2010年11月20日
一休寺
一休寺の境内あちらこちで紅葉が見ごろを迎えています。訪れる人は意外と少なく、穴場といえそうです。

通称一休寺(酬恩庵)は京田辺市薪にあります。薪は観世流や金春流などの四座の能。薪能の発祥の地でもあります。一休さんが京田辺市薪の酬恩庵に移り住んだのは室町時代中期、康正2年(1456年)、63才のころでした。室町時代の文明13年(1481年11月21日)、88才で没するまでの約25年間、酬恩庵は隠棲の地となりました。

とんちやアニメで有名になった一休さん。一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧です。
京都で生まれ、出自は後小松天皇の御落胤説が有力です。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けるものの、讒言により宮中を追われ、一休さんをを生んだといいます 。

6歳から寺に預けられた一休は、早くから詩才に優れ13歳の漢詩『長門春草』、15歳の漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となるほどだったとか。応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(迷いの世界)より無漏路(悟りの世界 )へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かりました。
応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住みませんでしたが再興に尽力したといいます。天皇の寵愛篤く、民衆にも慕われたといわれます。88歳で酬恩庵においてマラリアにより没しました。
臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わっています。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれていますが、宮内庁が御廟所として管理する陵墓となっています。

その一休宗純、実は奇行ともとれるような、言動が多かったのだとか。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いした。

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
一休はその筆や絵に髑髏(どくろ)や骸骨をよく用いました。人はすべて骸骨と同じであることを悟って、現世の空なることを知り、その無相の自己に帰ることをすすめるもの。「権力者も衆上も一皮向けば皆同じ骸骨」といった思いがあったといいます。
こうした行動は、禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったと言われます。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方が民衆の共感を呼び、江戸時代に一休咄に代表されるとんちばなしを生み出す元となったのだそうです。

本殿には木彫りの一休像、また大徳寺までの道のりを弟子たちに担がせたという輿も安置されています。
宝物館には、かみそりをあてず、ざんばら髪で、無精ひげをのばした顔つきは、およそ貴族化した当時の禅僧とは縁遠い姿の一休像があります。また一休作と伝わるどくろの面も収められています。

『一休骸骨』…一休作(と言われている)仮名法語で、様々な人間の生活を思わせる骸骨の群像を描いた挿し絵12葉を間に、道歌をまじえた法語である。

通称一休寺(酬恩庵)は京田辺市薪にあります。薪は観世流や金春流などの四座の能。薪能の発祥の地でもあります。一休さんが京田辺市薪の酬恩庵に移り住んだのは室町時代中期、康正2年(1456年)、63才のころでした。室町時代の文明13年(1481年11月21日)、88才で没するまでの約25年間、酬恩庵は隠棲の地となりました。
とんちやアニメで有名になった一休さん。一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧です。
京都で生まれ、出自は後小松天皇の御落胤説が有力です。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けるものの、讒言により宮中を追われ、一休さんをを生んだといいます 。
6歳から寺に預けられた一休は、早くから詩才に優れ13歳の漢詩『長門春草』、15歳の漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となるほどだったとか。応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(迷いの世界)より無漏路(悟りの世界 )へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かりました。
応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住みませんでしたが再興に尽力したといいます。天皇の寵愛篤く、民衆にも慕われたといわれます。88歳で酬恩庵においてマラリアにより没しました。
臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わっています。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれていますが、宮内庁が御廟所として管理する陵墓となっています。
その一休宗純、実は奇行ともとれるような、言動が多かったのだとか。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いした。
正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
一休はその筆や絵に髑髏(どくろ)や骸骨をよく用いました。人はすべて骸骨と同じであることを悟って、現世の空なることを知り、その無相の自己に帰ることをすすめるもの。「権力者も衆上も一皮向けば皆同じ骸骨」といった思いがあったといいます。
こうした行動は、禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったと言われます。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方が民衆の共感を呼び、江戸時代に一休咄に代表されるとんちばなしを生み出す元となったのだそうです。
本殿には木彫りの一休像、また大徳寺までの道のりを弟子たちに担がせたという輿も安置されています。
宝物館には、かみそりをあてず、ざんばら髪で、無精ひげをのばした顔つきは、およそ貴族化した当時の禅僧とは縁遠い姿の一休像があります。また一休作と伝わるどくろの面も収められています。
『一休骸骨』…一休作(と言われている)仮名法語で、様々な人間の生活を思わせる骸骨の群像を描いた挿し絵12葉を間に、道歌をまじえた法語である。
Posted by 篠田ほつう at 10:41│Comments(0)
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