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2009年11月05日

紅葉情報・粟生光明寺

 長岡京市西山の麓、粟生広谷にある西山浄土宗の総本山光明寺は、法然上人が43歳の時、日本で最初に念仏の産声をあげた立教開宗の地です。紅葉の名所として知られ、今年はJR東海のCMに取り上げられているのもこのお寺です。
 すでに紅葉が色づき始めていました。私も初めて行きましたが、それは見事ですよ!

紅葉情報・粟生光明寺

 法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
 茂右衛門夫婦は法然の旅の目的が「広く大衆が救われる道を求めての旅」と聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願った。時は流れ承安五年(1175年)3月、浄土宗を開いた法然は20年前の約束通り、粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたのだといいます。

紅葉情報・粟生光明寺

 文治元年(1185年)に、かの源平合戦・一の谷の戦いで、源義経の奇襲部隊に所属し、鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた弓の名手がおりました。名を熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)といいます。
 平家物語の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性や世の無常観を表現する題材として武士の間で好まれ、直実は敦盛とともに主人公として、能の演目「敦盛」、幸若舞の演曲「敦盛」などにに取り上げられています。
 敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
 その時、法然が説いた「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜した直実は、直ちに弟子となり剃髪したといいます。
 法力房蓮生と名付けられた直実は、数年の修行の後、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を得たのだそうです。これが光明寺の発祥といいます。
 では光明寺の名の由来はというと……。
 「第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人が没しました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとしたので、法然の遺弟達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました」(光明寺縁起より)と伝承されています。




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