2011年01月27日
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・北野天満宮

北野天満宮の参道・上七軒
北野天満宮の参道ともなっている上七軒。地元の方は「かみひちけん」というようだ。
室町時代、北野社殿が一部焼失し、時の十代将軍・足利義植は所司代・細川勝元に命じて、社殿の造営をさせた。その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に七軒の茶店を建て、 参詣諸人の休憩所としたので、七軒茶屋と称したのがその由来である。

天正十五年(1587年)八月十日、太閣秀吉、北野松原に於て晴天十日間(実際には1日で打ち切り)の大茶会を催し「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」 との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈した。
その際、この七軒茶屋を、秀吉の休憩所に充て、名物の御手洗団子を献じたところ、いたく賞味に預り、 その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、我国に於けるお茶屋の始まりであると伝承される。
上七軒花街が、五つ団子の紋章を用いるのもここに由来する(歌舞会記より)
またその後、西陣の隆盛で旦那衆が闊歩(かっぽ)した花街としても繁栄を極める。

現在、お茶屋が十軒、芸、舞妓二十数名。
毎年春になると「北野おどり」が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている。

夏甘糖(なつかんとう)で有名な和菓子「老松」、欧風料理の「萬春」はじめ、和洋中の本格料理から、うどんやお好み焼きまで、こだわりの店が30数店舗を超えるグルメスポットでもある。味にも値段にもシビアな西陣の旦那衆が通うお店が多く、元芸妓さんが切り盛りしている店も多数ある。 運がよければお店で上七軒の芸妓さん、舞妓さんを見かけることも!

駐車場は東側に無料のパーキングがある。
北野天神には楼門までに三つの鳥居がある。一の鳥居の東側の松は影向松(ようごうのまつ)といって、初雪が降ると菅原道真公がこの松に降りて雪に因む歌を詠むと伝承される。道真が肌身離さず持っていた御襟懸守護の仏舎利が大宰府より雪とともに飛翔してきたとの逸話によるものだ。
三の鳥居横には、道真公の母君を祀る伴氏社(ともうじしゃ)が見られる伴氏社の石鳥居は鎌倉時代の作で、台座に彫られた蓮弁が珍しい。伴氏とは奈良時代の有力豪族・大伴氏である。
三の鳥居の東側あたりの松原は、上述した北野大茶会(きたのだいさのえ)が催されたところ。豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の竣工を祝って催した大茶会。1587年(天正15)10月1日、秀吉みずから亭主をつとめるなど、この日の参加者は、1000人を超えて賑ったという。諸家の茶席に秀吉秘蔵の「似たり茄子」初め、名物茶器・道具が展観された。

茶会の遺跡として「太閤井戸」がある。北野大茶湯は秀吉に対する京都人の感情を知る試金石であったといわれている。

楼門
桃山時代の様式。「文道大祖風月本主」と書かれた扁額が架かっている。「文道大祖 風月本主」というのは大江匡衡(952~1012)が道真を称賛して、天満宮に奉納した願文の中の言葉。菅原道真のこと。楼門の左右には右大臣、左大臣が鎮座する。

北野天神の神紋は星梅鉢紋。「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
梅をこよなく愛したという道真にちなむ。その梅が主である道真を慕って、一晩のうちに太宰府に飛んでいったという「飛梅伝説」が生まれた。

北野天満宮には50種約2000本の梅が植えられ、2月初旬から3月末までは梅苑(有料)も公開される。梅の香りに誘われるように梅の季節には大勢の参拝客が訪れる。

楼門をくぐった東側に、参拝者が手と口を清めるための手水舎があり、「手水鉢(ちょうずばち)」と「柄杓(ひしゃく)」が備え付けられている。
神様は「穢れ(けがれ)」を嫌うため、神域に立ち入るときに、心身の穢れや罪を祓う「禊(みそぎ)」という作法が古来より行われてきた。手水は、かつて、海や川で行われていた儀式が簡略されたもの。
手水を行うときの作法は--。
まず一礼してから右手で柄杓を取り、水を汲む。
その水で、まず左手を濯ぎ、次に左手で柄杓を取り直して右手を濯ぐ。
もう一度右手で柄杓を取り、左手で水を受け、その水で口を漱ぐ。
口を漱いだらもう一度水を汲んで、今度は左手を濯ぐ。
柄杓を立てて、残った水で柄の部分を清め、柄杓を元の位置に戻す。
そして最後に一礼して、手水舎を出る。

牛は天神さんのお使いといわれ、北野天満宮の境内にもたくさんの牛の像「なで牛」を見ることができる。
理由は、道真の生まれた年が丑年、道真が亡くなったのが丑の月の丑の日、道真は牛に乗り大宰府へ下った、牛が刺客から道真を守った。道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めたなどなど諸説ある。
「座牛・寝牛」であるのは、菅公が亡くなった際、轜車(きしゃ・喪車)を引いていた牛が、悲しみのあまり安楽寺四堂のほとりで座して動かなくなってしまったとの伝承からきている。

この牛の像の頭をなでると頭がよくなるといわれ、特に受験生に大人気だ。また体の調子が悪い人は、自分の体の悪い部分と、牛のその同じ部分とを交互になでると良くなるといわれる。
ご利益を得ようと、いつも人の手で磨かれているので、牛はピカピカに輝いて見える。

三光門
2006年(平成18年)1月15日(日)京都新聞より抜粋
「雲間に浮かぷ月、実は星」
北野天満宮の中門は、三光門とも呼ばれ、「天満宮」の額を掲げたひわだぷきの四脚唐門で、華麗な彫刻を施した桃山時代の建造物として重要文化財に指定されています。
門わきの立て札には「由来は、豊冨な彫刻の中に日・月・星があることによる」と記されていました。では、日・月・星という三光の彫刻はどこにあるのでしょうか。

日(太陽)は「天満宮」の額が掲げられた背面の梁間(はりま)に深紅の太陽のが。対極の梁間には雲に浮かんだ月?が。
「残るは星」がなかなか見つかリません。やっと北側(本殿側)の金網に守られた破風(はふ)に、二匹のうさぎの中央に三日月の彫刻を見つけましたが、星の彫刻ではあリません。神職の松大路和弘さんに聞きました。
雲間に浮かぶ月と見えた彫刻が実は星だったのです。現代の感覚では、ギザギザの星形を思い浮かべますが、丸く彫られた星を月と見誤ったようです。

ただ「三光門にはもともと星の彫刻は無く、旧大極殿から真北に位置する中門の上空に輝く北極星を三光の星に見立てた」という言い伝えもあリ、「星欠け門」との別名もあるそうです。このようにさまざまないわれが伝わるのも、この門の華麗さが、往時の人々の話題になったことの裏付けではないでしょうか。

平安京遷都より100年の頃、都における高官であった菅原道真(天神)は、藤原氏との政争にやぶれ、太宰府に左遷された。
大宰府で無念の死をとげたといわれているが、没後、京都で災害が頻発し、これが道真の怨霊の祟りとして恐れられた。
天慶5年(942年)に右京七条の巫女、多治比文子(たじひあやこ)に道真から「北野に社殿を造り自分を祀るように」との御託宣があったという。道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていた(現在の文子天満宮)が、北野の朝日寺の僧、最鎮に相談し、その後、現在の地に祀るようになった。
拝殿の上の欄間にいるのは、境内でただ一頭だけの「立ち牛」だ。全国の天満宮的にもめずらしいという。道真のご神体の前で不敬ではいけないということだろうか?

現存の「拝殿」及び「本殿」、中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉 は慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものといわれている。
「拝殿」は国宝。なお、拝殿の前は左近の梅、右近の松(なんで?)である。
さらに、北野天満宮は、神社としては、とても不思議な造りになっているとか。拝殿と本殿が大きな屋根でひとつに覆われている。しかも中央に一段低い石の間がある。
北野天満宮は、本来神を祀る場所ではなく、御霊を鎮めるための場所だったということから、明治の神仏分離まで、神社ともお寺とも区別のつかない不思議な形態だったのだ。「宮寺」と呼ばれ、天台宗に属し、皇族を門跡とする曼珠院が別当となっていた。北野天満宮が神社となるのは、明治以降のことである。ちなみに、本殿は八棟造で、江戸時代以降、秀吉の豊国神社や家康の東照宮にも引き継がれ、権現造と呼ばれるようになった。
地方豪族の出自から大学に出仕し、学者から学問の才だけで右大臣にまで出世したのは、吉備真備と菅原道真だけである。このことから、天神さんは学問の神として奉られるようになった。

二礼二泊一礼
拝殿の前には大きな鈴がぶらさがっていて、ひもを引いて鳴らすようになっている。鈴には、もともと呪力があると考えられており、 邪気を祓うことで神様と対面できる状態にするためだ。鈴を鳴らしたあと、賽銭を入れ、二回おじぎをした後、大きく手を開いて2回柏手(かしわで)を打って、最後にもう1回おじきをする、というのが神様へのご挨拶の仕方。
なお神社は柏手を打つが、お寺さんでは合掌になるので混同しないように気をつけよう。


拝殿から西側の門をくぐると御土居の入り口がある。境内の西側には御土居の史跡が広がっている。東は鴨川右岸、北は鷹が峰、西は紙屋川左岸、南は九条通で、全長22.5kmの及ぶこの築堤を「御土居」と呼ぶ。
豊臣秀吉は京都を抑えるとすぐにも、伏見城や聚楽第、京大仏の建設、町割りをはじめ、京都の大改造に乗り出した。北は寺の内通り、東は寺町通りを造り、寺社を移転させ、防波堤とした。そして、西と南は治水のためもあって、この御土居と呼ばれる堀と土塁の堤防で取り囲んだのだ。明治維新で取り壊され、現在は市内十数箇所に跡が残る。
紅葉の時期には、御土居の紅葉として親しまれている。
絵馬について
古来、馬は神様の乗り物と考えられていたため、もともとは本物の馬を奉納していた。しかし、本物の馬は高価な上に、奉納される側も設備や世話などの面で面倒なため、平安時代の頃から馬を書いた絵で代用されるようになった。
その後、境内に絵馬堂が設けられ、絵に描いた馬や武具などを奉納するようになった。
現在では、絵馬も小振りになり、庶民でも奉納できる身近なものになった。神社や寺院に参拝する際に、絵馬に具体的な願いごとを書いて奉納すると願いがかなうとされている。
地主神社 祭神:天神地祇(てんじんちぎ)
『続日本後記』に承和3(836)年(菅公生誕の9年前)2月1日、遣唐使のために天神地祇を北野に祭る」と記録されている通り、天満宮創建以前よりこの地に鎮座されている神社である。
主祭神の天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のことであり、現社殿は、豊臣秀頼の造営になり、由緒・規模とも天満宮第一の摂社である。
実は、鳥居から拝殿に至る北野天満宮の中心軸は、元々からのこの地の神である地主神社を避けて建てられている。

北野天満宮の北門を出たところに石仏が奉られているが、この石仏は、破壊された御土居から掘り出されたもの。この北側にも御土居が残されていて、真近に見られる。
織部形石燈籠
別名「マリア燈籠」とも「切支丹燈籠」とも言われている。マリア像が彫刻されています。
「織部形石燈籠」というのは、茶人好み石燈籠形式の一つで、古田織部正重然の墓にあるものの形に因んで名付けられています。
大黒さん
三光門の東側にひっそりと佇む大黒さん。この大黒さんのえくぼに、一回で小石を詰めて落ちなければ縁起が良いとか、願いがかなうとか、その石を財布に入れておくとお金が貯まるとかと言われています。

菅原道真公の生誕6月25日、命日2月25日にちなみ、毎月25日には、神社境内と周辺に所狭しと露店が並び、市が開催される。特に12月25日の市を終い天神、1月25日の市をお初天神と呼んでいる。
かつては、煤(すす)払いと称して、年の暮れに屋内の煤やほこりを払い、不要になった道具類を廃棄した(現代の年末大掃除)。『付喪神絵巻』によると、煤払いには、手持ちの古道具が付喪神に変化する前に手放すという目的もあったそうだ。その廃棄された古道具を神社仏閣で転売し始めたのが、京都で有名な東寺や北野天満宮の古道具市の起源であったという。
とようけ屋
いつも長い行列が出来ている人気のお豆腐やさん。天神さんの門前にある、明治30年から続く老舗です。

俵屋うどん
天神さんの門前から今出川通りをはさんで、御前通りを下がったところにあるうどんやさん。ぶっというどん。少しえきぞちっく?

みたらし団子の日栄堂
今出川通りの上七軒から東へ少し行った北側にあるのが、日栄堂です。少し大きめのだんごが柔らかくてもっちり~としてて、焦げ目が香ばしい。タレも絶品なのです。一個一個丁寧に手作りされたおだんごが一串110円はお買い得です。


妖怪ストリート 大将軍商店街
一条通りにある大将軍商店街は、平安時代の京都で起こったとされる百鬼夜行(多くの異形の鬼・妖怪たちが夜中に徒党を組んで行進する現象)の通り道だったとされることから、各店舗ではかわいい妖怪たちが出迎えてくれる。
大徳寺真珠庵所蔵の『百鬼夜行絵巻』では、古道具が変化した妖怪「付喪神(つくもがみ)」が主役になっています。陽気で滑稽で愛らしい姿が描かれています。


大将軍八神社
平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の北西角の天門に祭られた方除けの星神・大将軍。商店街の中心にある。
「天地明察」の渋川春海の天球儀なども安置されている。