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2009年07月22日

霊亀伝説の谷 松の尾

 京聯タクシーでは、会社主催の観光研修が毎月しっかり行われています。また組合にも史跡学習会があって、毎月、頼もしい先輩方から、他では聞けない貴重な話が聞けて、大変勉強になります。
 さて、強い陽射しの照りつけるこの日、仲間とともに、かつて大宝年間に、かの秦氏の創建と伝わる松尾大社を訪れました。



 松尾社は、大宝元年(ユリウス暦701年)、対馬嶋からの金の献上により大宝に改元されたとされるこの年、秦忌寸都理によって勅命を奉じて創建されました。主祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)と中津島姫神(ナカツシマヒメノカミ)の二柱です。大山咋神は、古事記に「此神は近淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐す鳴鏑を用いる神なり」と伝承され、近江国の比叡山と松尾山を支配する神だったと伝わる山の神。
 一方、中津島姫神は宗像大社や厳島神社の祭神として知られる市杵島姫神と同神で、古くから海上守護の霊徳を仰いだ神だといわれます。
 秦氏が奉祭してきた海の神と、日本古来の松尾山の神が出会った神域が「松の尾」であったのです。
 本殿は、室町初期(応永4年・1397)の再建ですが、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで、松尾造りと称され、重要文化財に指定されています。奈良から長岡京へ、平安京への遷都には秦氏の財力が大きく、平安時代には正一位の神職を受け、賀茂両社と並んで、皇城鎮護の社とされ、室町時代には、全国十数か所の荘園、江戸時代にも朱印地1200石、嵐山一帯の山林を有していたと言われます。



 さて、時は天平、都は平城京にあり、京といえば、現在の奈良市から大和郡山あたりを指した時代。時代は、天災、疫病の流行、唐や朝鮮半島、渤海などとの国際関係の緊迫、律令による税負担にあえぐ民衆の反抗と相次ぐ政変に揺れておりました。 
 後に京都となる辺りは、当時は「山背国」と呼ばれ、高麗氏、賀茂氏、八坂の造といった、高麗系の渡来人、古代京都の先住者集団が生計を営んでいたといいます。
 中でも、西北方の嵯峨野、葛野と呼ばれる地域を中心に、最も隆盛を誇っていたのが、新羅からの渡来民である秦氏の一族だったのです。
 松尾山は、別雷山とも称し、当時は「日崎岑」と呼ばれ、松尾社は、この松尾山の遥拝場であったと伝わります。現在、社務所の裏の渓流を御手洗川と称し、涸れることのない霊亀の滝がかかり、傍には延命長寿、よみがえりの水として知られる「亀の井」と呼ばれる霊泉があります。酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和するのだとか。



 この渓谷の北に続く大杉谷の頂上には、巨岩の露頭する「磐座」と呼ばれる屏風状の自然岩盤があり、社殿祭祀以前に古代神の祀られていた処です。この谷には霊亀の伝説があります。
 奈良の平城京に都が遷されて数年、元正天皇の頃(西暦七一四年=和銅七年八月)、この谷から八寸ほどの白い亀が現れました。「首に三台(三つの星)を戴き、背には七星、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、尾に緑毛・金色毛が混ざる」(続日本紀)といったもの。
 この亀を朝廷に奉納した所、元正帝は「嘉瑞なり」と、ことのほか喜悦に及び、『和銅』から『霊亀』へと元号を改めた(翌七一五年)のです。後に亀は再び、降臨の地とされる、この大杉谷に放たれたました。



 中国の故事には、古代より『神亀は天の宝、万物と共に変化し、四季に応じて色を変える。居どころを隠し、卵を抱いているときには、物を食べない。春には青く、夏は赤く、秋は白く、冬は黒い』と言い。さらに『王が一方に偏らず公平で、老人を尊んで登用して古い馴染みを失わず、徳の潤いが行き渡っているときに霊亀が現れる』と言われていたのだそうです。
 この当時の人々は、珍しい白色の動物たちを尊んだようです。高野姫帝(称徳天皇)が道鏡禅師や吉備真備らと政界に君臨した時代にも、武蔵国久良郡から白い雉、参河国から白い烏、日向国から鬣と尾の白い青馬、美作国から白い鼠、伊勢国からは白い鳩と献上があいつぎました。大瑞、祥瑞などと言われ、その見返りとして、破格の官位や姓、賜物が与えられたり、租税の免除などもなされていたようです。




  

Posted by 篠田ほつう at 11:37Comments(0)伊波多紀行