2010年04月25日
普賢像桜は散り際が美しい
千本通り寺の内を上がってしばらくすると、千本ゑんま堂と書かれた看板がとびこんでくる。千本通り沿いに面した商店街の一角にあります。引接寺と彫られた石柱はあれど、今は門もなく、本堂の前が駐車場になってしまっている境内に乗り入れ、車を降り立った。すると入り口に閻魔法王が睨みを聞かせています。脇士として従っているのが、帳面を持つ検事役の司命尊と書記の役目の司録尊です。

遅咲きの桜、普賢像桜は散り際が美しい。それはなぜか?
実はこの桜、かつて船岡山の刑場の麓に植えられてて、花冠のまま、ぼとりと落ちるこの桜の散り姿を囚人に見せ、斬首を連想させることで囚人に仏心を起こさせたと伝わっているのです。
ゑんま堂は、平安時代、現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法といわれる精霊迎えの法、平たく言うと今のお盆行事ですが、その根本道場として建立された祠が発祥です。京の三大無常といわれた葬送の地、化野念仏寺で有名な嵯峨野には福生寺、今は嵯峨清涼寺境内に石碑だけになっています。そして鳥辺野、今の東山阿弥陀ケ峰の南麓あたりには六道珍皇寺、当時は愛宕寺といわれていました。それぞれ六道の辻といって地獄への入り口や出口があったといわれているんですが、さまよえる霊魂の鎮魂寺が置かれたのですね。
ゑんま堂のあるこの辺りは蓮台野の入口ですが、今でも多くの石仏群が出土するといいます。ここよりさらに北にある上品蓮台寺(千本十二坊)はその蓮台野の墓守として建立されたと伝わっています。上品は、極楽浄土での位が高いことを意味し、その位につくためには、引接寺、通称ゑんま堂で閻魔法王の裁きを受ける必要があったというんですね。ゑんま堂で閻魔様の捌きを受けてから蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、何本も無数にあったため、千本通りと呼ばれるようになったといわれています。
そして、ゑんま堂や愛宕寺の開基であり、この三大葬送地を定め、管理したと伝えられているのが、小野篁という人物なのです。百人一首の歌人でもあった小野篁は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、閻魔法王より精霊迎えの法の奥義をさずかり、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕えていたと伝承されています。

遅咲きの桜、普賢像桜は散り際が美しい。それはなぜか?
実はこの桜、かつて船岡山の刑場の麓に植えられてて、花冠のまま、ぼとりと落ちるこの桜の散り姿を囚人に見せ、斬首を連想させることで囚人に仏心を起こさせたと伝わっているのです。
ゑんま堂は、平安時代、現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法といわれる精霊迎えの法、平たく言うと今のお盆行事ですが、その根本道場として建立された祠が発祥です。京の三大無常といわれた葬送の地、化野念仏寺で有名な嵯峨野には福生寺、今は嵯峨清涼寺境内に石碑だけになっています。そして鳥辺野、今の東山阿弥陀ケ峰の南麓あたりには六道珍皇寺、当時は愛宕寺といわれていました。それぞれ六道の辻といって地獄への入り口や出口があったといわれているんですが、さまよえる霊魂の鎮魂寺が置かれたのですね。
ゑんま堂のあるこの辺りは蓮台野の入口ですが、今でも多くの石仏群が出土するといいます。ここよりさらに北にある上品蓮台寺(千本十二坊)はその蓮台野の墓守として建立されたと伝わっています。上品は、極楽浄土での位が高いことを意味し、その位につくためには、引接寺、通称ゑんま堂で閻魔法王の裁きを受ける必要があったというんですね。ゑんま堂で閻魔様の捌きを受けてから蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、何本も無数にあったため、千本通りと呼ばれるようになったといわれています。

そして、ゑんま堂や愛宕寺の開基であり、この三大葬送地を定め、管理したと伝えられているのが、小野篁という人物なのです。百人一首の歌人でもあった小野篁は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、閻魔法王より精霊迎えの法の奥義をさずかり、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕えていたと伝承されています。
Posted by 篠田ほつう at 04:18│Comments(0)
│篁閻魔帳紀行