2009年06月05日
悠久の時を感じてゆっくりとしたい 等持院
京福電鉄の北野白梅町駅から線路の北側を西に行って、一筋北側にひっそりと山門が見えてきます(もちろん、次の等持院駅で降りても良いですが)。この日は、晩春の名残のように、ツツジの刈り込みが明るい庭にまだ映えて、初夏の陽気とあいまってちょっと素敵な趣がありました。

等持院の入口には、日本映画の父とも言われたマキノ省三さんの像があります。長門裕之さんや津川雅彦さんのおじいさんにあたる人。等持院境内に牧野教育映画製作所を設立。後にマキノキネマ株式会社へと名を変え、撮影所は1933(昭和8)年までこの地にあったと言います。像はかつての撮影所の方角を向いているのです。そういえば津川さんは監督の時は、マキノを名乗っておられますね。
庫裏(くり・台所)から方丈へと続く廊下には、達磨大師の大きなついたてがありました。「あれ、これどっかで見たな?」と思われる方もあるのでは。嵐山の天龍寺にも同じものがあります。等持院の正式名称は臨済宗天龍寺派『万年山 等持院』といいます。

天龍寺は、足利尊氏が政敵として追いやり、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の怨霊を恐れて、その鎮魂のために、夢窓国師を開山として創建した禅寺。実は同じ夢窓国師を開山として足利家のために建立したのがこの等持院なんです。
等持院という名称は尊氏の法名そのものです。金閣寺の正式名・鹿苑寺は三代の義満の法名から、銀閣寺の正式名称寺照寺は八代の義政の法名からといった具合に、建立者の法名をとるものが多いですね。
方丈は秀吉子飼いの武将・福島正則建立の妙心寺海福院の方丈を移したものといわれます。その前庭は白砂の庭と唐門や塀とのコントラストがきれいです。
霊光殿の中には、地蔵菩薩を中央に、達磨大師像と夢窓国師像、さらに五代と十四代を除く足利十五代将軍たちの木像となぜか四十二歳の徳川家康像が並びます。
これだけ揃うとまさに圧巻です。一人一人の人格まで彷彿とさせるほど。みんな靴をはいているんですが、家康だけが外に脱いでいます。これもまたミステリアスです。
霊光殿の北側には尊氏の墓がひっそりとたたずんでいます。三条大橋に皇居を向いて土下座している高山彦九郎の像をご存知でしょう。尊皇攘夷派の彼が、尊氏の罪状の数だけ鞭打ったのがこの石塔といわれています。

夢窓国師の作庭と伝わる回遊式庭園には北側の築山に茶室清蓮亭、その下方には、池全体が蓮の形をした芙蓉池が広がっています。
二月の中旬頃から春にかけて、有楽椿もきれいな花を咲かせます。織田信長の弟で、武将としてより茶人として知られる織田有楽斎(うらくさい)が茶花として好んだことから彼の名にちなんで名付けられたという椿。日本の野山に自生するヤブツバキに中国から来たツバキを交配して生まれたといわれています。
足利歴代将軍の遺髪を納めたという十三重石塔や等持院型石灯籠、司馬温公型と呼ばれる手水鉢なども見所です。
さてここではぜひ書院に設けられた抹茶席で抹茶とお菓子を頂いて下さい(一服四百円)。室内から額縁に見たててゆっくりと悠久の時を感じながら庭園を眺めていれば、日常の慌しさから開放されて、こころ静かになれますよ。
等持院 京都市北区等持院北町六十三 〇七五(四六一)五七八六

等持院の入口には、日本映画の父とも言われたマキノ省三さんの像があります。長門裕之さんや津川雅彦さんのおじいさんにあたる人。等持院境内に牧野教育映画製作所を設立。後にマキノキネマ株式会社へと名を変え、撮影所は1933(昭和8)年までこの地にあったと言います。像はかつての撮影所の方角を向いているのです。そういえば津川さんは監督の時は、マキノを名乗っておられますね。
庫裏(くり・台所)から方丈へと続く廊下には、達磨大師の大きなついたてがありました。「あれ、これどっかで見たな?」と思われる方もあるのでは。嵐山の天龍寺にも同じものがあります。等持院の正式名称は臨済宗天龍寺派『万年山 等持院』といいます。

天龍寺は、足利尊氏が政敵として追いやり、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の怨霊を恐れて、その鎮魂のために、夢窓国師を開山として創建した禅寺。実は同じ夢窓国師を開山として足利家のために建立したのがこの等持院なんです。
等持院という名称は尊氏の法名そのものです。金閣寺の正式名・鹿苑寺は三代の義満の法名から、銀閣寺の正式名称寺照寺は八代の義政の法名からといった具合に、建立者の法名をとるものが多いですね。
方丈は秀吉子飼いの武将・福島正則建立の妙心寺海福院の方丈を移したものといわれます。その前庭は白砂の庭と唐門や塀とのコントラストがきれいです。
霊光殿の中には、地蔵菩薩を中央に、達磨大師像と夢窓国師像、さらに五代と十四代を除く足利十五代将軍たちの木像となぜか四十二歳の徳川家康像が並びます。
これだけ揃うとまさに圧巻です。一人一人の人格まで彷彿とさせるほど。みんな靴をはいているんですが、家康だけが外に脱いでいます。これもまたミステリアスです。
霊光殿の北側には尊氏の墓がひっそりとたたずんでいます。三条大橋に皇居を向いて土下座している高山彦九郎の像をご存知でしょう。尊皇攘夷派の彼が、尊氏の罪状の数だけ鞭打ったのがこの石塔といわれています。

夢窓国師の作庭と伝わる回遊式庭園には北側の築山に茶室清蓮亭、その下方には、池全体が蓮の形をした芙蓉池が広がっています。
二月の中旬頃から春にかけて、有楽椿もきれいな花を咲かせます。織田信長の弟で、武将としてより茶人として知られる織田有楽斎(うらくさい)が茶花として好んだことから彼の名にちなんで名付けられたという椿。日本の野山に自生するヤブツバキに中国から来たツバキを交配して生まれたといわれています。
足利歴代将軍の遺髪を納めたという十三重石塔や等持院型石灯籠、司馬温公型と呼ばれる手水鉢なども見所です。
さてここではぜひ書院に設けられた抹茶席で抹茶とお菓子を頂いて下さい(一服四百円)。室内から額縁に見たててゆっくりと悠久の時を感じながら庭園を眺めていれば、日常の慌しさから開放されて、こころ静かになれますよ。
等持院 京都市北区等持院北町六十三 〇七五(四六一)五七八六
Posted by 篠田ほつう at 10:29│Comments(0)
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