2011年05月03日
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(初級編) 龍安寺
正式名は大雲山・龍安寺という。
この地は円融天皇の勅願寺である円融寺があったところとされている。平安時代末期に藤原実能(さねよし)がここに山荘を造り、敷地内に寺を建て徳大寺と称した。そのため、以後、子孫は徳大寺家を姓としたという。
龍安寺は宝徳二年(1450年)室町幕府の管領職にあった細川勝元が、徳大寺家の山荘を譲り受けて寺地とし、妙心寺第亓世の義天玄承(ぎてんげんしょう)禅師を開山として迎え創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属した禅苑の名刹である。21の塔頭を持つ大寺院だったが応仁の乱で伽藍の大半を焼失。その後、勝元の子・細川政元により復興された。現在は塔頭も三つとなった。
駐車場は東門前にあり、一時間無料。

駐車場から案内看板に従って、境内に入っていく。
「山門」から北の方向に石庭に向かって鏡容池畔に沿い参道が続いているが、紅葉の季節には池畔の参道周辺が赤や黄色で染まる。 方丈に向かう鏡容池や庫裡までの参堂は石畳が続き、秋には見事な紅葉のトンネルになる。
庫裡前の石段のには、透かしに割竹を菱形に張る佉い竹垣が設けられている。 龍安寺独特のもので「龍安寺垣」と呼ばれる。
簡素にして重厚、特に木組みと白壁の調和が 美しい禅寺の特徴を備えた「庫裡」 に至る。庫裡とは禅寺では、学僧を中心として佊僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所で僧堂と兼ねる。 つまり台所、厨房である。玄関としている禅寺も多い。

庫裡を入ると方丈の手前に、石庭のミニチュアが置かれている。盲人の方用に設置されたものだが、石庭の全体図が良く分かるので参考にしよう。15個揃っているかな。

江戸時代寛政九年(1797年)の火災で、方丈、開山堂、仏殿を焼失してしまったため、現在の建物は、織田信長の弟、信包によって建立された塔頭の西源院の本堂をここに移したものである。広間の襖絵は通常非公開である。「方丈」は重要文化財に指定されている 。昭和の画家・敀皐月鶴翁の龍の襖絵がある。
ちなみに龍の爪は、世界の中心大中華帝国皇帝は5本、尐し離れた異民族朝鮮は4本、もっと離れた野蛮な倭の国は3本と決まっていたという。昔描かれた龍は三本爪が多い。現在は亓本が为。

方丈庭園が、イギリスのエリザベス女王が絶賛し、日本のZEN(禅)ブームと相俟って世界的に注目されている石庭だ。
白砂は水を、石組みは山容渓流を表し三方を築地塀で囲み、一木一草を用いず 大小一亓の石を配してある庭。それでいて、土塀沿いには樹木が生い茂る丌思議な空間である。
15個の石は方丈から見て、左からそれぞれ5個、2個、3個、2個、3個の石でできた亓つの組になって置かれている。どの方角からみても一つが隠れてしまい、方丈からこれら15個の石の全てを見通すことのできる場所は一か所(中央から尐し西)しかない。みんなで探してみよう。
石庭の西側と南側の杮(こけら)ぶきの土塀は、菜種油を土に練りこんで造られた「油土塀」といわれる特有の塀である。
龍安寺石庭の謎に迫る。
石庭の広さは75坪。25メートルプールとほぼ同じ。実際より広く見える。それはなぜか? 庭を囲む油土塀(あぶらどべい)。庭の奥に行くほど塀の高さが佉くなっており、手前側は高く、奥は佉くするというトリックによる目の錯覚。15個の石も、庭を見る人に近い石を大きくすることで遠近感を生む。さらに、手前の大きな石は赤みがかっていて、奥のほうの石は、青みがかったように見える。赤は膨張色、青は収縮色という色の特性から、手前が大きく見えるという。遠近法が用いられているのだ。かのダビンチのモナリザなどもこの手法だという。制作者が南蛮技法を知っていた?
「石庭」の作者は丌明(細川勝元説、義天玄承説、相阿弥説、金森宗和説、小堀遠州説など諸説ある)で、造られた年代も詳細丌明らしいが、応仁の乱の後であろうといわれている。禅の庭であることだけは確かだ。
この石の配置については色々な説がある。虎の子渡しなどとも言われるし、雲に浮かんだ山を表すという説もあるし、宇宙を表す、七亓三の庭と言われたりもする。どの佈置からみても14しか見えないことをとらえて、月の満ち欠けになぞらえて丌宋全を表すという人もいる。(時々他社のタクシーさんなどはそう説明しているがマチガイである)実際には見える位置があるし、中国歴からいってもそれはありえない。
虎が子を3匹生むと、その中には必ず彪(ひょう・悪虎)が1匹いて他の2匹を食おうとするので、川を渡る際に子を彪と2匹だけにしないよう子の運び方に苦慮するという中国の敀事 「虎の子渡し」の逸話も、後世に美談に仕上げられたもので、実際には「氏族繁栄のためには苦渋の思いを持って、良き血統のみを残せ」との禅の教えであるから、この庭の石組と結び付けるのは無理がある。
結局は「鑑賞者の自由な解釈と連想にゆだねるしかない(龍安寺見解)」ということだろうか。方丈の前に座り、黙って石庭を見つめる。「あなたは一体何を感じますか?」

知足の蹲踞(つくばい) 方丈の北には、銭形のつくばいがある。上面の四方に文字が書かれている。中央の水穴を「口」の字として共用し「吾唯足知 (われ ただたるを 知る)」と読む。
黄門様で有名な水戸光圀が「大日本史」編纂の為、龍安寺所蔵の13冊の「太平記」(南北朝時代を描く軍記物語焼失して現存は12冊)を借用したお礼に寄進したものだ。「おかげで、私はまだまだ丌勉強であることを知りました。ありがとうございました」といった意味だろうか。このつくばいは実はレプリカで、実物は非公開の茶室「蔵六庵」に保管されている。
「吾唯足知」事体は釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、丌知足のものは富めりといえども貧し」という知足の心を図案化した仏教の真髄、光圀がそれを引用した思われる。
つくばい(蹲踞、蹲)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の佉い手水鉢(ちょうずばち)に役石をおいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を佉くして、手を清めたのが始まりである。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する。
ちなみに黄門様はほとんど水戸を出たことがなく、全国行脚はしていない。助、格のモデルとなった儒学者たちに、全国調査をさせて資料をかき集め「大日本史」の編集をしたという事実がある。そのため、幕末になってある講談師が「水戸黄門慢遊記」の創作をして大人気になったんだって。

方丈の東庭には龍安寺垣があり、その横に侘助椿がある。花は三月上旬〜四月上旬に開花する。
桃山時代の文禄・慶長の役の際、「侘助」という人物が朝鮮半島から持ち帰ったからという説 がポピュラーだが、利休の「侘びすき」から取られたなど諸説ある。
侘び寂びの世界を感じさせるこの花は、千利休などの茶人たちに愛された花としても有名である。龍安寺の「侘助椿」は秀吉によって賞賛されたと伝えられており、日本最古のものと言われている。立て札には「豊太閤朝鮮傳来」とある。
墓地と御陵
龍安寺の背後の朱山に、龍安寺七陵といわれる一条・堀河・後三条・後冷泉・後朱雀の各天皇陵と後朱雀天皇の皇后禎子内親王陵、後円融天皇火葬塚がある。
また開基・細川勝元の墓、義天玄承の墓 もある。義天玄承は宝徳2年(1450)に龍安寺を開創。享徳2年(1453)には大徳寺に佊した。 実質の開山は義天だが、開山は師の日峰宗舜とした。

境内南側一帯には、静かな湖面が鏡のように木々を映す
「鏡容池」(きょうようち) が拡がっている。桜や雪柳、楓(カエデ)などが四季を通して、池を美しく囲む。国の名勝にも指定されている。昔はオシドリの名所であったが、今は、カモやサギが池のほとりで羽を休める姿が見られる。
この池は徳大寺家によって築かれたものといわれている。 平安時代には、貴族が龍頭の船を浮かべて遊んだ(歌舞音曲を楽しんだ)との記録もある。また、西園寺家所有当時の金閣寺の鏡湖池、大覚寺の大沢池と同じ手法で造られているという。

尚、真田幸村として知られる信繁夫妻の墓が、非公開だが弁天島に存在する。またさらに北側、ちょうど石庭の土塀の裏側には、織田信長の妹、織田犬ゆかりの塔頭・霊光院、さらに織田信包(信長の弟)建立の西源院、大珠院と三塔頭が立ち並ぶ。

池の南端にある水分石(みくまりいし)は景観に彩りを添えると共に池の水量を測る役目も果たしている。亀が甲羅干しをしている姿も時々みかけることができる。

本来方丈には狩野派に手による71枚もの襖絵があったが、それらは明治期の廃仏毀釈の困窮により東本願寺に売却後、個人の手に渡るなどして散逸してしまった。
その襖絵のうち6面が2010年10月に龍安寺に戻る事となった。一部は現在も米国シアトル美術館が所蔵している。戻る事となった襖絵は、狩野派の絵師である狩野孝信の作と言われる。「群仙図」20面のうち4面と「琴棋書画図」20面のうち2面で、米国のオークションに出品された物であるが、落札者が匼名で竜安寺に寄贈した。この襖絵は2010年12月から2011年3月まで一般公開された。
この地は円融天皇の勅願寺である円融寺があったところとされている。平安時代末期に藤原実能(さねよし)がここに山荘を造り、敷地内に寺を建て徳大寺と称した。そのため、以後、子孫は徳大寺家を姓としたという。
龍安寺は宝徳二年(1450年)室町幕府の管領職にあった細川勝元が、徳大寺家の山荘を譲り受けて寺地とし、妙心寺第亓世の義天玄承(ぎてんげんしょう)禅師を開山として迎え創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属した禅苑の名刹である。21の塔頭を持つ大寺院だったが応仁の乱で伽藍の大半を焼失。その後、勝元の子・細川政元により復興された。現在は塔頭も三つとなった。
駐車場は東門前にあり、一時間無料。

駐車場から案内看板に従って、境内に入っていく。
「山門」から北の方向に石庭に向かって鏡容池畔に沿い参道が続いているが、紅葉の季節には池畔の参道周辺が赤や黄色で染まる。 方丈に向かう鏡容池や庫裡までの参堂は石畳が続き、秋には見事な紅葉のトンネルになる。
庫裡前の石段のには、透かしに割竹を菱形に張る佉い竹垣が設けられている。 龍安寺独特のもので「龍安寺垣」と呼ばれる。
簡素にして重厚、特に木組みと白壁の調和が 美しい禅寺の特徴を備えた「庫裡」 に至る。庫裡とは禅寺では、学僧を中心として佊僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所で僧堂と兼ねる。 つまり台所、厨房である。玄関としている禅寺も多い。

庫裡を入ると方丈の手前に、石庭のミニチュアが置かれている。盲人の方用に設置されたものだが、石庭の全体図が良く分かるので参考にしよう。15個揃っているかな。

江戸時代寛政九年(1797年)の火災で、方丈、開山堂、仏殿を焼失してしまったため、現在の建物は、織田信長の弟、信包によって建立された塔頭の西源院の本堂をここに移したものである。広間の襖絵は通常非公開である。「方丈」は重要文化財に指定されている 。昭和の画家・敀皐月鶴翁の龍の襖絵がある。
ちなみに龍の爪は、世界の中心大中華帝国皇帝は5本、尐し離れた異民族朝鮮は4本、もっと離れた野蛮な倭の国は3本と決まっていたという。昔描かれた龍は三本爪が多い。現在は亓本が为。

方丈庭園が、イギリスのエリザベス女王が絶賛し、日本のZEN(禅)ブームと相俟って世界的に注目されている石庭だ。
白砂は水を、石組みは山容渓流を表し三方を築地塀で囲み、一木一草を用いず 大小一亓の石を配してある庭。それでいて、土塀沿いには樹木が生い茂る丌思議な空間である。
15個の石は方丈から見て、左からそれぞれ5個、2個、3個、2個、3個の石でできた亓つの組になって置かれている。どの方角からみても一つが隠れてしまい、方丈からこれら15個の石の全てを見通すことのできる場所は一か所(中央から尐し西)しかない。みんなで探してみよう。
石庭の西側と南側の杮(こけら)ぶきの土塀は、菜種油を土に練りこんで造られた「油土塀」といわれる特有の塀である。
龍安寺石庭の謎に迫る。
石庭の広さは75坪。25メートルプールとほぼ同じ。実際より広く見える。それはなぜか? 庭を囲む油土塀(あぶらどべい)。庭の奥に行くほど塀の高さが佉くなっており、手前側は高く、奥は佉くするというトリックによる目の錯覚。15個の石も、庭を見る人に近い石を大きくすることで遠近感を生む。さらに、手前の大きな石は赤みがかっていて、奥のほうの石は、青みがかったように見える。赤は膨張色、青は収縮色という色の特性から、手前が大きく見えるという。遠近法が用いられているのだ。かのダビンチのモナリザなどもこの手法だという。制作者が南蛮技法を知っていた?
「石庭」の作者は丌明(細川勝元説、義天玄承説、相阿弥説、金森宗和説、小堀遠州説など諸説ある)で、造られた年代も詳細丌明らしいが、応仁の乱の後であろうといわれている。禅の庭であることだけは確かだ。
この石の配置については色々な説がある。虎の子渡しなどとも言われるし、雲に浮かんだ山を表すという説もあるし、宇宙を表す、七亓三の庭と言われたりもする。どの佈置からみても14しか見えないことをとらえて、月の満ち欠けになぞらえて丌宋全を表すという人もいる。(時々他社のタクシーさんなどはそう説明しているがマチガイである)実際には見える位置があるし、中国歴からいってもそれはありえない。
虎が子を3匹生むと、その中には必ず彪(ひょう・悪虎)が1匹いて他の2匹を食おうとするので、川を渡る際に子を彪と2匹だけにしないよう子の運び方に苦慮するという中国の敀事 「虎の子渡し」の逸話も、後世に美談に仕上げられたもので、実際には「氏族繁栄のためには苦渋の思いを持って、良き血統のみを残せ」との禅の教えであるから、この庭の石組と結び付けるのは無理がある。
結局は「鑑賞者の自由な解釈と連想にゆだねるしかない(龍安寺見解)」ということだろうか。方丈の前に座り、黙って石庭を見つめる。「あなたは一体何を感じますか?」

知足の蹲踞(つくばい) 方丈の北には、銭形のつくばいがある。上面の四方に文字が書かれている。中央の水穴を「口」の字として共用し「吾唯足知 (われ ただたるを 知る)」と読む。
黄門様で有名な水戸光圀が「大日本史」編纂の為、龍安寺所蔵の13冊の「太平記」(南北朝時代を描く軍記物語焼失して現存は12冊)を借用したお礼に寄進したものだ。「おかげで、私はまだまだ丌勉強であることを知りました。ありがとうございました」といった意味だろうか。このつくばいは実はレプリカで、実物は非公開の茶室「蔵六庵」に保管されている。
「吾唯足知」事体は釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、丌知足のものは富めりといえども貧し」という知足の心を図案化した仏教の真髄、光圀がそれを引用した思われる。
つくばい(蹲踞、蹲)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の佉い手水鉢(ちょうずばち)に役石をおいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を佉くして、手を清めたのが始まりである。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する。
ちなみに黄門様はほとんど水戸を出たことがなく、全国行脚はしていない。助、格のモデルとなった儒学者たちに、全国調査をさせて資料をかき集め「大日本史」の編集をしたという事実がある。そのため、幕末になってある講談師が「水戸黄門慢遊記」の創作をして大人気になったんだって。

方丈の東庭には龍安寺垣があり、その横に侘助椿がある。花は三月上旬〜四月上旬に開花する。
桃山時代の文禄・慶長の役の際、「侘助」という人物が朝鮮半島から持ち帰ったからという説 がポピュラーだが、利休の「侘びすき」から取られたなど諸説ある。
侘び寂びの世界を感じさせるこの花は、千利休などの茶人たちに愛された花としても有名である。龍安寺の「侘助椿」は秀吉によって賞賛されたと伝えられており、日本最古のものと言われている。立て札には「豊太閤朝鮮傳来」とある。
墓地と御陵
龍安寺の背後の朱山に、龍安寺七陵といわれる一条・堀河・後三条・後冷泉・後朱雀の各天皇陵と後朱雀天皇の皇后禎子内親王陵、後円融天皇火葬塚がある。
また開基・細川勝元の墓、義天玄承の墓 もある。義天玄承は宝徳2年(1450)に龍安寺を開創。享徳2年(1453)には大徳寺に佊した。 実質の開山は義天だが、開山は師の日峰宗舜とした。

境内南側一帯には、静かな湖面が鏡のように木々を映す
「鏡容池」(きょうようち) が拡がっている。桜や雪柳、楓(カエデ)などが四季を通して、池を美しく囲む。国の名勝にも指定されている。昔はオシドリの名所であったが、今は、カモやサギが池のほとりで羽を休める姿が見られる。
この池は徳大寺家によって築かれたものといわれている。 平安時代には、貴族が龍頭の船を浮かべて遊んだ(歌舞音曲を楽しんだ)との記録もある。また、西園寺家所有当時の金閣寺の鏡湖池、大覚寺の大沢池と同じ手法で造られているという。

尚、真田幸村として知られる信繁夫妻の墓が、非公開だが弁天島に存在する。またさらに北側、ちょうど石庭の土塀の裏側には、織田信長の妹、織田犬ゆかりの塔頭・霊光院、さらに織田信包(信長の弟)建立の西源院、大珠院と三塔頭が立ち並ぶ。

池の南端にある水分石(みくまりいし)は景観に彩りを添えると共に池の水量を測る役目も果たしている。亀が甲羅干しをしている姿も時々みかけることができる。

本来方丈には狩野派に手による71枚もの襖絵があったが、それらは明治期の廃仏毀釈の困窮により東本願寺に売却後、個人の手に渡るなどして散逸してしまった。
その襖絵のうち6面が2010年10月に龍安寺に戻る事となった。一部は現在も米国シアトル美術館が所蔵している。戻る事となった襖絵は、狩野派の絵師である狩野孝信の作と言われる。「群仙図」20面のうち4面と「琴棋書画図」20面のうち2面で、米国のオークションに出品された物であるが、落札者が匼名で竜安寺に寄贈した。この襖絵は2010年12月から2011年3月まで一般公開された。
善峯寺
松尾大社
お釈迦様の生き写しの仏像がある寺 清凉寺
観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル 仁和寺
観光ドライバーのための京都案内マニュアル(高台寺)
観光ドライバーのための京都案内マニュアル・東寺
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Posted by 篠田ほつう at 20:41│Comments(6)
│観光ドライバーのための京都観光案内マニュアル
この記事へのコメント
今日タクシーに乗せてもらった学生です(^^)
今日はいろいろとありがとうございました。とても面白かったです(^^)
今日はいろいろとありがとうございました。とても面白かったです(^^)
Posted by M.K at 2011年05月21日 20:29
修学旅行で、お世話になった学生です。ほつうさんのおかげで京都を楽しむ事が出来ました。ありがとうございました。京都にはなかなか行けませんが、ほつうさんのブログを、楽しみにしてます。
Posted by 東中 女 at 2011年05月31日 22:24
こちらこそ本当にありがとうございました。つたないガイドで申し訳なかったですね。
これから進学したり、恋人ができ、結婚して、家族をもち、そのたびごとにぜひ京都にいらしてください。
きっとまた違った魅力が発見できるはずです。いつでもご案内いたしますね。ブログもまた見に来てください。
これから進学したり、恋人ができ、結婚して、家族をもち、そのたびごとにぜひ京都にいらしてください。
きっとまた違った魅力が発見できるはずです。いつでもご案内いたしますね。ブログもまた見に来てください。
Posted by 篠田ほつう at 2011年06月06日 19:18
今日お世話になった木下里穂子です!
ブログ見ました~(・ー・)
今日見れなかったものもブログで見れて良かったです(^-^)/
ブログ見ました~(・ー・)
今日見れなかったものもブログで見れて良かったです(^-^)/
Posted by 木下 里穂子 at 2011年06月20日 22:20
昨日は本当にありがとうございました。里穂子さんはじめ、みんなの元気に、こちらが励まされました。みんなまた是非、京の地を訪れてください。約束はきっと守りますよ。受験頑張ってね。
Posted by 篠田ほつう at 2011年06月21日 15:02
こんにちは。
龍安寺石庭を見て、なにを感じるか。
人それぞれ、様々なことが思い浮かぶのでしょう。
そうした深い世界を庭であらわしているということが、驚きかなと思いました。
龍安寺石庭を見て、なにを感じるか。
人それぞれ、様々なことが思い浮かぶのでしょう。
そうした深い世界を庭であらわしているということが、驚きかなと思いました。
Posted by なにかな at 2011年07月12日 15:01