばれる石仏群が風情をかもしだす。表情豊かな石仏の下絵は、江戸中期の画家、伊藤若冲がここに庵を結び、十年あまりの歳月をかけて描き上げたものだ。