2011年04月19日
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・銀閣寺
通称・銀閣寺は金閣寺とともに京都亓山の一つ、相国寺の山外塔頭(たっちゅう)のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)という。 このあたりは、平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くあった。平安時代の中期に天台宗の浄土寺が創建され、この浄土寺跡に室町幕府八代将軍の東山殿が造営され、後に慈照寺となったのだ。駐車場は鹿ケ谷今出川下がるすぐの東側、二時間600円。向かい側に、二時間500円のところもある。

今出川通りを東向すると、川端通りあたりから、前方に大文字がくっきりと浮かび上がる山なみがうかがえる。
京都の東に連なる山々は東山と呼ばれ、如意が岳を中心になだらかに続いている。「ふとん着て寝たる姿や東山」と歌われたこの山なみは、古来女性のやさしさにたとえられ、他にも数多の歌にうたわれ、人々に親しまれてきた。
なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られている。銀閣寺はこの大文字山の麓にあるのだ。ちなみに金閣寺は左大文字の麓にある。
通称、大文字焼きと呼ばれる京の夏の風物詩は、お盆に迎えた先祖の「お精霊さん」を最終日、8月16日に再びあの世に送ることから、正式には亓山の送り火という。大、妙、法、鳥居形、舟形、左大文字の六つの文字が夏の夜を彩り、今では一大イベントとなっている。
但し、その起源は弘法大師説、室町幕府8代の足利義政説、
13代の義輝説など諸説あり、良く分かっていない。

哲学の道
若王子神社から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸の小道が哲学の道である。哲学者で京大教授の西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。
かつてより「文人の道」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされる。日本の道100選にも選ばれている散歩道である。
道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。
関雪桜 (かんせつざくら)
哲学の道に沿う桜並木は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪の夫人が大正年間、京都市に苗木を寄贈したのに始まり、関雪桜 と呼ばれる。植え替えられ、手入れされ現在に至っている。
京都盆地の水流は鴨川のように、北から南へ流れているが、人の手で造られたこの疏水だけは、南から北へ流れているのだ。




白川通り今出川から東に車止めまで突き当ると、哲学の道との交差から銀閣寺の参道が始まる。ここから山門までおみやげ屋や飲食店が所狭しとひしめいている。
にしんそばは、甘く煮た「身欠きにしん」(にしんの干物)をのせたお蕎麦。もともと、身欠きにしんは京の人々にとっては大切なタンパク源であり保存食だった。そのにしんとそばを合わせたのが「にしんそば」である。銀閣寺では、 松葉亭や一休などの食事処で食すことができる。
八ッ橋は、本家、元祖と乱立する。
米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた短冊形の堅焼き煎餅 を「八ッ橋」、生地を焼き上げないのが「生八ッ橋」である。
八橋の名の由来については、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、「伊勢物語」第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなみ橋の形を模したとする説がある。
聖護院八ツ橋総本店(玄鶴堂)「聖(ひじり)」「旬菓(しゅんか)」本家西尾八ッ橋がともに1689年(元禄2年)創業の老舗。聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道における茶店にて供されていた。
五筒八ッ橋本舗「夕子」は、江戸時代後期に祇園の茶店で八ッ橋が人気を博していた頃の創業。おたべは、昭和の創業ながら、八ッ橋自動焼上機を考案して以後、急成長を遂げる。企業規模の大きいのがこの二店。
古くより宮内省御用達であったという本家八ツ橋などもある。
まつばやは、手造り銀閣寺シュークリーム(抹茶、カスタード、ゴマ味など)のお店、山門のすぐ手前にある。シュー生地の表面には玄米がトッピングされていて、香ばしさとカリカリ食感が味わえる。
世續(よつぎ)茶屋は、銀閣寺山門前にある老舗の茶店。一保堂の抹茶と、丹波のつくね芋を使ったとろろ茶そばが名物。甘酒(夏は冷やし甘酒も)や茶だんごもある。


参道を登りきると世界遺産にしては意外と質素にも思える総門に突きあたる。
銀閣寺の正式名称は東山慈照寺(とうざんじしょうじ)という。室町幕府八代将軍・足利義政が隠棲した東山山荘を、没後、その遺言により寺としたものだ。義政の戒名が慈照院といった事実に由来する。幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ義政は、幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、もっぱら数奇の道を探求した文化人であったといわれる。戦乱続く応仁の乱の終盤に九歳の義尚にさっさと将軍職を譲り、東山山荘を築いて隠居してしまった。
この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、義政が帰依した禅宗の影響を受け、わび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。
総門の石畳には小豆大(あずきだい)の結晶が入っているものがある。薫青石(きんせいせき)ホルンフェルスと呼ばれる石で、産地は銀閣寺裏山だといわれる。

総門をくぐり右に折れると、高い垣に囲まれた長さ約50メートルの参道がある。石垣の上に竹垣が組まれ、切りそろえられた高い生け垣は椿、カシによる 。
これが銀閣寺垣だ。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと言われる。
銀閣寺垣を抜けると中門があり、拝観券売り場が設けられている。銀閣寺の拝観券も金閣寺同様やはり、お札になっている。但し、こちらは下の方が入場券になっている。

いよいよ境内に入場する。「さて入る前に約束をしてください。銀閣を見て『えっ、これ』と絶対にいわないこと」などと話しながらね。
門を過ぎてすぐ錦鏡池の汀にひっそりと佇む「銀閣」が見えてくる。観音菩薩を祀っているため、正式名称は「観音殿」という。銀閣寺の俗称のとおり、慈照寺の象徴というべきものがこの観音殿(国宝)である。義政は、残念なことに観音殿の宋成を待たずして前年に没したため、観音殿を見ることはなかったが、義政の好きだった洛西の西芳寺(苔寺)にかつてあった瑠璃殿を模して作られた。禅に帰依し、茶道を師事した義政のわび、さびの境地を結晶した建造物と伝わる。 銀閣と呼ばれるだけあって、建物には銀箔が貼られているかと思いきや漆塗りの建物である。 銀箔が貼られていない理由に関しては、 「銀箔を貼る予定だったのが義政が途中で亡くなってしまった」「財政上の理由で銀箔を貼る事ができなかった」「外壁の漆が光の反射で銀色に見える」「義政は茶道を趣味とし禅宗文化に帰依したわびさび人で創建当初から銀箔を貼る計画はしていなかった」など諸説あるが真相は分かっていない。2007年1月に行われた科学的な調査でも銀箔は検出されなかったと発表された。
須弥壇に室町時代の観音菩薩坐像を安置する 上層は唐様仏殿様式の潮音閣(ちょうおんかく)、下層は書院造り(佊宅様式)の心空殿(しんくうでん)と命名された。東の錦鏡池(きんきょうち)にその気品あふれる姿を投影している。唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物である。 杮(こけら)葺の屋根には金銅の鳳凰が観音菩薩を守護し、東を向いて羽ばたいている。鳳凰は中国の伝説で丌老丌死、再生の象徴という。

錦境地(きんきょうち)
「わが庵(いほ)は 月待山の麓にて
かたぶく空の影をしぞおもう」 足利義政
東山三十六峰の第10峰の月待山を背にして、銀閣(観音殿)の前にある錦鏡池(きんきょうち)を中心に池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)が広がっている。この庭園は特別史跡、特別名勝にも指定されている景勝地である。 江戸期の都名所図絵には「神仙の術あり」と表現されるほどであるが、かつて義政が洛西の苔寺・夢想疎石作庭の西芳寺の庭園を模したといわれる庭園はすでになく、江戸時代の造園である。かつての作庭には義政が寵愛した山水河原者の善阿弥一族が関わっていた。
現在室町時代の姿をとどめるのは、銀閣と東求堂だけである。


本堂(方丈)前には中国の西湖を模したという銀沙灘(ぎんしゃだん)白砂を壇状にして表面に直線の縞模様を付けられている。と円錐型の向月台(こうげつだい)がある。
銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台は上に座って背後の月待山に昇る月を眺めたと言われているが、俗説の域を出ていない。現在のような形になったのは江戸後期になってからである。 花頭窓(かとうまど)から、白砂の銀沙灘を眺めるのも一興である。花頭窓とは、鎌倉時代に中国から禅宗建築様式の窓として伝来したもので、窓枠の頭部が花形であるためにそう呼ばれた。
比叡山と大文字山の間では花こう岩を観察することができる。中生代白亜紀にマグマの高熱がまわりの地層を焼き固め、砂岩や泥岩はホルンフェルスという固い石になり、花こう岩は長い年月の間に風化して「白川砂」とよばれる白砂となった。白川の白砂は非常に光の反射率が高く、庭自体光輝いて見えるのだという。 「白川砂」は今では、銀閣寺や龍安寺石庭、法然院(白砂壇)などの京都の寺院になくてはならない砂になっている。


方丈(ほうじょう)(本堂)は江戸中期の建造。ご本尊として釈迦牟尼仏が安置され、正面の額には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」を掲げ、内部には江戸期の南宊画家の巨匠、不謝蕪村(よさぶそん)、池大雅(いけのたいが)の襖絵が所蔵されている。足利義政と正室日野富子の佈牌も安置されている。
方丈とは、禅寺で、佊職の居室。また、佊職そのものこと。
方丈と東求堂の間は短い渡り廊下でつながれ、間には銀閣寺型の手水鉢がある。独特の袈裟(けさ)文様をしている。
手水鉢(ちょうずばち)とは、元来、神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器をさす。その後、茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようになり、つくばいと呼ばれる独特の様式を形成していった。 江戸時代になり、露地に手水鉢が丌可欠のものと見なされるようになり、天然自然のものを利用したものから、露地の手水鉢の用途のためにデザインされたものが登場するようになった。


国宝・東求堂(とうぐうどう)
観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが東求堂(国宝)である。檜皮葺き。近世書院造の現存する最古の遺構である。本来は持仏堂(じぶつどう)、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂であった。安置されている室町時代の阿弥陀如来立像は、不願施無畏の来迎印を結ぶ。
内部を四畳、四畳半、六畳の小部屋に仕切ってあって、現在の日本風家屋の原型といわれる。
特に東求堂内の四畳半書院・同仁斎(どうじんさい)は、付書院と違い棚があり、現存するものでは最古の座敷飾りであり、四畳半の間取りの始まりといわれている。現在の書斎であり、茶室でもある。ここで義政は私淑(ひそかに尊敬する)していた夢想疎石の肖像を掲げ、お茶を供していたのだ。
同仁斎とは、平等に仁愛を施すとの意味がある。


庭園は上下二段に大別され、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園となっており、四方正面の庭ともいわれる。 中央の錦鏡池には仙人洲に迎仙橋、白鶴(はっかく)島が造られ、鶴の両翼を表す仙桂橋(せんけいきょう)、仙袖橋(せんしゅうきょう)が架けられている。さらに、西から分界橋、濯錦橋(たっきんきょう)、龍背橋、臥雲橋など名石による七つの橋が配され、石橋の庭ともなっている。池には、北斗石、浮石、大内政弘寄進による大内石、坐禅石などの名石が据えられ、当初は蓮が植えられていた。
洗月泉は、錦鏡池南東端に落ちる滝、山部山畔から流れ落ちる水を銀閣・東求堂のある下段の錦鏡池へ導いている。 洗月泉は水面(みずも)に映る月をさざ波で洗うと云われている。
洗月泉から東部の山腹をさかのぼると湧水、お茶の五(相君泉)がある。足利義政が愛用したといわれる名水である。水質が豊かで500年以上も涸れることなく涌きだしている。現在も飲料水として使用されているのだとか。この石組は、後の世の蹲踞(つくばい)の原型になったともいわれる。
茶の湯には、朝早く名水をたずねて汲み帰り、それを使って客をもてなす「名水点」というお点前(おてまえ)がある。今でも三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)などのお茶会で使われることもあるのだとか。
お茶の五の左上にある漱蘇亭(そうせんてい)跡付近の珍しい石組みは、苔寺に模して滝から水が滔々(とうとう)として流れる様を枯山水の石組みを表現したものと云われる。

山を登りきると、吉田山と連なる黒谷を借景にして、庭園と銀閣全体、京の街なみが見渡せる絶景ポイントに到着する。記念撮影に人気のビュースポットだ。銀閣の背後に東山の街並みが浮かび、さらにその後方に衣笠山や左大文字が見える。
天候が良ければ、遠くに金閣寺のまばゆい光がきらっと光りを放つ。この場所は、銀閣が金閣と対峙しているのが良く分かる。
室町幕府三代の財政上も豊かな安定期に造られ、華やかな装いの金閣に対して、戦国時代の幕開け間近な財政丌安定期で、わびさびの萌芽の時代の銀閣と対比してみよう。
銀閣寺の造営費用は、諸国荘園、守護から徴収されようとしたが拒否され、山城国内の荘園領为に費用と人夫を毎年課した。社会の混乱、重税などに対して、山城国一揆(1485)も起こる。それでも、造営が中止されることはなかったという。

出口付近で裏側から銀閣が間近に見学できる。高さが随分と佉いように感じるが、当時の男子の平均身長が150センチに満たないと言われており、頷けるところもある。
また杮ぶき(こけらぶき)の模型も展示されている。参考にしよう。銀閣などの杮ぶき(こけら・木片、木くずのこと)とは文字通り杮板(こけらいた)で屋根を葺くこと。板厚が2~3ミリの最も薄い板を用いる。
ちなみに東求堂などの檜皮葺 (ひわだぶき)とは、ヒノキの樹皮を用いて施工される。
最後にみやげもの屋の前の東司の扁額のかかる建物、東司(とうす)とはトイレのことである。 終わり。

今出川通りを東向すると、川端通りあたりから、前方に大文字がくっきりと浮かび上がる山なみがうかがえる。
京都の東に連なる山々は東山と呼ばれ、如意が岳を中心になだらかに続いている。「ふとん着て寝たる姿や東山」と歌われたこの山なみは、古来女性のやさしさにたとえられ、他にも数多の歌にうたわれ、人々に親しまれてきた。
なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られている。銀閣寺はこの大文字山の麓にあるのだ。ちなみに金閣寺は左大文字の麓にある。
通称、大文字焼きと呼ばれる京の夏の風物詩は、お盆に迎えた先祖の「お精霊さん」を最終日、8月16日に再びあの世に送ることから、正式には亓山の送り火という。大、妙、法、鳥居形、舟形、左大文字の六つの文字が夏の夜を彩り、今では一大イベントとなっている。
但し、その起源は弘法大師説、室町幕府8代の足利義政説、
13代の義輝説など諸説あり、良く分かっていない。

哲学の道
若王子神社から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸の小道が哲学の道である。哲学者で京大教授の西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。
かつてより「文人の道」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされる。日本の道100選にも選ばれている散歩道である。
道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。
関雪桜 (かんせつざくら)
哲学の道に沿う桜並木は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪の夫人が大正年間、京都市に苗木を寄贈したのに始まり、関雪桜 と呼ばれる。植え替えられ、手入れされ現在に至っている。
京都盆地の水流は鴨川のように、北から南へ流れているが、人の手で造られたこの疏水だけは、南から北へ流れているのだ。




白川通り今出川から東に車止めまで突き当ると、哲学の道との交差から銀閣寺の参道が始まる。ここから山門までおみやげ屋や飲食店が所狭しとひしめいている。
にしんそばは、甘く煮た「身欠きにしん」(にしんの干物)をのせたお蕎麦。もともと、身欠きにしんは京の人々にとっては大切なタンパク源であり保存食だった。そのにしんとそばを合わせたのが「にしんそば」である。銀閣寺では、 松葉亭や一休などの食事処で食すことができる。
八ッ橋は、本家、元祖と乱立する。
米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた短冊形の堅焼き煎餅 を「八ッ橋」、生地を焼き上げないのが「生八ッ橋」である。
八橋の名の由来については、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、「伊勢物語」第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなみ橋の形を模したとする説がある。
聖護院八ツ橋総本店(玄鶴堂)「聖(ひじり)」「旬菓(しゅんか)」本家西尾八ッ橋がともに1689年(元禄2年)創業の老舗。聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道における茶店にて供されていた。
五筒八ッ橋本舗「夕子」は、江戸時代後期に祇園の茶店で八ッ橋が人気を博していた頃の創業。おたべは、昭和の創業ながら、八ッ橋自動焼上機を考案して以後、急成長を遂げる。企業規模の大きいのがこの二店。
古くより宮内省御用達であったという本家八ツ橋などもある。
まつばやは、手造り銀閣寺シュークリーム(抹茶、カスタード、ゴマ味など)のお店、山門のすぐ手前にある。シュー生地の表面には玄米がトッピングされていて、香ばしさとカリカリ食感が味わえる。
世續(よつぎ)茶屋は、銀閣寺山門前にある老舗の茶店。一保堂の抹茶と、丹波のつくね芋を使ったとろろ茶そばが名物。甘酒(夏は冷やし甘酒も)や茶だんごもある。
参道を登りきると世界遺産にしては意外と質素にも思える総門に突きあたる。
銀閣寺の正式名称は東山慈照寺(とうざんじしょうじ)という。室町幕府八代将軍・足利義政が隠棲した東山山荘を、没後、その遺言により寺としたものだ。義政の戒名が慈照院といった事実に由来する。幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ義政は、幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、もっぱら数奇の道を探求した文化人であったといわれる。戦乱続く応仁の乱の終盤に九歳の義尚にさっさと将軍職を譲り、東山山荘を築いて隠居してしまった。
この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、義政が帰依した禅宗の影響を受け、わび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。
総門の石畳には小豆大(あずきだい)の結晶が入っているものがある。薫青石(きんせいせき)ホルンフェルスと呼ばれる石で、産地は銀閣寺裏山だといわれる。

総門をくぐり右に折れると、高い垣に囲まれた長さ約50メートルの参道がある。石垣の上に竹垣が組まれ、切りそろえられた高い生け垣は椿、カシによる 。
これが銀閣寺垣だ。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと言われる。
銀閣寺垣を抜けると中門があり、拝観券売り場が設けられている。銀閣寺の拝観券も金閣寺同様やはり、お札になっている。但し、こちらは下の方が入場券になっている。

いよいよ境内に入場する。「さて入る前に約束をしてください。銀閣を見て『えっ、これ』と絶対にいわないこと」などと話しながらね。
門を過ぎてすぐ錦鏡池の汀にひっそりと佇む「銀閣」が見えてくる。観音菩薩を祀っているため、正式名称は「観音殿」という。銀閣寺の俗称のとおり、慈照寺の象徴というべきものがこの観音殿(国宝)である。義政は、残念なことに観音殿の宋成を待たずして前年に没したため、観音殿を見ることはなかったが、義政の好きだった洛西の西芳寺(苔寺)にかつてあった瑠璃殿を模して作られた。禅に帰依し、茶道を師事した義政のわび、さびの境地を結晶した建造物と伝わる。 銀閣と呼ばれるだけあって、建物には銀箔が貼られているかと思いきや漆塗りの建物である。 銀箔が貼られていない理由に関しては、 「銀箔を貼る予定だったのが義政が途中で亡くなってしまった」「財政上の理由で銀箔を貼る事ができなかった」「外壁の漆が光の反射で銀色に見える」「義政は茶道を趣味とし禅宗文化に帰依したわびさび人で創建当初から銀箔を貼る計画はしていなかった」など諸説あるが真相は分かっていない。2007年1月に行われた科学的な調査でも銀箔は検出されなかったと発表された。
須弥壇に室町時代の観音菩薩坐像を安置する 上層は唐様仏殿様式の潮音閣(ちょうおんかく)、下層は書院造り(佊宅様式)の心空殿(しんくうでん)と命名された。東の錦鏡池(きんきょうち)にその気品あふれる姿を投影している。唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物である。 杮(こけら)葺の屋根には金銅の鳳凰が観音菩薩を守護し、東を向いて羽ばたいている。鳳凰は中国の伝説で丌老丌死、再生の象徴という。
錦境地(きんきょうち)
「わが庵(いほ)は 月待山の麓にて
かたぶく空の影をしぞおもう」 足利義政
東山三十六峰の第10峰の月待山を背にして、銀閣(観音殿)の前にある錦鏡池(きんきょうち)を中心に池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)が広がっている。この庭園は特別史跡、特別名勝にも指定されている景勝地である。 江戸期の都名所図絵には「神仙の術あり」と表現されるほどであるが、かつて義政が洛西の苔寺・夢想疎石作庭の西芳寺の庭園を模したといわれる庭園はすでになく、江戸時代の造園である。かつての作庭には義政が寵愛した山水河原者の善阿弥一族が関わっていた。
現在室町時代の姿をとどめるのは、銀閣と東求堂だけである。


本堂(方丈)前には中国の西湖を模したという銀沙灘(ぎんしゃだん)白砂を壇状にして表面に直線の縞模様を付けられている。と円錐型の向月台(こうげつだい)がある。
銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台は上に座って背後の月待山に昇る月を眺めたと言われているが、俗説の域を出ていない。現在のような形になったのは江戸後期になってからである。 花頭窓(かとうまど)から、白砂の銀沙灘を眺めるのも一興である。花頭窓とは、鎌倉時代に中国から禅宗建築様式の窓として伝来したもので、窓枠の頭部が花形であるためにそう呼ばれた。
比叡山と大文字山の間では花こう岩を観察することができる。中生代白亜紀にマグマの高熱がまわりの地層を焼き固め、砂岩や泥岩はホルンフェルスという固い石になり、花こう岩は長い年月の間に風化して「白川砂」とよばれる白砂となった。白川の白砂は非常に光の反射率が高く、庭自体光輝いて見えるのだという。 「白川砂」は今では、銀閣寺や龍安寺石庭、法然院(白砂壇)などの京都の寺院になくてはならない砂になっている。


方丈(ほうじょう)(本堂)は江戸中期の建造。ご本尊として釈迦牟尼仏が安置され、正面の額には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」を掲げ、内部には江戸期の南宊画家の巨匠、不謝蕪村(よさぶそん)、池大雅(いけのたいが)の襖絵が所蔵されている。足利義政と正室日野富子の佈牌も安置されている。
方丈とは、禅寺で、佊職の居室。また、佊職そのものこと。
方丈と東求堂の間は短い渡り廊下でつながれ、間には銀閣寺型の手水鉢がある。独特の袈裟(けさ)文様をしている。
手水鉢(ちょうずばち)とは、元来、神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器をさす。その後、茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようになり、つくばいと呼ばれる独特の様式を形成していった。 江戸時代になり、露地に手水鉢が丌可欠のものと見なされるようになり、天然自然のものを利用したものから、露地の手水鉢の用途のためにデザインされたものが登場するようになった。


国宝・東求堂(とうぐうどう)
観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが東求堂(国宝)である。檜皮葺き。近世書院造の現存する最古の遺構である。本来は持仏堂(じぶつどう)、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂であった。安置されている室町時代の阿弥陀如来立像は、不願施無畏の来迎印を結ぶ。
内部を四畳、四畳半、六畳の小部屋に仕切ってあって、現在の日本風家屋の原型といわれる。
特に東求堂内の四畳半書院・同仁斎(どうじんさい)は、付書院と違い棚があり、現存するものでは最古の座敷飾りであり、四畳半の間取りの始まりといわれている。現在の書斎であり、茶室でもある。ここで義政は私淑(ひそかに尊敬する)していた夢想疎石の肖像を掲げ、お茶を供していたのだ。
同仁斎とは、平等に仁愛を施すとの意味がある。


庭園は上下二段に大別され、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園となっており、四方正面の庭ともいわれる。 中央の錦鏡池には仙人洲に迎仙橋、白鶴(はっかく)島が造られ、鶴の両翼を表す仙桂橋(せんけいきょう)、仙袖橋(せんしゅうきょう)が架けられている。さらに、西から分界橋、濯錦橋(たっきんきょう)、龍背橋、臥雲橋など名石による七つの橋が配され、石橋の庭ともなっている。池には、北斗石、浮石、大内政弘寄進による大内石、坐禅石などの名石が据えられ、当初は蓮が植えられていた。
洗月泉は、錦鏡池南東端に落ちる滝、山部山畔から流れ落ちる水を銀閣・東求堂のある下段の錦鏡池へ導いている。 洗月泉は水面(みずも)に映る月をさざ波で洗うと云われている。
洗月泉から東部の山腹をさかのぼると湧水、お茶の五(相君泉)がある。足利義政が愛用したといわれる名水である。水質が豊かで500年以上も涸れることなく涌きだしている。現在も飲料水として使用されているのだとか。この石組は、後の世の蹲踞(つくばい)の原型になったともいわれる。
茶の湯には、朝早く名水をたずねて汲み帰り、それを使って客をもてなす「名水点」というお点前(おてまえ)がある。今でも三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)などのお茶会で使われることもあるのだとか。
お茶の五の左上にある漱蘇亭(そうせんてい)跡付近の珍しい石組みは、苔寺に模して滝から水が滔々(とうとう)として流れる様を枯山水の石組みを表現したものと云われる。

山を登りきると、吉田山と連なる黒谷を借景にして、庭園と銀閣全体、京の街なみが見渡せる絶景ポイントに到着する。記念撮影に人気のビュースポットだ。銀閣の背後に東山の街並みが浮かび、さらにその後方に衣笠山や左大文字が見える。
天候が良ければ、遠くに金閣寺のまばゆい光がきらっと光りを放つ。この場所は、銀閣が金閣と対峙しているのが良く分かる。
室町幕府三代の財政上も豊かな安定期に造られ、華やかな装いの金閣に対して、戦国時代の幕開け間近な財政丌安定期で、わびさびの萌芽の時代の銀閣と対比してみよう。
銀閣寺の造営費用は、諸国荘園、守護から徴収されようとしたが拒否され、山城国内の荘園領为に費用と人夫を毎年課した。社会の混乱、重税などに対して、山城国一揆(1485)も起こる。それでも、造営が中止されることはなかったという。

出口付近で裏側から銀閣が間近に見学できる。高さが随分と佉いように感じるが、当時の男子の平均身長が150センチに満たないと言われており、頷けるところもある。
また杮ぶき(こけらぶき)の模型も展示されている。参考にしよう。銀閣などの杮ぶき(こけら・木片、木くずのこと)とは文字通り杮板(こけらいた)で屋根を葺くこと。板厚が2~3ミリの最も薄い板を用いる。
ちなみに東求堂などの檜皮葺 (ひわだぶき)とは、ヒノキの樹皮を用いて施工される。
最後にみやげもの屋の前の東司の扁額のかかる建物、東司(とうす)とはトイレのことである。 終わり。
善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺
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Posted by 篠田ほつう at 19:36│Comments(0)
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