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2011年02月14日

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 平安後期、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行った。約30年の間、院政を行った後白河上皇が、法住寺殿(ほうじゅうじどの)と呼ばれる院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛に命じて創建させたのが三十三間堂である。
 当時は、他に五重塔、不動堂などの諸堂を整備し、北は七条通、南は泉湧寺通り、西は大和大路通り、東は東山山麓付近までの広大な地域をしめていた。
 その後、焼失、再建、修復を繰り返され、桃山時代には、天下人となった豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたことから、再び歴史の舞台へと引きずり出されることとなった。秀吉没後は、天台宗妙法院の管理下に置かれている。
 現在、周辺には、妙法院、智積院、養源院、豊国神社、方広寺、耳塚、七条仏所跡、正面通りと貴重な文化遺産や当時の歴史を物語る曰くのある寺社などがあり、一大観光スポットとなっている。
 
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 国宝 三十三間堂
 開門時間  8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)
 駐車場は、東門から警備員の誘導に従って入場する。拝観券売り場の前が無料駐車場となっている。
 妙法院を本坊とする蓮華王院の本堂が通称「三十三間堂」と呼ばれる。南北にのびる内陣の柱間が三十三あるからである。
 ちなみに三十三という数字は、観音菩薩は、苦難に遭遇している数多の衆生を救うために、相手に応じて 三十三の姿に変化するからだ。柱間の数もこれにあわせたもので、また観音霊場が三十三所となっているのもこれによる。 
 奥行き22m、地上16m、南北120m、入母屋造り本瓦葺き。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する「版築・はんちく」を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁・にじゅうこうりょう」とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固に造られている。
 構架材の柱や長押、梁は地震や災害などの「揺れ」を予測しており、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む「羽目板・はめいた」がなされ、本堂は波に揺れて浮ぶ筏のごとく揺れを吸収する免震工法が施こされている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂
三十三間堂発行絵葉書より

重文 千体千手観音立像 (せんたいせんじゅかんのんりゅうぞう)
 前後10列の階段状の壇上に、等身大の1000体の観音立像が整然と並ぶ。各像は、頭上に十一の顔と両脇に四十手をもつ通形で、中尊の千手千眼観音坐像と同様の造像法で作られている。
 124体は平安期の尊像で本堂焼失の際にも難を逃れた。その他が、鎌倉期にかけて再興された像である。
 約500体には作者名が残され、運慶、快慶を輩出した慶派をはじめ、院派、円派も含め、国家的規模で70人もの、仏所の仏師たちが名を連ねる。166㎝前後の寄木造である。
 観音像の中には、すでにこの世にいない人のうち、会いたい人に似た像が必ずあるとも伝えられている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂
三十三間堂発行絵葉書より

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂
三十三間堂発行絵葉書より

風神・雷神
 観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の尊像が千体観音像の前に安置されている。
  古代インドに起源をもつ神々で千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされる。天衣の女神や甲冑をつけた神将、動物や楽器を神格化したものなど変化に富む。
  これらは、檜材の寄木造り、玉眼を用いた彩色像で、鎌倉彫刻の傑作である。
 風神と雷神は インド最古の聖典とされる「リグ・ヴェーダ」に登場する神々である。その名が示すように風と雷を神格化したもの。風の袋を両肩に回し担いだ風神は、「ヴァーユ」と呼ばれ、馬車で天を駆け、悪神を追い払い、人々に富と名誉を授ける神とされている。後背に小太鼓の輪を担いだ雷神は、「ヴァルナ」という水の神である。
 仏教では、仏法を守り、悪をこらしめ、善を勧めて風雨を調(ととのえる)神だと信じられているのだとか。俵屋宗達が描いた風神雷神図屏風はこれがモデルと言われる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂
三十三間堂発行絵葉書より

 国宝 千手観音坐像(こくほう せんじゅかんのんざぞう)

 左右の千手観音立像や二十八部衆の中央に安置されているのが、中尊と呼ばれる丈六の坐像、千手観音坐像である。
 像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。
 十一面四十二臂 (手)の通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師・湛慶(たんけい)が、84歳で没する2年前に慶派の弟子たちを率いて完成させたものだ。鎌倉後期の代表的作品である。
 温雅な表情 像の均整が保たれ、重厚感ののある尊顔は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現するという。
 42本の手の内2本は胸前で合掌し、他の2本は腹前で組み合わせて宝鉢(ほうはつ)を持つ(宝鉢手)。他の38本の脇手にはそれぞれ法輪、錫杖(しゃくじょう)、水瓶(すいびょう)など様々な持物(じもつ)を持つ。
 
 千手観音のはなし
「十一面千手観音」「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」「千手千臂(せんぴ)観音)」など様々な呼び方がある。観音菩薩の変化身である。
 観音とは 「遠くの音を聞く」 という意味であり、遠くというのは、物理的距離を指すのではなく、ありとあらゆる次元、人の心の奥や、物事の真実を観るという意味である。 したがって「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされ、千本の手は、すべてを見通し、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
 密教の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮華王院(京都の三十三間堂の正式名称)の名はこれに由来する。
 坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂(手)にて千手を表現するものが一般的である 。
 胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。「25の世界」とは、天上界から地獄まで25の世界があるという仏教の「三界二十五有(う)」のこと。
 ちなみに俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指すという。
 
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 四天王のはなし
 三十三間堂の千手観音を始め、釈迦三尊像など本尊の尊名に関係なく 、メインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。
 須弥山の頂上の宮殿に住む帝釈天の部下として、自身も龍神、夜叉、羅刹を始めとする多数の眷属 (けんぞく・配下)を従えて四方の門を守っている。
  東・持国天、南・増長天、西・広目天、北・多聞天(毘沙門天)を固める方位の守護神 である。(とんなんしゃぺじぞうこうたと覚えよう)持物は様々であり剣・鉾・戟・宝塔・宝棒等を持つが広目天は巻子と筆を、多聞天は宝塔を持つ場合が多い 。 

 太閤秀吉と三十三間堂

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため(諸説ある・注1)奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、本堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重要文化財)が残る。
  本堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続いた。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたという。 秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、三十三間堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営された。

注1、惣無事令(そうぶじれい)において大名間の私闘を禁じ、刀狩と太閤検地、海賊禁止令などで農村部他の武装を解き、統制を敷いた秀吉は天下支配の手段として宗教統制にものりだした。当時、奈良の大仏は再建されておらず、秀吉は京の都に諸宗の中枢となるべき大仏殿を築き、その千僧供養においては、主たる宗派からは百人ずつ、千人の僧を出仕させ、忠節の値踏みとしたのである。
 これにより比叡山や本願寺を徹底的に攻撃し武装解除した信長を引き継ぎ、金剛峯寺(木食応其の斡旋)、根来寺(攻撃)を武装解除した秀吉がさらに宗教勢力の牙を抜いて、天下人秀吉の前に屈伏させたと言われる。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

通し矢と矢数帳
 いつごろから始まったのかは分かっていない。桃山時代には、すでに行なわれたと伝えられる。
「通し矢・とおしや」は、本堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射」「千射」等があった。今でも、当時の矢傷を庇や柱に見ることができる。

 江戸時代になると、殊に町衆に人気を博したのが、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競う「大矢数・おおやかず」で、御三家の尾張藩と紀州藩による功名争いは、さらに人気に拍車をかけ、京都の名物行事となった。

「矢数帳」には、通し矢法を伝承した〈日置六流・へきろくりゅう〉の江戸期の試技者氏名、月日、矢数などが編年で書き留められており、最高記録は、貞享3年(1686)4月、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳という)の総矢13,053本、通し矢8,133本であったという。仏像群の裏側の通路には、大きな扁額が展示されている。 
 現在、毎年の成人の日には、全国の新成人によって弓道大会が行われている。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 方広寺大仏殿跡公園    方広寺の裏側
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良の東大寺にならって大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。現在その場所は公園となっている。
 文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。しかし、慶長元年(1596年)に起きた大地震により、開眼前の大仏は倒壊した。 慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。
 境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂を含む、広大なものであったという。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

正面通の分断
 豊臣秀吉は、没後、神格化されるために、阿弥陀が峰に西向きに豊国廟(秀吉の墓)を建てさせ、そこから真西に向かって、ふもとに豊国神社、その西に、淀君との最初の子で早世した 鶴松を祀った祥雲寺、その西に、方広寺大仏殿、さらに真西に向かったところに、本願寺に土地を与えて、西向きに阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置した。正面通は、方広寺から、鴨川の正面橋を渡り、本願寺まで続いていた。

 徳川家康は、豊臣秀吉の神格化をふせぐために、豊国廟、豊国神社を壊滅させ、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせ、祥雲寺を、秀吉が壊滅した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は妙法院の管理とした。さらに、方広寺と本願寺の間には、かつて秀吉が隠居させた教如に東本願寺を創建させ、本願寺を分裂し、東向きに阿弥陀堂を建てさせた。さらにその間に、東本願寺に土地を与え、渉成苑を建てさせたのである。
 秀吉が神となって西方浄土へ赴く、また衆生が秀吉を参拝するとされた、豊国廟から本願寺の直線を、ことごとく分断したのはやはり家康であった。
 しかし、江戸時代中期頃になってから、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面通」と称されるようになった。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 方広寺銘鐘事件
 慶長19年(1614年)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、梵鐘も完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。
 家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させる。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。
 この後、大坂夏の陣にて豊臣家は滅亡する。この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 智 積 院
 真言宗智山派の総本山である。阿弥陀ヶ峰を背景にして、諸堂伽藍立ち並ぶ 。
 智積院には、桃山時代に長谷川等伯とその弟子達によって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が残され「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」は国宝である。
 また、大書院東側の名勝庭園は、桃山時代に造られた庭園で、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭である。豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺(智積院の前身の寺)時代に原形が造られた。
 大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいる。その大書院より眺める庭園は、四季折々の美しさ特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぐ。

 智積院は、鎌倉時代の中頃に、高野山から分かれた根来寺の塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院であった。 
 織豊時代、豊臣秀吉と対立することとなり、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰す。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都洛北に逃れた。
 慶長6年(1601)、今度は徳川家康の命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、智積院が再興された。その後、秀吉が夭折した鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、境内伽藍が拡充された。再興された智積院の正式の名称は「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」という。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

 耳塚  豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)戦功の証として討ち取った、2万人分の朝鮮・明国兵の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。
 当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であった。

観光ドライバーのための京都案内マニュアル・三十三間堂

七条仏所跡   河原町七条西入南側
 平安時代中期の仏師(仏像彫刻家)定朝(じょうちょう)をはじめ、その一族・子孫(慶派)が居住して仏像製作をした「仏所」のあったところ。鎌倉時代に入って、この仏所から運慶、湛慶(たんけい)快慶ら相ついであらわれ、戦国時代には信長木像(大徳寺総見院)を造った康清などがいた。しかし、この仏所も21代康正のとき、豊臣秀吉の命で四条烏丸に移転した。その後、幕末の兵乱に火災にあい仏所の遺構は完全に失われた。  

 養源院
 淀殿が創建して、江が再建した、豊臣ゆかりで徳川の菩提所である。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。
 寺名は浅井長政の院号から採られた。秀吉の側室・淀殿が長政の供養のために成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建。その後、火災により焼失するが、今度は、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川家の菩提所となった。 本堂は伏見城の移築、鳥居元忠以下の血天井もある。









善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺
 善峯寺 (2012-10-26 12:34)
 松尾大社 (2012-07-26 10:45)
 お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺 (2012-03-21 12:56)
 観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺 (2012-03-20 10:58)
 観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺) (2011-09-02 17:36)
 観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺 (2011-07-28 20:31)

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